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2018年2月

2018年2月24日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第13回)

四 神道の軍事化

戦国時代と神職武家
 戦国時代に入ると、神職武家もいやおうなく戦国動乱に巻き込まれていく。織田氏神職出自説を採るなら、神職武家として最も強大化したのは織田氏だったことになるが、これは前回も述べたとおり、仮説的な域を出ていない。
 前回見たうち、織田氏を除く鈴木・諏訪・阿蘇の三氏の中で最も成功を収めたのは武士団棟梁として高度な軍事組織を擁していた諏訪氏であった。
 諏訪氏は内紛渦中で幼年にして当主となった諏訪頼満が成長後、巧みな手腕で領国を拡大し、武田氏を押しのけ諏訪地方の戦国大名にのし上がった。頼満から家督を継承した孫の頼重は時の武田氏当主・信虎の娘を正室に娶り、自身の娘も信虎の息子・晴信(武田信玄)に嫁入りさせるなど、武田氏との姻戚同盟関係が強化された。
 しかし、武田氏側で信玄が父を追放して主導権を握ると状況が一変し、諏訪氏は武田氏の進撃により降伏、頼重は甲府に連行後、弟とともに自害させられた。これにより、諏訪惣領家は滅亡するが、頼重従弟の頼忠は武田氏に臣従し、諏訪大社大祝としての地位を認証され、武田氏滅亡後に諏訪氏の当主を継承した。彼はいったんは対立した徳川氏とも和睦して諏訪地方を安堵されるが、後に上野総社に移封させられた。
 頼忠嫡子の頼水は関ヶ原の戦いで東軍に付き、功績を上げたことで改めて諏訪地方を安堵され、初代高島藩主となり、近世大名家諏訪氏の祖となった。その後、諏訪氏は大名家と大祝家に分離されたため、ある種の政教分離がなされ、宗教的権威を背景とした祭政一致的領国経営は廃止された。
 他方、肥後地方で下克上して戦国大名化していた阿蘇氏は、阿蘇惟豊の時代に最盛期を迎えた。しかし、彼の二人の息子が相次いで死去し、孫に当たるわずか2歳の惟光が当主になると、当時の新兵器であった鉄砲をいち早く取り入れた薩摩の島津氏の侵攻を受け降伏、惟光は山中に逃亡した。
 その後、惟光は加藤清正に庇護され豊臣秀吉の九州征伐を何とか切り抜けるが、秀吉は阿蘇氏の大名としての特権を一切認めなかったうえ、島津氏家臣が首謀した梅北一揆に家臣が参加したことを理由に12歳になった惟光を斬首する非情な措置により大名阿蘇氏の再興を阻止したのである。
 ただし、惟光の弟が加藤氏の援護を受け、阿蘇神社大宮司を継いだことから、阿蘇氏は純然たる神職として改めて再興され、存続していくことができた。
 藤白鈴木氏は戦国大名化することなく、戦国武将として織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦で本願寺側に付いたため、敗北後は神領を失い、没落した。ただし、分家の雑賀党鈴木氏は信長、次いで豊臣秀吉に服属して命脈を保った。
 なお、伊豆に移った分家の江梨鈴木氏は鎌倉公方の水軍総大将を務め、戦国時代にも後北条氏の伊豆水軍武将として活躍したが、秀吉の小田原攻めで主君と運命をともにし、傍流は陸奥に落ち延びて、八戸藩郷士となった。

2018年2月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第19回)

四 内陸アフリカの多様性

ピグミー諸族の苦難
 内陸アフリカの熱帯雨林には、ピグミーと総称される狩猟採集民族が伝統的な生活様式を守って生活してきた。ピグミーという用語は、ギリシャ神話で小人族を意味するピュグマイオイに由来する。実際、ピグミーに属する諸民族は全般に低身長(成人男性でも150センチ前後)という遺伝的特徴を持つ。
 ピグミーは様々な言語を話す諸民族の総称にすぎず、一つの民族集団ではないにもかかわらず、低身長という共通性を持つに至った理由は必ずしも定かでないが、内陸アフリカの熱帯雨林に住み、狩猟活動を効率的に行なううえで身を隠すに適した低身長に収斂進化した結果とも想定される。
 とはいえ、ピグミー諸族には遺伝上Y染色体ハプログループB系統が比較的高率で認められる。このハプログループB系統は元来東アフリカの大地溝帯に発した遺伝子であるので、ピグミー諸族はここから内陸密林地帯へ移住したグループを祖とする集団とも想定できる。
 しかし、言語と遺伝子系統は一致しないことが常であるから、このハプログループB系統集団が言語的に分化したのは、それぞれが周辺のバントゥー系農耕民と接触する過程で、農耕民系の言語を摂取していったためと考えられる。例外として、バカ族のバカ語は分類上ニジェール‐コンゴ語族に属するとされる独自言語であるが、バカ族も第二言語としてはバントゥー系言語を話す。
 このようにピグミー諸族は完全な非接触民族ではなく、農耕民社会と接点を持ってきた狩猟採集民族であるだけに、周辺農耕民族と交易を行なう一方で、差別や迫害にもさらされてきた。中でもコンゴのムブティ族に代表されるピグミーはバントゥー系農耕民の奴隷として使役されたり、女性はバントゥー系農耕民の嫁として取られる一方的通婚習慣が行なわれてきた。
 ピグミー諸族は狩猟採集民族に共通する特徴として、国家を形成することなく、家族を単位とする比較的平等な集団生活を守ってきたことからも、国家を形成するようになった周辺農耕民との関係で劣勢になっていったのである。このことは、とりわけ現代においてルワンダやコンゴなどで民族浄化にさらされる事態を招いている。
 またその原初的生活様式と低身長の形質特徴から、近代の誤った進化理論・人種理論の中で劣等的とみなされるようになり、動物として「人間動物園」に展示されるなどの非道な扱いを受けることにもなったが、この件は後に植民地時代のアフリカ人を扱う項で見ることにしたい。

2018年2月19日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第3回)

3 トーマス・ジェファーソン(1743年‐1826年)

 トーマス・ジェファーソンもまた「建国の父」の一人であるが、彼は政治哲学者でもあり、独立宣言の起草者となるなど、アメリカ合衆国の基層を成すイデオロギーの面で歴史的に重要な役割を果たした人物である。
 彼が初稿をものした格調高い独立宣言文はその実、自らが関わった先行のバージニア憲法などの憲法文書からの引用と継ぎはぎであったうえ、前回も見たように、初稿にはあった奴隷制廃止に関わる文言がアダムズの手により削除されたことで、空疎なものとなってしまったのだった。
 こうした経緯がジェファーソンとアダムズの関係を悪化させ、ジェファーソンは来る19世紀へ向けた節目となる1800年度大統領選挙に際しては、アダムズ大統領の再選を阻止すべく、アダムズが属する連邦党に反対する民主共和党から立候補し、当選を果たした。この連邦党対民主共和党の対立関係は、今日までアメリカ政治を規定し、その民主主義の発展を制約する二党支配政の萌芽となった。
 こうして満を持して第3代大統領となったジェファーソンは、今日の用語で言えば「リベラル」な政策を展開し、アダムズ前政権下の外国人及び煽動諸法の撤廃とそれによる被拘束者の釈放に努めた。しかし、奴隷解放に関してはジェファーソン自身奴隷制廃止論者を標榜していながら、政策的に進展させることはなかった。
 実際、彼はアダムズを僅差で破った大統領選挙でも、当時奴隷は選挙権を与えられていないにもかかわらず、奴隷人口の四分の三を州の有権者数に加算して選挙人数を割り当てるという歪んだ間接選挙制度の恩恵を受けていたため、“ニグロ大統領”などと揶揄される結果を招いていた。
 また、ジェファーソンは、現職トランプ大統領が会見で引き合いに出したことで波紋を呼んだように、個人的にも奴隷所有者であった。しかも、先立たれたマーサ夫人から相続した奴隷サリー・ヘミングスと事実婚関係にあり、複数の子どもをもうけたが、この事実を厳重に秘匿し、内縁妻のヘミングスさえも奴隷身分から解放しようとしなかった。
 ヘミングスは白人と黒人の混血の母と白人の父との間に生まれた四分の一黒人であり、外見上は白人化していたものと思われる。しかも、彼女はマーサ夫人と父を同じくする異母姉妹関係にあったとされる。こうした特殊事情が内縁関係につながったのだろうが、ジェファーソンは公式には異人種間婚姻に否定的であり、ここにも言行不一致が見られる。
 彼は思想的には奴隷制廃止論者ながら、終生経済的に多額の負債を抱えており、奴隷をその「担保物」として差し出していたため、奴隷を解放しようにもほとんどできなかったと弁明的に評されることもあるが、その思想上も黒人を白人より心身両面で劣った人種とみなし、同じ政府の下で共生できる存在ではないとする考えを捨てることはなかった。
 ましてや、アメリカ先住民に関してはより明白に排除の論理を有し、「アメリカ(白)人はインディアンどもを、森のけだものと一緒にストーニー山脈の奥へ押し込まなければならない」とか、「我々(アメリカ白人)は、かれら(先住民)のすべてを破壊する」などと公然と民族浄化を主張する人物でもあった。
 黒人観を含めた彼の人種観には後世の優生学思想の萌芽を思わせるものがあり、これがひいてはジェファーソンが構想し、現在まで合衆国の基本イデオロギーである「自由の帝国」(Empire for Liberty)―すなわち白人帝国主義―の土台となっているものと推察されるのである。
 ちなみに彼は、個人が武器を所持する自由の強力な擁護者でもあり、「非武装者は武装者よりも高い確率で攻撃されるかもしれないので、殺人を防ぐよりは奨励する」と論じて、個人の武器所持の自由をイデオロギー化している。
 こうした「自由」(リバティー)の空疎なイデオロギー化への寄与という点において、、まさしくジェファーソンこそは「アメリカン・イデオロギーの父」だと言えるだろう。

2018年2月15日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第12回)

四 神道の軍事化

神職武家の誕生
 武家支配体制が確立されると、有力神社の神職一族も次第に武装化し、武家化していく傾向を生じた。そうした神官武家の代表格として、前回見た熊野に関連の深い藤白鈴木氏がある。鈴木氏は神道の祖とも言える物部氏正統の古代氏族・穂積氏後裔を称し、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の神職を世襲して強い勢力を持った熊野三党の一党を出自とする。
 鈴木一族は平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて多くの軍功を上げた。その後、承久の乱では院方に付きながらもしぶとく生き延び、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂したが、後者に付いた一派は伊豆の江梨に移住して江梨鈴木氏を興した。他にも、藤白鈴木氏は全国的に多くの分家を興して穂積姓鈴木氏の母体となった。
 次いで、東国では信州を拠点とした諏訪氏がある。諏訪氏は出雲神話の建御名方神(タケノミナカタヌシ)を神話上の始祖と称し―そうだとすると、出雲王権系出自の可能性あり―、古代より諏訪大社の神職・大祝を世襲してきた一族であり、鈴木氏同様、平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて軍功を上げている。諏訪氏は鎌倉幕府御家人、次いで執権北条氏体制の下では北条得宗家被官(御内人)として勢力を持った。
 諏訪神社は源頼朝の崇敬と庇護を受けたため、東国の武神として東国武士の信仰を集め、勧請も盛んに行なわれたことから、諏訪神社が各地に普及する契機となった。諏訪氏を棟梁として諏訪神社氏人で固めた武士団は諏訪神党と称され、その結束力の高さを誇った。
 しかし、こうした鎌倉幕府との特段の結びつきから、幕府の滅亡時には一族の多くが運命を共にすることとなった。にもかかわらず、諏訪氏は神職としての宗教的威信を武器に、南北朝・室町時代を生き延びた。15世紀の文明年間には一族の内紛が発生したが、これを収束させた後はかえって勢力圏を拡大し、諏訪地方における戦国大名としての地位を確立していく。
 最後に、九州地方における神職武家として、阿蘇神社の神職・大宮司を世襲してきた阿蘇氏がある。阿蘇神社は土着性が強く、阿蘇氏の出自も元来は畿内王権から独立していた在地首長(阿蘇の君)の流れと見られる。畿内王権に服属してからは、朝廷から厚遇され、平安時代末期には地元武士団を統率するようになった。
 阿蘇氏も源氏方に付いて鎌倉幕府との結びつきを強め、かつ阿蘇社領が執権北条氏の預所とされたことで北条氏とも結ばれ、最盛期を迎える。しかし、南北朝時代には南朝側を強力に支持したため、北朝側から介入を受け、一族は分裂した。その後も阿蘇氏家中では内紛が常態化しながら、戦国時代には肥後守護職・菊池氏を下克上して戦国大名化していくのである。
 ちなみに、戦国期にいち早く天下人を目指した織田氏も、越前の劔神社神職の出自とする説がある。他方、織田氏は中臣氏に押しやられるまで朝廷祭祀を中心的に担っていた古代氏族・忌部氏の末裔とする説もある。
 劔神社は気比神宮に次ぐ越前二宮の地位を持つ古社であり、朝廷で力を失った忌部氏の一部が越前に流れて神職となったと想定することも可能である。そうだとすると、忌部=織田氏も神職武家の一つということになるが、織田氏自身は平氏または藤原氏末裔を称し、劔神社を崇敬しつつも神職を担った記録はなく、仮説の域を出ない。

2018年2月10日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第18回)

四 内陸アフリカの多様性

ルワンダ王国の少数支配体制
 キタラ帝国が解体していく過程でいくつかの王国が分流していったが、それら脱キタラ帝国群の中でも14世紀頃に建国されたルワンダは独特の少数支配構造により独自の地位を築き、最盛期コンゴ方面まで勢力圏を広げ、強勢化した。
 ルワンダ王国では人口の20パーセント程度にすぎない牧畜民が王(ムワミ)及び王に次ぐ高い権威を持つ王母をはじめとする支配階級を形成し、人口の大多数を占める農耕民を支配するという少数支配構造が早くに形成された。牧畜支配階級はトゥツィ、農耕被支配階級はフトゥと呼ばれ(他に狩猟被支配階級としてトゥワ)、両者は民族的に異質と認識されるようになった。
 しかし、トゥツィとフトゥは共にバントゥー系の言語と文化を共有し合う関係であり、民族としては近縁関係にある。それが民族的な相違として認識されるようになったのは、地域の牧畜民と農耕民の抗争の過程で、家畜所有者として経済的に優位にあった牧畜民が政治的にも農耕民を従属させる過程で支配の正統性を理由づける必要があったことによるものだろう。
 19世紀までにトゥツィ系の王から土地を安堵されたトゥツィ系族長がフトゥ系農耕民に労働させる準封建的なシステムが確立されると、フトゥはある種の農奴的存在の代名詞になった。その意味で、トゥツィ/フトゥは他のアフリカ諸国における民族・部族の種別ではなく、社会階級の種別とみなしたほうがより正確であろう。
 このような寡頭支配構造はしかし、ドイツ、続いてベルギーが19世紀末から20世紀半ば過ぎに至るまで、隣接のトゥツィ系王国ブルンディと併せて植民地支配を確立した際には極めて好都合であったので、大いに利用された。
 これに付随して、西洋近代的な「人種」の理論が持ち込まれ、支配階級トゥツィのハム族出自説―だとするとトゥツィは「黒人」ではないことになる―という擬似科学理論が流布されるようになった。
 こうした俗流人種理論に基づく分断政策は、ルワンダ独立期の共和革命により王国が打倒され、多数派フトゥが支配権を奪取すると、20世紀末には旧支配層トゥツィを標的とした民族大虐殺という惨事の遠因となったのであるが、この件に関しては後に改めて言及する。

2018年2月 5日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第2回)

2 ジョン・アダムズ(1735年‐1826年)

 ジョン・アダムズは、ワシントン初代大統領の下、副大統領を二期務めた後、引き続いて第2代大統領に選出された。そのような経緯から、初代の影に隠れて目立たない宿命を負うこととなったが、アダムズも17世紀の古い開拓移民一族にルーツを持つ「建国の父」の一人である。
 アダムズの出自バックグラウンドはワシントンとは大きく異なる。アダムズはハーバード大学出身、法廷弁護士の経歴を持つが、その点で弁護士が政界への有力な登竜門となる米国の伝統の始まりを成す人物であった。しかも、ワシントンのような奴隷所有者でもなかった。そのため、アダムズは終生奴隷を所有することはなかったが、奴隷制廃止論者でもなく、彼の奴隷制に関する考え方は「棚上げ論」であった。
 そのことは、アメリカ独立宣言起草時から顕著であった。後に彼の再選を阻止して第3代大統領となるトマス・ジェファーソンが起草した独立宣言には当初、奴隷廃制止に関わる文言が予定されていたところ、奴隷所有者層が少なくなかった「建国の父」の間で異論が起き、分裂危機に直面したため、アダムズの仲裁により文言が削除されたのである。
 これにより、独立宣言は奴隷制廃止に言及せず、当初の合衆国憲法にも奴隷制禁止規定は置かれないこととなった。大統領となっても、アダムズは奴隷制に関しては議論しないことを主義とした。こうした態度は合衆国の分裂を避けるための法律家らしいプラグマティズムと評することもできるが、棚上げすることで合衆国における奴隷制廃止を、独立革命で倒した旧宗主国英国よりも遅らせる要因となった。
 一期だけで終わったアダムズ大統領の事績として特筆されるのは、外国人及び煽動諸法の制定である。これは米国市民権の取得要件を厳格化する改正帰化法、危険外国人の強制退去措置を定める友好的外国人法、戦時下での敵性外国人の強制収容・退去措置を定める適性外国人法、政府に対する虚偽・中傷文書の出版を禁止する煽動法という四法から成る総合治安立法であった。
 違憲論を押して推進されたこの立法は当時、フランスと敵対関係に陥り、戦争危機にあったという状況下での対策措置であったが、内容的には移民・外国人排斥と言論統制を強化するものであることは明らかであり、このうち適性外国人法はその後も存続し、第二次大戦当時の悪名高い日系人強制収容政策の根拠法としても援用された。
 それ以外の法律は時限法として改廃されたとはいえ、「自由」と「移民」の国と評されてきた合衆国の根底にある抑圧の要素を先取りする内容を有し、その潜在要素が入国規制の強化や「国境の壁」の建設に動き、かつ政権批判言論を「虚偽報道」とみなして排斥しようとする現職トランプ大統領の下で再び活性化されようとしているとも言えよう。
 大統領としては一期で終わったアダムズだったが、彼の子孫は第6代大統領となったジョン・クインシー・アダムズをはじめ、東部マサチューセッツを地盤に政治家を多く輩出する東部エリート政治門閥の先駆けともなった。その意味では、アダムズこそ公式の貴族制度を持たない米国におけるブルジョワ・エリート支配の創始者とみなすこともできる。

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