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2018年5月 5日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第17回)

六 復古神道への道

神国思想の興隆
 神道はその後に流入してきた儒教や仏教―特に仏教―の影響を受け、習合宗教の色彩を強めていったが、こうした文化融合に対しては反動が現れるのが常である。神道においては、仏教と習合した本地垂迹説に対する反動が南北朝時代に顕著となる。
 その最初の隆起が皇室祭祀の本拠たる伊勢神宮に現れたことは偶然ではない。すなわち、伊勢神道である。伊勢神道は伊勢神宮外宮神職を世襲してきた度会氏が興した神道流派であり、仏より古来の神を優位に置く反本地垂迹説を軸とする。
 しかし、伊勢神道は単純な反本地垂迹説にとどまらず、皇祖とされる天照大神を祀る内宮に対して、外宮の主祭神たる豊受大神を天照大神よりも優位にある普遍神と規定し、ある種の一神教的な立場を打ち出したことに特徴があった。
 その一方で、伊勢神道は元寇以来、ナショナリズムの思想として台頭してきていた「神国思想」、すなわち日本を古来の神々によって加護された国と認識する国粋思想を改めて活性化させ、これを強く打ち出したのであった。
 神国思想を唱えながら、皇祖・天照大神を否定するかのような所論は一見矛盾しているように思えるが、伊勢神道がこのような逆説を提示した背景として、本来マイナーだった外宮の権威を上昇させようという伊勢神宮内部における権力闘争も絡んでいたと推測される。
 一方で、伊勢神道創始者たる度会家行が南北朝動乱渦中で南朝を支持したことで、伊勢神道は南朝、とりわけ南朝総帥となった北畠親房に影響を及ぼし、南朝の理論的支柱となった。ところが、南朝が最終的に敗れたことにより伊勢神道は勢力を失い、代わって京都の吉田神社神職の吉田兼倶が創始した吉田神道に道を譲ることになる。
 吉田神道は教理上は伊勢神道の反本地垂迹説・神国思想を継承するとされるが、実際のところは習合的で、他宗派を排斥するのではなく、儒・仏・道三教を枝・葉・花実になぞらえつつ、日本古来の随神(かんながら)の道を法の根本とする止揚的な立場を採った。
 しかし吉田神道の強みは教理以上にその政治力にあり、兼倶は北朝を擁して権力を確立した足利将軍家と深く結びつき、「神祇管領長上」を称して、全国の神職の位階を授ける権限すら獲得し、全神社の頂点に立った。
 同時に、敬虔な仏教徒でもあった時の後土御門天皇にも進講を通じて取り入り、天皇から本拠の吉田神社境内に建てた斎場所大元宮を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」としてお墨付きを得ることにも成功したのである。

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