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2018年4月

2018年4月30日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第23回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

コンゴとンドンゴ
 アフリカ黒人はイスラーム勢力によって奴隷化され、北アフリカ・中東地域からインドにも送り込まれてきたが、より組織的かつ大洋をまたぐ遠距離の人口移送が展開されるようになるのは、西欧列強主導の大西洋奴隷貿易が開始されてからのことである。
 奴隷貿易のシステムにおいては、アフリカの地元国家が奴隷狩りによって奴隷を集めて奴隷商人に売却することが慣習化されていたが、そのシステムは大西洋奴隷貿易ではよりいっそう露骨に現れていた。黒人奴隷の積み出し窓口となったことから「奴隷海岸」と称されるようになったアフリカ西海岸沿いの諸国はほとんどがそうした奴隷貿易国家として台頭し、かつそのために衰亡する運命をたどった。
 大西洋奴隷貿易の初期において奴隷貿易国家として台頭したのは、アフリカ中部大西洋岸に位置したコンゴ王国である。コンゴ王国が発祥したコンゴ河流域は熱帯雨林地帯であり、紀元前5000年紀から狩猟採集文化が発達した。その担い手民族は不詳だが、バントゥー人大移動で移住してきたバントゥー系民族が鉄器と農耕をもたらすことで、最初の文化的発展の土台が築かれたと推定される。
 この流域の民族は稠密な交易ネットワークでつながったバントゥー系で統一されていったが、政治的な王国形成はやや遅れ、14世紀末にルケニ・ルア・ニミなる人物が初めて王国を建設した。以来マニコンゴと称される王が統治した。
 コンゴ王国は大航海時代のポルトガルといち早く通商関係を持ち、キリスト教も受け入れた。15世紀末のンジンガ・ンクウ王が洗礼を受けてポルトガル風にジョアン1世を名乗って以来、ポルトガル化が進む。
 ジョアン1世の息子ンジンガ・ムベンバ=アフォンソ1世が16世紀前半期、長期治世で王国の全盛期を築いたが、その財源は主に奴隷輸出で得ていた。しかし、沖合いのサントメ島に拠点を置く奴隷商人の横暴を統制できず、奴隷貿易の規制に失敗したアフォンソ1世の死後、コンゴは衰退し、ポルトガルの属国として名目的な存在に落ちる。
 落ち目のコンゴに代わって南隣のコンゴ属国だったンドンゴが16世紀後半頃台頭し、奴隷貿易国家としての座を争い、実質的な独立を勝ち取る。しかし、その代償としてポルトガルによる植民地化が進んだ。ンドンゴはポルトガル支配に抵抗を試みるが、最終的に1671年に征服された。

2018年4月26日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第7回)

7 アンドリュー・ジャクソン(1767年‐1845年)

 アンドリュー・ジャクソンの名はこれまでにも数回登場しているが、それは先住民虐殺を指揮した冷酷な軍人としてであった。彼は大統領就任前から黒書に記すべき黒歴史を持つ人物である。その代表的なものは、クリーク族とセミノール族への民族浄化作戦であった。
 ジャクソンは職業軍人ではないが、13歳で大陸軍に義勇参加し、独立戦争の従軍経験を持つ人物としては最後の大統領となった。先住民虐殺作戦を指揮した頃は、当時ジャクソンが弁護士兼奴隷プランテーション経営者として移り住んでいた辺境地テネシーの民兵隊(州軍)に参加していた。
 このようにジャクソンはテネシーを地盤に対先住民強硬派として台頭し、大統領候補指名を獲得した点で、それまでの歴代大統領とはかなり異なる履歴を持っていた。出自的にも、父の代に移住してきた北アイルランド移民の子であり、古くからアメリカに土着した裕福な「名門」ではないため、十分な高等教育を受けておらず、様々な職を遍歴している。
 そのため、彼は二度目の出馬となった1828年の大統領選では「庶民」の代表者を標榜し、東部名門エリート出自の現職アダムズに挑んだのである。この選挙は、アダムズの項でも触れたように、史上初の汚いネガティブキャンペーンが展開されたが、その勝者は「戦争の英雄」イメージを売り込んだジャクソンであった。
 「ジャクソニアン・デモクラシー」の標語で知られるジャクソン大統領の政権運営は正式な閣議によらず、「キッチン・キャビネット」と揶揄された内輪的な外部の識者の非公式会合によることが多かった。そうした内輪のジャーナリストには、政権賛美の提灯記事を書かせて世論操作を行なった。
 こうした内輪重視の政権運営は、政府の官僚も大統領支持者からの自薦他薦による政治任命とする猟官制の導入へとつながった。政府官僚を短期間で入れ替えるこの制度は汚職防止に資するという触れ込みだったが、実際は大統領中心の権威主義的な政権運営の道具であった。
 ジャクソンは「庶民」の味方を標榜したが、この「庶民」とは彼のような白人開拓者を意味しており、先住民は明白に敵であった。ジャクソンの最も悪名高い政策として、先住民の集団強制移住がある。これは「インディアン移住法」を通じて先住民を不毛な西部の保留地へ囲い込む政策である。
 こうした強硬姿勢の裏には、「奴ら(先住民)には知性も勤勉さも道義的習慣さえない。奴らには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしない奴らが環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。」という演説に象徴される確信的な白人優越思想があった。
 奴隷制に関しても、自身多数の黒人奴隷を所有する農園経営者でもあり、奴隷制廃止論者を嫌悪していた。もっとも、奴隷制擁護のようなイデオロギー的な問題に関しては、ジャクソン政権で最初の副大統領を務めた保守理論派のジョン・カルフーンに委ねられた部分が大きかった。
 ジャクソンは連邦に対して州の権限を尊重する州権主義者であり、その観点からマディソン政権下で創設されていた中央銀行(第二次合衆国銀行)の免許更新を認める法案に拒否権を発動した。その結果、金融政策の司令塔を失い、乱立された州銀行の多くが経営難となり、二期目任期末年の1837年恐慌とその後の長期不況の要因を作った。
 ジャクソンは中央銀行は庶民の利益にならないとも主張していたが、庶民の味方ジャクソンが1835年、失業した塗装工の男に銃撃され、史上初の大統領暗殺未遂に遭ったのは皮肉なことであった。ちなみにこの時、ジャクソンは群衆の面前で、取り押さえられた犯人をステッキで殴打したと伝えられるが、これも彼らしい「庶民的」な演出であったのだろう。
 名門エリートに対抗して「庶民」を強調する「ジャクソニアン・デモクラシー」の実態とは、選挙権(白人男性選挙権)の拡大を背景に大衆煽動と世論操作を手法とする白人ポピュリズムの先駆とも言え、これは遠く21世紀の現職トランプ政権の性格に最も酷似しているように思われる。

2018年4月18日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道

東照宮と江戸幕府
 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

2018年4月14日 (土)

仮想通貨の深層

 広い意味でのキャッシュレス化の歴史を大きく見ると、クレジット化に始まり、電子マネーから仮想通貨へと進んできている。この過程というのは、その順番で貨幣経済が高度化していく過程でもある。
 クレジット段階では与信による後払いという形で貨幣を交換し合う形がなお残されている。電子マネーは真の意味のマネーではなく、商品券に近いが、貨幣を交換し合う決裁過程が電子化される点では、貨幣というモノを交換し合う過程が抽象化されている。
 最後の仮想通貨は、「通貨」として国の信用が裏づけされていない限りではまだ電子商品券の域を出ていないとも言えるが、今後取引社会の慣習として定着するにつれ、電子化されたマネー―真の意味での電子マネー―となる可能性があり、国際的には現実にそうなりつつある。
 ここに至ると、もはや硬貨なり紙幣なりの貨幣というモノを直接やり取りするという物々交換の痕跡を残した過程は全く抜け落ち、電子化された抽象的な交換価値だけがやり取りされることになる。
 それは貨幣経済の究極的な姿とも言える。貨幣経済が高度化すると、貨幣という目に見えるモノが消失してしまうという逆説的事態である。
 しかし、それによって貨幣経済そのものが消失するわけではなく、目に見えない交換価値そのものが貨幣経済の化け物として経済を支配するようになるというホラー的世界が待っているのである。

2018年4月11日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性

ダルフール首長国の盛衰
 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

2018年4月 5日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第6回)

6 ジョン・クインジー・アダムズ(1767年‐1848年)

 第6代大統領ジョン・クインジー・アダムズは第2代ジョン・アダムズ大統領の子息であり、政治職の世襲を認めない米国にあって、現時点で二組しかない父子二代大統領のうち、最初の例に当たる。同時に、いわゆる「建国の父」の子女世代からの初の大統領という初記録に覆われた人物である。
 恵まれた政治一族の生まれにふさわしく、クインジーはヨーロッパでエリート教育を受け、多言語を身につけたうえ、帰国後はハーバード大学を卒業して弁護士となった。今日でも米国の政治家登竜門として有力なコースを歩んでいる。
 彼の政治歴は若干26歳の時、初代ワシントン大統領からオランダ担当閣僚に任命された時に始まっている。その後も父アダムズ政権を含む複数の政権でロシア担当閣僚や英国大使などを務め、外交で活躍した国際派であり、一代前のモンロー政権では二期にわたり国務長官を務め、モンロー主義外交の実務を担当した。
 クインジーは、こうした外交の実績を引っさげて1824年大統領選挙で勝利したのであった。しかし、大統領としてのクインジーの事績は芳しいものとはならなかった。前任モンロー大統領の下では民主共和党の実質的な一党政となり、「好感情の時代」と称される安定した政局であったが、24年大統領選がこの平穏を破ったからである。
 民主共和党がクインジーを支持する連邦主義的なグループと彼の対抗馬であった強硬派アンドリュー・ジャクソンを支持する州権主義的なグループに分裂し、クインジー派が国民共和党を名乗って分離したのである。その結果、クインジーの政権ではジャクソン派からの議事妨害が激化し、重要法案が通らないなど「呪われた政権」とまで称された。
 この対立はクインジーが再選を目指した28年大統領選に持ち越され、その後の米大統領選の宿痾となるネガティブ・キャンペーンが展開された。勝利したのは、かのジャクソンだった。結局、クインジーは父と同様に一期で大統領の座を去ることになった。
 この史上初のネガティブ・キャンペーン選挙で特に中傷されたのは、クインジーの先住民政策であった。クインジーはジャクソンのように武力により先住民から土地を奪うのではなく、条約に基づいて土地を購入するという穏健な方法を主張し、すでに白人が侵奪した土地についても再交渉しようとしていた。これが手ぬるいとして攻撃されたのだった。
 こうした施策からも見えるとおり、クインジーには良識的な一面があり、そのことは彼の奴隷制廃止論にも現れている。またしても史上初めて、かつ唯一、大統領退任後に改めて下院議員に転じたクインジーは、議会における奴隷制廃止派の代表格として南部の奴隷所有者層に対抗したのである。
 テキサス州を獲得した米墨戦争を南部奴隷州拡大の企てとして批判した彼は、いずれ米国が奴隷制をめぐって分裂し、内戦となることを予見していた。そうした点では、後のリンカーン大統領の予言者とも言える人物であった。
 クインジーは有能な外交家であり、「黒書」に含めるには惜しい良識と信念の人であったと思われるが、むしろそれゆえに、白人の「自由の帝国」を志向して対内的にも対外的にも膨張を続けていた合衆国民の野心と相容れず、大統領としては失敗者に終わったのだろう。

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