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2018年8月19日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第12回)

13 ミラード・フィルモア(1800年‐1874年)

 ミラード・フィルモアは、前任テイラー大統領の急死を受け、副大統領から第13代大統領に昇格した。副大統領からの自動昇格としては、第10代タイラーに次いで史上二例目である。
 フィルモアは歴代大統領としては珍しく、ニューヨーク州の小作人の生まれであり、ブルジョワ階級出自が圧倒的に多い歴代アメリカ大統領中最も貧しい出自を持つ稀有の人物である。そうした生まれのため、正規の学校教育を受ける機会がなく、10代で徒弟に出された。
 しかし、判事の下で事務官の職を得たことを契機に、当時の制度上可能だった見習いから弁護士資格を取得する方法により、ニューヨーク州で法律事務所を開業した。短い法曹経験の後、政界に転身し、20代でニューヨーク州下院議員、30代で連邦下院議員に当選、40代にして副大統領、50代で大統領と立身していったフィルモアは「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあった。
 フィルモアが1848年大統領選に際してホイッグ党から副大統領に指名されたのは、彼が非奴隷制州であるニューヨーク州を地盤としていながら、南部の奴隷制に反対しないという妥協姿勢が、北部の支持を得られにくいテイラー大統領の支えとして最適とみなされたからであった。
 このような「北部出身の保守派」というフィルモアの立場は大統領となっても変わらず、テイラー政権時代に持ち上がったいわゆる1850年協定という政治的妥協を成立させるうえでも、副大統領時代から引き続いて重要な役割を果たした。
 この協定には、逃亡奴隷の拘束・返還を認める逃亡奴隷法という悪法も含まれたが、フィルモアは奴隷制度が反キリスト的であると認めがらも、南部を慰撫し、合衆国の統一を優先する道を選ぶ“現実主義者”であった。ある意味では、典型的に政治的な人物であったのだ。
 妥協策の名手だったフィルモアは、国内の領土拡張に関しても、就任翌年の1851年にララミー砦条約を締結し、西部の広大な領域を先住民勢力から割譲させることに成功した。
 外交政策の面では、ペリー提督を日本へ派遣し、開国へ向けた外圧を加えた“功績”を持つ。これはその後のアメリカ外交を特徴付ける砲丸外交の初期の成功例の一つとなった。またハワイをフランスの干渉から守るなど、アジア太平洋地域におけるアメリカの覇権追求の先鞭を付けた人物でもあった。
 こうした“実績”を誇張することが不得手だったフィルモアは1852年大統領選で自党の指名を獲得することに失敗し、再選されることなく退任を余儀なくされた。その悔いからか、退任後のフィルモアは当時増加していたカトリック教徒の移民排斥を訴える秘密結社「ノウ・ナシング運動」に傾倒する。
 そして、この運動を基盤に結党された極右政党アメリカン党の候補者として1856年大統領選に改めて出馬するも、敗退した。とはいえ、この移民排斥運動は今日のトランプ反移民政策にもつながる萌芽であり、三位に終わったフィルモアが20パーセント余りの得票率を記録したことは記憶されてよいかもしれない。
 全般的に後世の評価は低いフィルモアであるが、親奴隷制・征先住民・反移民というアメリカ合衆国における白人優越主義的な暗部―ある種の人々にとっては光明―を象徴する大統領だったと言えるかもしれない。

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