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2018年5月26日 (土)

体験的介護保険制度批判(追記7)

 介護施設入所中の家族に、とうとう看取り介護の段階が迫ることとなった。経口摂取がほぼ不可逆的に不能となったのだ。古い時代であれば、この段階で為すすべはなく、いわゆる老衰による死を待つばかりとなるところ、現代では胃ろうに代表されるような経管栄養処置の発達により、死を繰り延べることができるようになった。

 中でも胃ろうは元来、障碍を持つ小児患者のための栄養摂取法として海外で開発されたところ、日本では高齢者の延命処置として転用されるという独自の展開をたどったという。ここには、経営優先主義の医療界の欲望に加えて、「長寿」をよしとする風潮及び国策も絡んでいるのだろう。

 欧米では認知症が進行した高齢者に胃ろうが実施されることはほぼないというが、日本では医師から提案されることも多い。もちろん拒否する自由はあるから、選択の問題ではある。あらゆる延命処置を受けず自然の死の経過に委ねる「平穏死」という概念や実践も行なわれつつある。

 個人的には、経管栄養処置=非人道的といった教条的人道主義者でもないし、欧米のように身も蓋もない費用対効果論から、老衰者への経管栄養処置=無駄と切り捨てることにも違和感はある。

 とはいえ、回復見込みのない老衰高齢者に対する経管栄養処置に不自然さは感ぜざるを得ない。人為的な延命を回避し、ごく自然に最期を迎えさせる「平穏死」の実践には理想的な魅力を感じる。

 しかし、「平穏死」しようにも場所の確保が必要である。病院は病気を治療して帰る場であるから、治療せず死を待つ場としてはふさわしくない。介護施設は俗に「終の棲家」とも呼ばれるが、看取り介護に必要な体制が整備された施設は多くない。

 近年は特養ホームに看取り介護の実施を促す政策導入がなされているというが、ただでさえ足りない職員の負担は重く、現在入所中の施設などは職員の研修が未達成らしく、看取り介護不可を明言している。

 考えてみれば、末期癌患者などの場合も含め、そもそも終末ケアは単なる身の回りの世話のような介護にとどまらず、最小限度の緩和的な医療処置は行い、最期に医師のみが法的な権限を持つ死亡確認を要する一連のプロセスであるから、それは医療でも介護でもなく、広い意味での看護に近い。

 自宅の一室をそうした看護場所として使用できる環境があれば、かつては一般的だった在宅死もよいだろうが、自宅にその条件がない場合はどうか。病院でも介護施設でもない「看護院」といったカテゴリーが必要なのではないだろうか。

 現状、ホスピスはそうした「看護院」に近いかもしれないが、ホスピスは末期癌患者のような重病者の終末ケアが中心で、高齢者向けではない。英語のナーシング・ホーム(nursing home)は「養老院」などと訳されることもあるが、原義的には「看護院」に近い。

 「看護院」はスタッフとして常勤医や介護士も配置されるが、その名のとおり看護師が主役であり、施設長も看護師資格を有するものとする。このような「看護院」が正式に認められれば、老衰の高齢者に不自然な延命処置を取らずとも、まさに「平穏死」できる場所が確保できるはずである。

 しかし、このような新型施設を社会保険でカバーするには、健康保険と介護保険の統合が必要かもしれず、そのためには日本の縦割り行政を廃さなければならない。同時に、「看護院」では医師が看護師の「部下」になるという通常の医療界とは逆転した体制に慣れる必要もある。医療界における医師絶対の権威主義打破も不可欠である。

*「高齢者看護施設」としたほうが、より目的・機能が明確になるかもしれない。

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