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2018年8月26日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第22回)

七 国家神道の圧制

軍国神道への展開
 国家神道は、明治憲法体制が明治後期以降、帝国主義へ傾斜していく中で、次なる展開を見せ始める。それは軍事と結びついた言わば軍国神道である。その最初の契機は明治12年に東京招魂社が靖國神社と改称され、実質的に軍が管理する軍立神社となったことにあった。
 旧東京招魂社は元来、幕末維新の戦没者を慰霊する宗教施設として創建された「近代的」な神社という特異な性格を持ち、他の古社とは別格的な軍事的色彩の強い神道施設であった。しかし靖國神社は、たちまちにして皇室からも庇護を受ける特権的な神社となった。
 また、台湾・朝鮮・南洋諸島など植民地の拡大に伴い、一部神道家の反対を押して、これら「外地」にも神社の創建が推進された。このことは、神道が日本の帝国主義的膨張の象徴として意識されていたことを示しており、軍事的な海外進出と神道の結びつきを明確にする政策であった。
 しかし、軍国神道がその姿をはっきりと見せ始めるのは、日中戦争の勃発により、戦時体制に入ってからであった。昭和12年の戦争勃発直前には、文部省がパンフレット「国体の本義」を発行し、この中で神道的に正統化された天皇の神格化を明確にイデオロギーとして示した。
 これに前後して、神社参拝の実質的な義務付けも広がっていく。従来、国家神道は神道を宗教カテゴリーから外しつつ、神道信仰を義務づけることは回避するという巧妙なロジックを採ってきたわけだが、軍国色が強まるにつれ、神社参拝が「臣民の義務」として認識されるようになっていったのだ。
 それを象徴するのが、昭和7年の上智大学生靖國神社参拝拒否事件である。これは上智大学に軍事教練教員として配属されていた陸軍将校が学生を引率し靖國神社を参拝した際、カトリック信者の学生二名が参拝を拒否したことが問題視された事件である。
 「事件」といっても、時の当局は学生を検挙するなどの強硬措置は採らなかったのだが、保守系新聞の批判によりカトリック教会への糾弾が広がり、教会側も信徒の靖國神社参拝を容認する方針を明確にさせられた。これは他宗教が軍国神道に屈服した先例として重要な意味を持つ出来事であった。
 昭和14年には朝鮮でも、神社参拝を認めた教会の方針に反対して参拝拒否運動を起こした2000人の現地カトリック関係者が検挙され、余波として多くの教会が閉鎖される事件も起きており、外地でも同様の事態がより強硬な形で進行していた。
 他方、当局は「身内」のはずの神道系新興宗教への競合的警戒心も隠さず、本来は共産主義者弾圧のために制定された治安維持法を援用して、新興宗教の抑圧にも乗り出した。大正10年と昭和10年の二度にわたった大本教への弾圧はその象徴である。
 神武天皇即位紀元2600年とみなされた昭和15年の紀元二千六百年記念行事は、こうした軍国神道のクライマックスを成す一大国家行事となった。同年には、それまで国家神道の行政実務を担ってきた内務省神社局が神祇院として独立し、改めて国家神道の司令塔と位置づけられた。
 こうして、国家神道の新たな段階である軍国神道は、全体主義的ないわゆる「天皇制ファシズム」の精神的支柱として、その抑圧的な姿を露わにする。そのような状況下で、大日本帝国は昭和16年以降、太平洋戦争・日米戦争へと突入していくのである。

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