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2018年7月

2018年7月28日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第21回)

七 国家神道の圧制

「神道=非宗教」テーゼ
 神道を宗教として公式に国教化することを早々と断念した明治政府であったが、神道のイデオロギー化そのものを放棄したわけではなかった。たしかに神道は表向き国教として打ち出されなかったが、その代わりに「神道は宗教に非ず」というテーゼが捻出されたのである。
 これは神道を宗教のカテゴリーからあえて外すことによって、一般宗教を越えた「超宗教」として国家の統一イデオロギーに昇華させんとする奇策であった。この概念操作により、明治政府は文言上信教の自由を認める近代憲法(明治憲法)ともロジック上は矛盾することなく、神道を優位に置くことができたのである。
 実際、憲法上「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)という文言の下に、信教の自由に広範な制限を設けつつも、神道信仰の義務は明示しないという巧妙な策により、暗黙の神道国教化が図られたことである。
 こうした周到な用意の下、神道は国家丸抱えの特権宗教としての地位を獲得した。神社は国家の管理下に置かれ、新たな社格制度が導入されたが、皇室直属とも言える伊勢神宮には社格外の地位が認められ、伊勢神宮神職は官吏としての神官の身分が与えられた。
 さらに、明治維新以来実施されてきた神仏分離・廃仏毀釈―実質的な廃仏政策―の徹底とともに、明治末期には神社合祀令に基づく神社の統廃合(一町村一社原則)が推進された。これには一宗教施設を越えた国家イデオロギーの象徴となった神社を整理することで、国の統制及び地方公共団体による財政援助をも容易にする狙いがあった。
 他方で、「神道=非宗教」テーゼのロジックを踏襲するため、宗教としての教派神道と非宗教としての国家神道が分離された。その結果、政府が所管する官国弊社の神職は神葬祭(神道式葬儀)の主宰を禁じられるなど、「祭教分離」により神職が宗教的活動を制約されるという皮肉な矛盾も抱え込んだ。
 さらに教育の場では、文部省訓令により宗教教育が禁止された。一見して近代的な教育世俗化政策の表れに見えるこの施策の裏には、国家神道政策の妨げとなる他宗教の教宣を封じる狙いが込められていた。
 こうした暗黙の神道国教化政策という巧妙な裏道を設けることで、明治憲法体制は国家が国民を洗脳操作する強力な手段を獲得することに成功したと言える。この国家神道政策は天皇を至上とする政体=国体の支柱として固まり、軍国主義への国民動員にもつながっていく。

2018年7月25日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第11回)

12 ザカリー・テイラー(1784年‐1850年)

 公約どおり一期のみで退任したポーク大統領の後を受けて第12代大統領となったのは、反対党ホイッグ党のザカリー・テイラーであった。テイラーは南部奴隷州の中心・バージニア州の奴隷農園主の生まれながら、一家がケンタッキーの辺境地へ開拓移住したことで、十分な教育は受けられなかった。
 そこでテイラーは軍に入隊し、以後40年にわたり軍人一筋に歩んだ。その軌跡は同じ党から出た第9代ハリソン大統領に似ている。テイラーの戦績は米英戦争に始まり、ブラックホーク戦争、セミノール戦争、米墨戦争等々、19世紀前半期アメリカが当事国となった重要な戦争のほぼすべてに及んだ。
 これらの戦争の多くは先住民殲滅作戦を伴っており、それを中心的に指揮したのがテイラーであった。南部領土を拡張した米墨戦争では、時のポーク大統領から司令官として派遣され、大統領命令に反してまでメキシコ軍を深追いして戦勝に大きく貢献、少将に昇任した。
 このようなアメリカの歴史を変える侵略戦争の戦歴者はアメリカ白人にとってはヒーローそのものであり、大統領選挙に引っ張り出されるに十分であった。特に政権奪還を目指していたホイッグ党にとって、テイラーはハリソンの再来と映ったろう。
 テイラーは選挙でもあえて自己投票しないほど政治的野心がない人物であり、すべて党の膳立てどおりに動き、当選を果たした。しかし、大統領に就任すると、議会から距離を置き、党派争いに巻き込まれることを避けた。
 彼の任期中最大の課題は、彼が戦勝に寄与した米墨戦争の結果獲得した南部新領土の扱いをめぐるものであった。つまり、奴隷制を新領土に拡大するかどうかである。テイラーは自ら奴隷所有者でありながら、奴隷制拡大には反対であった。
 与党内でも議論が紛糾したこの問題は、テイラーが今日コレラと推定されている急病で死去した後、「1850年協定」と呼ばれる政治的妥協策で当面解決されることとなった。
 この協定の結果、新領土のカリフォルニア州は奴隷制なしの自由州となる一方、他の新領土は奴隷制を導入できることとなった。テイラーはこのような妥協に反対していたが、彼の急死を受けて副大統領から昇格したミラード・フィルモアによって承認された。
 結局、史上最短で任期中急死したハリソンの再来よろしく、在任一年余りの道半ばで死去したテイラーであったが、奴隷所有者としては史上最後のアメリカ大統領となった。意図したものではなかったとはいえ、奴隷制に関しては、結果的に「白歴史」を残したと言えるかもしれない。

2018年7月18日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第26回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈2〉
 カリブ海島嶼も大西洋奴隷貿易によって送り込まれたアフリカ黒人の「輸出」先として、代表的な地域である。中でも今日ドミニカ(共和国)とハイチが分け合っているイスパニョラ島は、スペインによるアメリカ大陸初の植民地―サントドミンゴ―となった記念すべき場所である。
 当初、スペインは先住民族タイノを奴隷化して金鉱山で酷使したが、かれらが激減すると、アフリカ黒人を奴隷として連行し、先住民奴隷に置換する政策に転換した。折りしもサトウキビのプランテーションが導入されると、黒人奴隷はプランテーション労働力として使役されたのである。
 しかし、スペインの領土的関心は次第にメキシコ以南の中南米大陸部に移っていき、イスパニョラ島の統治は弱化していった。その間隙を突き、新興のフランスが侵出の手を伸ばす。フランスは1659年以降、イスパニョラ島の侵略を開始し、やがて島西部の領有を宣言、1697年のライスワイク条約をもって島の西部三分の一ほどが正式にフランス領土となった。
 このフランス領サン‐ドマング(後のハイチ)はたちまちにして砂糖、コーヒー、タバコ等多角的なプランテーション経営で繁栄し、18世紀にはこの小さな島がフランス海外植民地の中でも最も富裕な場所となった。それを支えたのが黒人の奴隷労働であり、当地は18世紀大西洋奴隷貿易の一大中心地ともなったのである。
 黒人奴隷はサン‐ドマング人口の大半を占めながら、フランス政府が制定した黒人法という人種差別法制によってその劣悪な境遇が法的に正当化されていた。これに対抗して、ここでも逃亡奴隷マウォン(マルーン)が自立化した。
 しかし、ハイチのマウォンは、ブラジルのマルーンとは異なり、国家的な共同体を作らず、ゲリラ的組織として白人農園の襲撃などのテロ活動を展開した。このハイチ・マウォンのゲリラ活動はやがて史上初の黒人共和国の樹立を実現した革命へとつながっていくが、ハイチ革命に関しては後に別稿をもって改めて見ることにする。
 一方、イングランドも17世紀以降、カリブ海域への入植活動を活発化させており、セントクリストファー島を皮切りに続々とカリブ海島嶼を征服し、黒人奴隷を使役したプランテーションを営んだ。清教徒革命を成功させたクロムウェルはイスパニョラ島の征服をももくろんだが、これに失敗すると、当時スペイン領だったジャマイカを攻略・征服した。
 ジャマイカでも逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて戦争規模の反英闘争を展開する中で、限定的ながら自治権を獲得した。ジャマイカのマルーンによる抵抗戦争は最終的に19世紀初頭、英国が奴隷貿易廃止にいち早く踏み切る契機ともなったことで、半革命的な性格を持った(後述)。

2018年7月14日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第20回)

七 国家神道の圧制

王政復古と神道
 幕末倒幕運動の精神的・宗教的なバックボーンとなったのは、復古神道ないしはそれの直接間接の影響下にある神道思想であった。このことが、近代化革命としての歴史的意義を持つ明治維新をして、他方では王政復古・祭政一致という反近代的な形態をまとった反動革命という両義的な「革命」たらしめたと言える。
 明治維新における革命宣言とも言える「王政復古の大号令」には神道に関わる直接の言及はないが、明治政府はいち早く旧律令制下で神道行政を担った神祇官を復活させ、内閣に相当する太政官からも独立した筆頭官庁とした。そのうえで、明治三年には「大教宣布の詔」を発布した。
 この明治天皇の名による新たな詔書は大号令では言及されなかった神道の位置づけを明確にした重要文書であり、神道を国教とし、神道でもって国民のイデオロギー的統一を図る祭政一致国家を建設せんとする国家神道宣言と呼ぶべき内容を伴っていた。
 その目的を達成すべく、明治政府はキリスト教の布教方法にならってか、神道布教に専従する「宣教使」なる専門官庁を神祇官の下に設けたが、神道学派間の対立や依然として儒教重視の地方藩の反発などもあり、失敗に終わった。
 またこのような宗教統一政策は当然にも、従来神道を押しのける勢力を保持してきた仏教界の反発を招いた。彼らの巻き返しにより、国民教化は神・儒・仏の合同布教という折衷的な路線に転換され、国民教化を任務とする教部省なる官庁が新設された。
 そのうえで、国民教化を担う中央教宣組織として大教院を設置し、正式に任命された教導職をして国民教化に従事させるという新体制が用意された。しかし、このような半端な妥協策に持続性はなく、大教院が廃止解散されたのに続き、教部省そのものも廃止されることとなった。
 明治十年以降、宗務行政は内政庶務を担う内務省の所管に移された。結局のところ、神道を国教と位置づけつつ、宗教として正面から教宣するという明治政府の施策は失敗に終わったと言える。このことは通常、明治政府が神道の国教化を断念したものと受け止められているが、実際のところ、明治政府のやり方はもっと巧妙だったのである。

2018年7月 7日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第10回)

11 ジェームズ・ノックス・ポーク(1795年‐1849年)

 第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークは、アメリカの歴史上最も知名度の低い大統領かもしれない。ポークは弁護士となった後、下院議員・議長やテネシー州知事を歴任したアメリカではよくある履歴を持つベテラン政治家であったが、民主党から大統領候補に指名された時には全国的に無名に近い存在であった。
 彼が立候補した1844年大統領選では旧メキシコ領土のテキサス併合問題が大きな争点となっていた。この時、民主党から大統領返り咲きを目指していた元大統領ヴァン・ビューレンは「良識派」としてテキサス併合に反対したが、このことをめぐって民主党主流派の反発を買ったヴァン・ビューレンが指名を失ったため、代替候補として急遽立てられたのがポークであった。
 ポークはノースカロライナ州の奴隷所有農場主の家に生まれ、自身も父から奴隷を相続した奴隷所有者であった。そのため、ポークは一貫して南部奴隷州の擁護者であり、南部に基盤を持つ民主党にとっては知名度のなさを差し引いても好都合な候補者であった。
 本選挙でポークの対抗馬となったのは、より知名度の高いホイッグ党のヘンリー・クレイであった。彼は1824年以来、たびたび大統領選に挑戦してきた「常連」であった。クレイ陣営はポークの知名度のなさを揶揄する作戦で攻撃したが、僅差で勝利したのはポークであった。
 ポークは大統領就任に当たり、再選は目指さないことを公約し、それを守ったことで政治野心のなさを示したが、一期だけのポーク政権最大の“成果”は、米墨戦争の勝利であった。米墨戦争はテキサス州併合問題を契機として勃発した国境紛争であった。
 自身の再選には野心を示さなかったポーク大統領であるが、アメリカ領土の拡張に関しては、テキサス州の州境を拡張しようとする野心を隠さなかった。そのことが元々国境線が曖昧だった隣国との武力衝突を招いたのだ。
 彼の任期中の多くを費やした戦争で、ポークはアメリカに勝利に導いた。戦果として、広大なカリフォルニアを獲得したほか、戦争を終結させたされたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコ側に領土の三分の一程度を割譲させることに成功した。
 こうしてポーク大統領は現在、トランプ現職が「壁」を建設しようとしている米墨国境線の基礎を築いた“功労者”なのである。その代償であるかのごとく、ポークは大統領退任後、わずか三か月で急死することとなった。死因はコレラと見られている。

 

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