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2018年8月

2018年8月29日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第28回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

北米のアフリカ黒人
 大西洋奴隷貿易における黒人奴隷の輸出先は北アメリカにも及んだが、カナダでは黒人奴隷制が普及せず、北アメリカ奴隷制における圧倒的中心は今日のアメリカ合衆国、それもバージニア州に代表される南部に置かれた。
 奴隷貿易が合法的に行なわれていた17世紀から19世紀半ばまでの200年間ほどで今日のアメリカ合衆国を構成する植民地に送り込まれた黒人奴隷の総数は推計で60万人余りと見られる。
 これは大西洋奴隷貿易で南北両アメリカ大陸に輸出された黒人奴隷のうち5パーセント程度にすぎないが、その多くが南部植民地のプランテーション農園に投入され、独立後も南部諸州に引き継がれた。
 アメリカ奴隷制の南北格差は非常に大きく、南北戦争前の奴隷制末期の段階で、北部の黒人人口―当時奴隷は「動産」扱いのため、正式の「人口」には含まれなかったが―北部で1パーセントだったのに対し、南部では人口の三分の一にまで達していた。
 アメリカ黒人奴隷制の特徴は州ごとに法令によって整備されていったこと、逃亡防止のための監視が極めて厳格であったことから、中南米に比べても逃亡奴隷の共同体が形成されにくかったことである。例外として、当時スペイン領だったフロリダへ逃亡し、先住民に服属しつつ、自治的な共同体を形成したブラック・セミノールがある程度である(拙稿参照)。
 ちなみに逃亡奴隷ではないが、主としてサウスカロライナからジョージアにかけての沿岸部に自治的な共同体を形成した黒人奴隷集団がある。出身地の一つであるアンゴラに由来してガラ人と呼ばれたこの集団は、この地域の白人農園主が風土病をもたらす暑い気候を嫌って不在地主の形態を採った結果、自治的に農園管理をするようになったことに由来する。
 ガラ人は出身地のアフリカから持ち込んだ米作技術を応用して、この地域をアメリカ有数の米産地とすることにさえ成功した。かれらは文化的にもアフリカ独自のそれを維持し、アメリカでは珍しいクレオール文化と言語(ガラ語)を発達させた。
 こうした例外はあるものの、一般の黒人奴隷は何世代にもわたり従属した立場に置かれた結果として、言語文化的にも白人社会に同化させられ、出身地の言語文化は忘却された。その代わり、英語を話す白人のキリスト教文化と黒人の音楽的感性が融合された黒人霊歌のような新たな文化が形成されたのである。

2018年8月26日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第22回)

七 国家神道の圧制

軍国神道への展開
 国家神道は、明治憲法体制が明治後期以降、帝国主義へ傾斜していく中で、次なる展開を見せ始める。それは軍事と結びついた言わば軍国神道である。その最初の契機は明治12年に東京招魂社が靖國神社と改称され、実質的に軍が管理する軍立神社となったことにあった。
 旧東京招魂社は元来、幕末維新の戦没者を慰霊する宗教施設として創建された「近代的」な神社という特異な性格を持ち、他の古社とは別格的な軍事的色彩の強い神道施設であった。しかし靖國神社は、たちまちにして皇室からも庇護を受ける特権的な神社となった。
 また、台湾・朝鮮・南洋諸島など植民地の拡大に伴い、一部神道家の反対を押して、これら「外地」にも神社の創建が推進された。このことは、神道が日本の帝国主義的膨張の象徴として意識されていたことを示しており、軍事的な海外進出と神道の結びつきを明確にする政策であった。
 しかし、軍国神道がその姿をはっきりと見せ始めるのは、日中戦争の勃発により、戦時体制に入ってからであった。昭和12年の戦争勃発直前には、文部省がパンフレット「国体の本義」を発行し、この中で神道的に正統化された天皇の神格化を明確にイデオロギーとして示した。
 これに前後して、神社参拝の実質的な義務付けも広がっていく。従来、国家神道は神道を宗教カテゴリーから外しつつ、神道信仰を義務づけることは回避するという巧妙なロジックを採ってきたわけだが、軍国色が強まるにつれ、神社参拝が「臣民の義務」として認識されるようになっていったのだ。
 それを象徴するのが、昭和7年の上智大学生靖國神社参拝拒否事件である。これは上智大学に軍事教練教員として配属されていた陸軍将校が学生を引率し靖國神社を参拝した際、カトリック信者の学生二名が参拝を拒否したことが問題視された事件である。
 「事件」といっても、時の当局は学生を検挙するなどの強硬措置は採らなかったのだが、保守系新聞の批判によりカトリック教会への糾弾が広がり、教会側も信徒の靖國神社参拝を容認する方針を明確にさせられた。これは他宗教が軍国神道に屈服した先例として重要な意味を持つ出来事であった。
 昭和14年には朝鮮でも、神社参拝を認めた教会の方針に反対して参拝拒否運動を起こした2000人の現地カトリック関係者が検挙され、余波として多くの教会が閉鎖される事件も起きており、外地でも同様の事態がより強硬な形で進行していた。
 他方、当局は「身内」のはずの神道系新興宗教への競合的警戒心も隠さず、本来は共産主義者弾圧のために制定された治安維持法を援用して、新興宗教の抑圧にも乗り出した。大正10年と昭和10年の二度にわたった大本教への弾圧はその象徴である。
 神武天皇即位紀元2600年とみなされた昭和15年の紀元二千六百年記念行事は、こうした軍国神道のクライマックスを成す一大国家行事となった。同年には、それまで国家神道の行政実務を担ってきた内務省神社局が神祇院として独立し、改めて国家神道の司令塔と位置づけられた。
 こうして、国家神道の新たな段階である軍国神道は、全体主義的ないわゆる「天皇制ファシズム」の精神的支柱として、その抑圧的な姿を露わにする。そのような状況下で、大日本帝国は昭和16年以降、太平洋戦争・日米戦争へと突入していくのである。

2018年8月19日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第12回)

13 ミラード・フィルモア(1800年‐1874年)

 ミラード・フィルモアは、前任テイラー大統領の急死を受け、副大統領から第13代大統領に昇格した。副大統領からの自動昇格としては、第10代タイラーに次いで史上二例目である。
 フィルモアは歴代大統領としては珍しく、ニューヨーク州の小作人の生まれであり、ブルジョワ階級出自が圧倒的に多い歴代アメリカ大統領中最も貧しい出自を持つ稀有の人物である。そうした生まれのため、正規の学校教育を受ける機会がなく、10代で徒弟に出された。
 しかし、判事の下で事務官の職を得たことを契機に、当時の制度上可能だった見習いから弁護士資格を取得する方法により、ニューヨーク州で法律事務所を開業した。短い法曹経験の後、政界に転身し、20代でニューヨーク州下院議員、30代で連邦下院議員に当選、40代にして副大統領、50代で大統領と立身していったフィルモアは「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあった。
 フィルモアが1848年大統領選に際してホイッグ党から副大統領に指名されたのは、彼が非奴隷制州であるニューヨーク州を地盤としていながら、南部の奴隷制に反対しないという妥協姿勢が、北部の支持を得られにくいテイラー大統領の支えとして最適とみなされたからであった。
 このような「北部出身の保守派」というフィルモアの立場は大統領となっても変わらず、テイラー政権時代に持ち上がったいわゆる1850年協定という政治的妥協を成立させるうえでも、副大統領時代から引き続いて重要な役割を果たした。
 この協定には、逃亡奴隷の拘束・返還を認める逃亡奴隷法という悪法も含まれたが、フィルモアは奴隷制度が反キリスト的であると認めがらも、南部を慰撫し、合衆国の統一を優先する道を選ぶ“現実主義者”であった。ある意味では、典型的に政治的な人物であったのだ。
 妥協策の名手だったフィルモアは、国内の領土拡張に関しても、就任翌年の1851年にララミー砦条約を締結し、西部の広大な領域を先住民勢力から割譲させることに成功した。
 外交政策の面では、ペリー提督を日本へ派遣し、開国へ向けた外圧を加えた“功績”を持つ。これはその後のアメリカ外交を特徴付ける砲丸外交の初期の成功例の一つとなった。またハワイをフランスの干渉から守るなど、アジア太平洋地域におけるアメリカの覇権追求の先鞭を付けた人物でもあった。
 こうした“実績”を誇張することが不得手だったフィルモアは1852年大統領選で自党の指名を獲得することに失敗し、再選されることなく退任を余儀なくされた。その悔いからか、退任後のフィルモアは当時増加していたカトリック教徒の移民排斥を訴える秘密結社「ノウ・ナシング運動」に傾倒する。
 そして、この運動を基盤に結党された極右政党アメリカン党の候補者として1856年大統領選に改めて出馬するも、敗退した。とはいえ、この移民排斥運動は今日のトランプ反移民政策にもつながる萌芽であり、三位に終わったフィルモアが20パーセント余りの得票率を記録したことは記憶されてよいかもしれない。
 全般的に後世の評価は低いフィルモアであるが、親奴隷制・征先住民・反移民というアメリカ合衆国における白人優越主義的な暗部―ある種の人々にとっては光明―を象徴する大統領だったと言えるかもしれない。

2018年8月11日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第27回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

ジャマイカ半革命とハイチ革命
 前回の末尾で言及したように、ジャマイカでは逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて反英闘争を展開し、限定的ながら自治権を獲得した。その後、ジャマイカでは1831年に奴隷かつバプティスト教会説教師のサム・シャープが主導する奴隷反乱が発生した。
 この反乱自体は短時日で鎮圧されたが、キリスト教徒によって主導された反乱を重く見た英国本国議会は、1833年、奴隷制度廃止法を制定、ジャマイカ黒人は法的に自由人となった。
 こうしたジャマイカでは、明確な革命の形ではないものの、世紀をまたいだ奴隷の闘争を経て自由を勝ち取るという半革命が成就したと言える。とはいえ、黒人の「自由」は貧困と同義であって、人口の圧倒的多数を占める黒人は形式上参政権を与えられながらも、有料投票制などの仕組みに妨げられ、選挙過程からは排除されていた。
 こうした状況下で1865年、やはり黒人のバプティスト派牧師ポール・ボーグルが反乱を起こした。これも短時日で鎮圧され、ボーグルと徒党は処刑された。事件地にちなみ「モラント湾事件」と呼ばれる反乱は本国でもその鎮圧行動の残酷さが論争を招き、ジャマイカの自治権剥奪・直轄植民地化の契機ともなったが、政治から排除された黒人の地位は19世紀を通じて変わらなかった。
 他方、フランス領のサン‐ドマング(ハイチ)では独立革命というより劇的な展開が見られた。その経緯については『奴隷の世界歴史』で触れたので繰り返さず(拙稿参照)、ここでは革命の舞台となったハイチの特殊性について見ておく。
 ハイチは大西洋奴隷貿易における奴隷の輸出先の最も中心的な場所であったため、主として西アフリカ出身の多数のアフリカ黒人が送り込まれ、ハイチ生まれの黒人も増加していった。結果として、ここでは西アフリカの文化―特にブードゥー教のような宗教文化―と言語が色濃く定着し、フランス語をベースとした典型的なクレオール言語が共通語となった。
 それとともに、ハイチに定住したフランス人農園主は黒人奴隷を愛人として子孫を残すケースが多かったことから、白人と黒人の混血ムラートという自由人階層が誕生し、自身も奴隷主であるような中間層を形成するようになった。また黒人奴隷の個別的な解放の結果、ムラートと合わせた「自由有色人」という新階層が形成された。
 こうした下地の上に、本国におけるフランス革命が影響し、ハイチ革命と史上初の黒人共和国の誕生という歴史的なエポックが実現したのである。
 もっとも、この新生ハイチ共和国のその後の歩みは平坦でなく、常に国家破綻危機と隣り合わせであった。その展開については、別連載『ハイチとリベリア』で詳論したので、そちらに譲る。

2018年8月 6日 (月)

熱波の警告

 世界中で熱波の被害が広がっている。「禍」と冠するべき明らかな異常気象であり、しかも自然的な要因のみならず、人為的な要因を抜きにしては想定し難い異常さである。
 異常気象被害の中でも海面上昇や洪水は、低地に集住する貧困層や一般労働者階層に集中して生じやすいとも言われる。しかし、熱波の被害は住む場所を問わず階級的に「平等」である。
 もっとも、冷房完備の邸宅・移動手段を利用しやすい富裕層は、熱波からの自衛上有利な立場にあるとも言えるが、年齢や既往歴などを考慮すれば必ずしも決定的な有利さではない。
 この期に及べば、党派を超えて環境破壊的な市場経済からの決別を考えてもよいものだが、そうした議論はいまだに低調である。
 他方、世界最大級の二酸化炭素排出国アメリカでは、気候変動の用語すら検閲削除しようとする強硬な反環境主義政権が出現し、大衆の喝采を浴びている有様である。
 熱波に斃れても、最期の瞬間まで金銭的利益を追求したいホモ・サピエンスの動物的な衝動なのであろうか。
 しかし、ホモ・サピエンスが文字どおり「知恵あるヒト」ならば、市場経済はその本質上、環境的に持続可能でないという展望にそろそろ目覚めてもよい頃である。
 そうして熱波を自然からの警告ビームと受け止め、改めて環境的に持続可能な計画経済の可能性を探ることである。標語的に言えば、熱波禍から計画経済へ!である。

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