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2018年6月13日 (水)

「平穏死」と医学

 以前の当連載で「平安死」について書いた。「平安死」とは、通常は「安楽死」という不当な名称で呼ばれている死に方を我流に言い換えたものであったが、これと紛らわしいのが「平穏死」である。

 「平穏死」は病で終末期にある人が延命治療を受けずに、自然の死の経過に委ねることをいい、正式な医療用語ではないが、一部の医師の提唱により実践が始められている。「平安死」との決定的な違いは、致死性薬物によって人為的に死をもたらすのではなく、自然の死の経過に委ねる点である。

 そのため、「平安死」は末期癌その他の重病で治療回復不能となった人について問題となるのに対し、「平穏死」は主として老衰期の高齢者について問題となることが多い。

 「平安死」は患者本人の明白な意思表示に基づくことが絶対条件であり、他者の意思によって実行された場合は、たとえそれが近親者であっても法的に殺人罪そのものである。しかし、「平穏死」の場合、当該の高齢者がすでに意思表示できなくなっているため、近親者の要望に基づくことが多い。

 しかし、本人の壮健時の意思が不明な場合に、近親者の意思だけで「平穏死」させることには不穏さも残る。「平穏死」は当該の高齢者が老衰期にあり、特に経口摂取不能であり、経管栄養処置によらない限り、延命できない状態に達したことが前提条件となる。

 このような老衰状態の判定は、医師及び言語聴覚士による厳格な判断基準によって厳正になされる必要がある。その判定が不確かであると、「平穏死」は「放置死」となり、保護責任者遺棄致死か、最悪殺人罪に問われかねないことになる。

 その点、従来から議論される「尊厳死」が主に昏睡瀕死状態での人工呼吸器の装着に関して問題となるのに対し、「平穏死」はもっと死の手前の段階での延命処置の当否が問題となることからしても、専門医による客観的な判定のガイドラインが必要であろう。

 やや疑問を覚えるのは、「平穏死」を提唱している医家らが、医学的な判断よりも、人は無理な延命をせず、平穏に死すべきといった死生観ないし生命倫理を優先しているように見えることである。生死に関わる問題にそうした哲学が絡むことはすべてに共通だが、医療現場で実践するには、医学的な判断が優先されるべきはずだ。

 「平穏死」の提唱者は日本では盛んに実施されている胃ろうに代表されるような経管栄養処置に批判的であるが、これも「管につながれて生かされるのはかわいそうだから」というような感情論ではなく、それらの処置に延命効果が実際どの程度あるのかという医学的な検証によって可否の答えを出さなければならない。

 「管につながれて生かされるのはかわいそう」という感情論を拡大すれば、経管栄養処置が日常不可欠な先天性障碍者(児)も「平穏死」させたほうがよいということになりかねず、これではナチス的な強制安楽死の思想とリンクしてしまう恐れもあるのである。

 上述のような医学的な諸問題が解決しない間は、「平穏死」は「平安死」の場合ほど明白でなくとも、本人の事前意思表示が確認できる場合に限定しておかざるを得ないのではないかと考える次第である。


[追記]
筆者は「平穏死」に否定的なわけではない。むしろ老衰期高齢者に効果も不確かな延命処置を施す日本的慣習は、病院経営を優先した患者不在医療の一環ではないかとの疑いを持つ。客観的なガイドラインに基づく限り(絶対条件)、「平穏死」は老衰期高齢者への最も人道的な終末期ケアになるかもしれない。ただし、「平穏死」の場所確保という問題の解決も必要であることについては、別稿で論じた。

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