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2018年6月

2018年6月30日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第25回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈1〉
 大西洋奴隷貿易によって奴隷として送り込まれたアフリカ黒人たちが集中したのは、中南米(ラテンアメリカ)地域であった。初期の大西洋奴隷貿易はポルトガルが主導したため、ポルトガル植民地であったブラジルに送り込まれた奴隷が多かった。
 1500年代からおよそ三世紀にわたって続いたブラジル黒人奴隷制において、ブラジルに送り込まれた黒人の総数は400万人とも言われ、現在でもブラジル人口の約7パーセントをアフリカ黒人系が占めているところである。
 ブラジルの黒人奴隷は金鉱労働者のほか、砂糖、タバコなどのプランテーション労働者として使役された。かれらの出自も遺伝子系統の研究調査によって次第に判明してきているが、主としてオヨやダホメなどアフリカ西海岸の奴隷供給諸国から送り込まれた西アフリカのヨルバ族系と、アンゴラやコンゴから送り込まれたバントゥー系に大別される。
 ヨルバ族系奴隷の間では、アフリカから持ち込まれた部族宗教にカトリックや先住民信仰などが習合して形成されたカンドンブレと呼ばれる民間信仰儀礼が発展し、今日までアフリカ系人口の多い北東部を中心に保持されている。
 今日ブラジルの民族舞踊として著名なサンバも、北東部のアフリカ黒人奴隷が伝統的な舞踊に西洋舞踊の要素を取り込んで形成した舞踊音楽と考えられている。カポエイラのようにアフリカ伝統の格闘技と組み合わさった舞踊音楽もまた、アンゴラ人奴隷が発祥させたと言われる。このように、ブラジルのアフリカ黒人たちはブラジル独自の文化の形成にも寄与した。
 他方で、アフリカ人奴隷の置かれた重労働に虐待的な懲罰という過酷な状況は、多くの逃亡奴隷マルーンを生んだ。逃亡奴隷はブラジル各地でキロンボと呼ばれる共同体を形成して独自の自給自足ないし相互交易を行い、またしばしば白人プランテーションを襲撃・略奪した。
 中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは、キロンボの連合拡大により最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家に発展した。カポエイラは、パルマーレス戦士の戦闘術でもあった。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、一世紀近い歴史を閉じた。

2018年6月23日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第19回)

六 復古神道への道

垂加神道と復古神道
 林羅山が広めた神儒合一論は幕藩体制下の御用宗教となり、体制との密着性を強めたが、それは当然にも幕府支配の正統性を根拠づけることに狙いがあった。これに対する反発は同じ神儒合一論内部から現れた。山崎闇斎の創始した垂加神道がその初例である。
 闇斎は羅山と同様に浪人の子であったが、羅山とは異なり、体制に密着することはせず、在野の儒学者の立場にとどまった。彼の垂加神道も神儒合一論の亜種とはいえ、天照大神に対する信仰を中心に置き、その子孫たる天皇が統治する道こそが神道なりと説いた点で、復古神道につながる要素を包蔵していた。
 しかし、闇斎の生きた17世紀は江戸幕府の体制確立期でもあり、垂加神道が時代の波に乗ることはなく、在野の思想に終わった。しかしその影響は次の18世紀、尊王論という形を取って確実に結実した。闇斎の孫弟子に当たる竹内敬持は京の公家たちに垂加神道を講義したことで幕府に睨まれ、宝暦事件及び明和事件という二つの尊王派弾圧事件に連座して流刑に処せられた。
 江戸幕府全盛期とも言える18世紀に神道と結びつけて尊王論を提唱することは、政治的に危険な企てであった。しかし、国学という文芸論の形でならば幕府の検閲を潜り抜けることが可能であった。国学集大成者の本居宣長が弾圧されることなく生涯を終えた所以である。しかし、彼のキー概念である「神ながらの道=古道」には、神道的要素が内包されていた。
 そうした本居国学の密かな宗教的要素を実際に神道として抽出昇華させたのが、本居に傾倒した平田篤胤である。篤胤は本居の門弟ではなく、その没後に私淑したにすぎないが、本居の「神ながらの道=古道」をベースに、儒教や仏教を排除した純粋の日本神道の復活を提唱したことから、その流派は復古神道と呼ばれる。
 晩年の篤胤は自身の著作を上皇や天皇に献上するなど、朝廷への接近を図ったが、幕府の暦制を批判したため、江戸追放、著述禁止という弾圧処分を受けた。しかし、復古神道は尊王論を神道的に裏づけ、篤胤の死後、尊皇攘夷論に基づく倒幕運動に精神的な影響を及ぼした。
 また、篤胤は膨大な著作の一部を大衆にも向けたことから、彼の思想は識字層の町人や豪農といった庶民階級にも浸透し、幕末倒幕運動の土俗的なベースを形成した。こうして、復古神道は反体制の政治と強く結びついて、幕藩体制を揺さぶることになるのである。

2018年6月16日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第9回)

9 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1773年‐1841年)

 ジャクソニアン・デモクラシーの脆弱な継承者・第8代ヴァン・ビューレン大統領を破り、新たな時代を拓いたのは9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンである。ニューヨーク出身のヴァン・ビューレンに対し、ハリソンはバージニア州の古い奴隷プランテーション経営者の家に生まれた。
 ここで再びバージニアの「名門」奴隷所有者という初期アメリカ支配層に政権が戻ったことになる。ただし、ハリソンはジャクソニアン・デモクラシーを専制的・反動的と批判し、産業発展のためのインフラ整備や国立銀行の創設、保護関税といった連邦主導の重商主義的「経済計画」を提唱して台頭したホイッグ党から当選した初の大統領という新しさもあった。
 しかし、経歴の点ではジャクソン同様、軍人出身であり、対先住民掃討作戦に参加した。特に米英戦争渦中、英国と連携する強力な部族であったショーニー族指導者テカムセを戦死させたテムズの戦いに勝利し、白人社会の英雄となった。
 こうした履歴を引っさげて政界に転身したハリソンは1836年大統領選でヴァン・ビューレンに敗北したものの、次期40年大統領選では「戦争の英雄」を前面に宣伝する派手なイメージ選挙運動を展開し、当選を勝ち取ったのだった。
 ところが、不運なことに、就任時68歳のハリソンは1841年3月、まだ寒風の吹く日にコートを着用せず、ほぼ二時間近い就任演説を行った強がりがたたり、肺炎を起こして就任からわずか31日で死去、史上最短在任大統領という不名誉な歴史を作ることとなった。

10 ジョン・タイラー(1790年‐1862年)

 現職大統領急死という史上初の事態を受けて、取り急ぎ政権を継承したのが、副大統領ジョン・タイラーであった。もっとも、当時の合衆国憲法では副大統領の自動昇格は規定されておらず、憲法上は疑義が残ったため、「棚ぼた政権」と揶揄されることとなった。
 タイラーもハリソン同様、バージニア州の奴隷所有者の出身であり、所属もホイッグ党であったが、大統領としての彼はホイッグ党の綱領の大半に反して、南部諸州の権限擁護、南部の領土拡張策などを追求する守旧的態度をとった。 
 またタイラーは奴隷制を悪と認識し、自身の所有奴隷については厚遇していたと言われるが、南部奴隷州の権限擁護という守旧的姿勢から、奴隷制廃止を提起することはなかった。
 与党ホイッグ党に敵対したため、党を除名され、史上初の無党派大統領となったタイラーは議会を軽視する独裁的手法でたびたび議会と対立、在任中拒否権発動は9回にも及んだ。こうした脱ホイッグの集大成は政権末期のテキサス併合問題であった。
 元メキシコに属したテキサスはアメリカ人入植者による独立戦争の結果、「テキサス共和国」として分離独立していたところ、タイラー大統領はホイッグ党の反対を押して、テキサスのアメリカ併合・テキサス州成立を承認したのである。
 タイラーは1844年大統領選に出馬して再選を目指したが、この選挙ではテキサス併合問題が大きな争点となり、反対派のホイッグ党と賛成派の民主党という対立構図が作られていた。
 しかし、タイラーは併合賛成派の民主党からも支持を得られず、国民民主共和党なる小政党を結成して出馬せざるを得なかった。敗北は目に見えており、票の分裂を恐れた民主党からも引退要請を受けたタイラーは結局、大統領選からの撤退を余儀なくされたのである。

2018年6月13日 (水)

「平穏死」と医学

 以前の当連載で「平安死」について書いた。「平安死」とは、通常は「安楽死」という不当な名称で呼ばれている死に方を我流に言い換えたものであったが、これと紛らわしいのが「平穏死」である。

 「平穏死」は病で終末期にある人が延命治療を受けずに、自然の死の経過に委ねることをいい、正式な医療用語ではないが、一部の医師の提唱により実践が始められている。「平安死」との決定的な違いは、致死性薬物によって人為的に死をもたらすのではなく、自然の死の経過に委ねる点である。

 そのため、「平安死」は末期癌その他の重病で治療回復不能となった人について問題となるのに対し、「平穏死」は主として老衰期の高齢者について問題となることが多い。

 「平安死」は患者本人の明白な意思表示に基づくことが絶対条件であり、他者の意思によって実行された場合は、たとえそれが近親者であっても法的に殺人罪そのものである。しかし、「平穏死」の場合、当該の高齢者がすでに意思表示できなくなっているため、近親者の要望に基づくことが多い。

 しかし、本人の壮健時の意思が不明な場合に、近親者の意思だけで「平穏死」させることには不穏さも残る。「平穏死」は当該の高齢者が老衰期にあり、特に経口摂取不能であり、経管栄養処置によらない限り、延命できない状態に達したことが前提条件となる。

 このような老衰状態の判定は、医師及び言語聴覚士による厳格な判断基準によって厳正になされる必要がある。その判定が不確かであると、「平穏死」は「放置死」となり、保護責任者遺棄致死か、最悪殺人罪に問われかねないことになる。

 その点、従来から議論される「尊厳死」が主に昏睡瀕死状態での人工呼吸器の装着に関して問題となるのに対し、「平穏死」はもっと死の手前の段階での延命処置の当否が問題となることからしても、専門医による客観的な判定のガイドラインが必要であろう。

 やや疑問を覚えるのは、「平穏死」を提唱している医家らが、医学的な判断よりも、人は無理な延命をせず、平穏に死すべきといった死生観ないし生命倫理を優先しているように見えることである。生死に関わる問題にそうした哲学が絡むことはすべてに共通だが、医療現場で実践するには、医学的な判断が優先されるべきはずだ。

 「平穏死」の提唱者は日本では盛んに実施されている胃ろうに代表されるような経管栄養処置に批判的であるが、これも「管につながれて生かされるのはかわいそうだから」というような感情論ではなく、それらの処置に延命効果が実際どの程度あるのかという医学的な検証によって可否の答えを出さなければならない。

 「管につながれて生かされるのはかわいそう」という感情論を拡大すれば、経管栄養処置が日常不可欠な先天性障碍者(児)も「平穏死」させたほうがよいということになりかねず、これではナチス的な強制安楽死の思想とリンクしてしまう恐れもあるのである。

 上述のような医学的な諸問題が解決しない間は、「平穏死」は「平安死」の場合ほど明白でなくとも、本人の事前意思表示が確認できる場合に限定しておかざるを得ないのではないかと考える次第である。


[追記]
筆者は「平穏死」に否定的なわけではない。むしろ老衰期高齢者に効果も不確かな延命処置を施す日本的慣習は、病院経営を優先した患者不在医療の一環ではないかとの疑いを持つ。客観的なガイドラインに基づく限り(絶対条件)、「平穏死」は老衰期高齢者への最も人道的な終末期ケアになるかもしれない。ただし、「平穏死」の場所確保という問題の解決も必要であることについては、別稿で論じた。

2018年6月 6日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第24回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

オヨとダホメ
 西アフリカにおける奴隷供給諸国の中で、最も歴史が古いと見られるのはオヨ王国である。オヨはナイジェリアにおける主要民族の一つであるヨルバ族が立てた王国であり、1400年頃、ヨルバ系最古の王国であるイフェよりも遅れて西方に建国された。
 当初はマイナーな存在であったが、ハウサ諸王国やソンガイ帝国とともにサハラ交易に参画して蓄積した富を元手に台頭した。大航海時代のヨーロッパに対しては奴隷供給を通じていち早く通商関係を持ち、見返りに軍備増強を推進したのである。こうしてオヨはヨルバ系諸国唯一と言われる騎兵隊を擁し、16世紀末までにイフェを圧倒して、ヨルバ系諸国の頂点に立つ。
 他方、17世紀半ば、オヨの南にはアジャ族が建てたダホメ王国が建設された。アジャ族は元来、今日のベニンの海岸地方にいたが、内陸に移住して当地のフォン族を服属させ、王国を建設した。こうした征服王朝の常として、ダホメは当初から中央集権的な軍事国家の性格が濃厚であった。
 オヨとダホメは、コンゴと異なり、共に西欧列強に対する奴隷供給国家として富国強兵を図ることに躊躇いがない点で、互いにライバル関係に立った。18世紀前半に出たダホメのアガジャ王はダホメの領土を拡張し、奴隷供給国家としての地位を確立したが、オヨとの戦争には勝てず、治世末期の1730年以降、ダホメはオヨの属国となった。
 この時から約1世紀の間はオヨが全盛期を迎えるが、ダホメの従属は形式的なものにとどまり、ダホメは実質的な独立を維持し、繁栄を続けた。一方、オヨは19世紀に入ると、フラニ族系の新興イスラーム系国家ソコト帝国に圧迫され、衰退する。
 ちょうどそのタイミングでダホメに登場した9代国王ゲゾは1830年、オヨを攻撃して実質的な滅亡に追込み、オヨに取って代わりダホメの全盛期を築いた。ゲゾは大規模な奴隷狩りで奴隷供給国家としての基盤を強化しつつ、西欧における奴隷貿易禁止の動向にも留意し、将来を見越してパームオイルの輸出に注力するなど経済基盤の多角化も図った。
 一方で、ゲゾは4000人規模の女性銃士隊を組織するなど軍備を強化しつつ、国内にはスパイ網を形成して恐怖政治を敷くなど専制君主として君臨したが、暗殺と見られる1858年の彼の死後、ダホメは衰退する。
 衰退の要因は奴隷貿易の廃止と関わっている。ゲゾ王は治世中に奴隷貿易の廃止を宣言したが、実際にはなお続行しており、彼の後継者もそうであったが、19世紀末になると立ち行かなくなり、1890年から94年にかけて、フランスとの二次の戦争に敗れ、フランス領土に下ったのである。

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