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2018年1月

2018年1月25日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第11回)

四 神道の軍事化

熊野別当と武家政権
 前章末尾で見たように、平安時代末の院政期になると、熊野三山が院の庇護を受けて政治的にも伸張したのであるが、熊野別当家は同時に軍事力も獲得するようになる。特に熊野水軍である。熊野水軍は紀伊半島南東部の熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とし、この時代の在地水軍勢力の例にならい、海賊を兼ねていた。
 熊野別当家はこの熊野水軍の統制権を掌握し、かれらを通じて瀬戸内海方面にもにらみを利かせた。一方で、武装化した熊野山衆徒も配下に抱え、一定の地上戦力も擁していた。
 そうした軍事力を背景に、熊野別当家は源平両氏の台頭期を生き延びていく。中でも平清盛と同時代の第18代別当湛快は清盛を支援し、平治の乱でも平氏の勝利に貢献して、平氏との密着関係を強めた。しかし、当時の熊野別当家は新宮別当家と田辺別当家の二大勢力に分かれ、源平両氏のいずれに付くかで内紛の様相を強めていた。
 折りしも清盛の死後、第21代別当に就任した湛増(前記湛快の次男)は、源平両氏の抗争が激化する中、両陣営から支援を要請されたため、一説によれば闘鶏で占いをしたと伝えられるほど、源平抗争の中で難しい舵取りを迫られていた。
 実のところ、湛増は当初、父の路線を継いで親平氏派であったのだが、親源氏派であった新宮家との戦闘に敗れたことや、平氏政権の瀬戸内海方面への勢力拡大を不満とする熊野水軍勢力の意向も汲み、親源氏派に乗り換えたのである。ちなみに、源義経の半伝説的な従者・武蔵坊弁慶が湛増の庶子と伝えられることも、弁慶以上に湛増と義経の結びつきを示唆するものかもしれない。
 実際、義経から平氏追討使に任じられた湛増は、源平最終合戦の壇ノ浦の戦いに自ら熊野水軍を率いて参戦、源氏の勝利に貢献した。この功績により、湛増は源頼朝から上総に所領を安堵されるとともに、熊野には地頭守護職を置かずに別当家の直接支配を維持するある種の自治特権が保証されたのである。
 熊野別当家はこうして財政的にも強大な地頭兼自治的領主として鎌倉幕府の機構に組み込まれていった。しかし、承久の乱が転機となる。この乱は熊野三山の伝統的な庇護者であった院と政治的な恩顧を受ける幕府の抗争であったため、両者の板ばさみとなった熊野別当家はいずれを支持するで家中が分裂、混乱した。
 乱が幕府勝利に終わると、幕府は息のかかった鶴岡八幡宮別当・定豪を熊野三山検校職に任じるとともに、乱で上皇方に付いた熊野反徒の追及を徹底し、熊野への統制を強めた。幕府も執権北条氏に乗っ取られて久しい14世紀に入ると、熊野別当家は勢力を失い、14世紀半ばを最後に史料上からも姿を消したのである。

2018年1月17日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第17回)

四 内陸アフリカの多様性

キタラ帝国とその解体
 広大なアフリカ大陸の内陸部は多様な農耕民と牧畜民・遊牧民が交錯割拠するところとなり、生活様式の相違ゆえの紛争が古くから絶えない領域であった。そのため、統一的な帝国の成立は大陸の他領域に比べてもいっそう困難であった。
 そうした中で、最も早くに広域的な王権を形成したのはバントゥー系のニョロ族であった。キタラ帝国とも呼ばれるその起源はアフリカ特有の口伝史のゆえに確定できないが、青銅器時代に遡るとする説もある。最盛期には、今日のウガンダを拠点にタンザニア、コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、マラウィにまでまたがる広域を支配したため、大湖沼地域から東アフリカのスワヒリ文明圏をつなぐ交易ルートを押さえて経済的にも繁栄した。
 ただ、実際のところ、これら地域には部族単位の小首長国(王国)が林立しており、キタラ「帝国」の内実はそれら小首長国の連合体にすぎず、その統合性は常に不安定だったと見られる。各首長国はそれぞれの生活様式に適合するよりよい土地を求めて自立志向を強め、16世紀頃までに帝国は事実上解体され、名目的なものに移行したと見られる。
 伝承上は神聖なるオムカマの称号を持つ王の愛牛の死が悪い予兆となったとされるが、帝国解体の現実的な契機となったのは、北部からナイル‐サハラ語族に属するルオ族が侵入し、帝国の王権を簒奪したことにあったようである。その結果、旧支配層は南部に逃れ、統合性を失った帝国は分解し、アンコーレ、トロ、ブガンダ、ブソガ、ルワンダ等の諸王国が自立していった。
 名目上のキタラ帝国はその後もなお存続したが、19世紀中頃になると、ブガンダやルワンダ、アンコーレなどが国力をつけて台頭し、名目上の帝国を蚕食していったため、「帝国」は今日のウガンダの小王国ブニョロに断片化されることとなった。

2018年1月11日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第1回)

小序

 アメリカ合衆国大統領(以下、米大統領と略す)は、国民の投票によって選出される世界初の国家元首として、初代ジョージ・ワシントンから現職ドナルド・トランプに至るまで45代を数える。
 米大統領は国王―王冠なき国王―になぞらえられるほど、君主に近い広範な権限を保持しながら、その200年以上の歴史の中で、これまでのところ専制的な独裁者を出さない仕組みを維持してきたため、民主主義の象徴として称賛されることが多い。
 実際、初代ワシントンをはじめ、「偉人」として語られる歴代大統領は多い。筆者も少年期に何人かの米大統領の子供向け偉人伝を読まされた記憶がある。たしかに、表面的に見れば米大統領は「偉人」揃いなのかもしれないが、物事には必ず裏面がある。
 当連載は目下、トランプ現職大統領が歴代米大統領とは異質に見える大統領像を示して国際的にも論議を呼び、改めて合衆国大統領に対する関心が高まっている中、現職と比較対照される歴代米大統領の「裏の顔」をあぶり出そうといういささか意地の悪い試みとなる。
 具体的には、初代ワシントンから最直近の44代オバマまでの44人の米大統領について、表に出ない「裏の顔」を一人ずつ探っていく。その際、人格的な中傷に及ぶのではなしに、あくまでも公的に記録された大統領としての事績に潜む裏面をあぶり出す手法による。前置きはこれまでとし、早速本論に入っていこう。


1 ジョージ・ワシントン(1732年‐1799年)

 ジョージ・ワシントンは、アメリカの首都ワシントンにその名を恒久的に残した言わずと知れた初代大統領である。その他、西海岸のワシントン州や現代の原子力空母ジョージ・ワシントン号に至るまで、ワシントンの名を冠した事物は多く、現代でも崇拝されている初代である。
 ワシントンは独立前のバージニア植民地で、プランテーション経営者の家庭に生まれた。ワシントン家はジョージの曽祖父が17世紀に英国から移住してきた古い移民一族であり、中流ではあったが、その時代の習慣どおり、黒人奴隷所有者でもあった。
 ジョージも代々のプランテーションを継承し、最盛期には300人を越える黒人奴隷を使役して、小麦栽培を中核に醸造にも手を広げる多角的なプランターとして成功していた。そうしたことから、大統領となってもワシントンは奴隷制に反対することはなく、大統領官邸に複数の家事奴隷を連行し、使用していた。
 記録によれば、ワシントンは「個人的に」奴隷制を嫌悪していたというが、そうした個人的な心情が奴隷制廃止に政策を導くことはなかった。それどころか、当時官邸が所在した進歩的なペンシルベニア州では州内に6か月居住する奴隷の解放を義務づけていたことから、官邸の奴隷使用人を自身の地元バージニアとの間で頻繁に入れ替える脱法行為をしてまで奴隷を維持していたのである。
 このような点で、ワシントンは南部奴隷州を代表する典型的な「名士」の一人だったのであり、であればこそ、初代大統領として旧13植民地を一つに統合することができたのであろう。ただ、彼が初代大統領となり得た決定的な理由は軍歴にある。
 ワシントンはアメリカ独立戦争時に創設されたレジスタンス組織で後の米軍の前身でもある大陸軍の総司令官を独立戦争期間を通じて務め、多くの戦果を上げている。これも米国正史上は大いに美化されているが、彼が独立戦争過程で多くの先住民を攻撃し、殺戮したことは故意に看過されている。
 ワシントンは先住民を蛮族視どころか、猛獣になぞらえてその絶滅を目標としていた。特に独立戦争過程で「敵の敵は味方」とばかり英国側についた東部のイロコイ族を標的とする1779年の大規模な掃討作戦では、革製品の素材とするためにイロコイ族の皮を剥いだとされるような非人道行為も辞さなかった。
 大統領就任後も、先住民を合衆国建設の障害物として絶滅させる民族浄化の考えを変えることはなく、新たに創設された正規陸軍による浄化作戦を継続した。こうしたことからも、先住民にとってのワシントンは独立の英雄などではなく、民族とかれらの町の破壊者なのであった。
 かくして、奴隷制と先住民絶滅という他民族の苦痛・流血の上にアメリカ白人合衆国の土台を築いたのは、まさしくワシントン初代大統領の「功績」なのである。その意味で、支配層白人種にとっての彼は「偉人」であるが、被支配層有色人種にとっては「悪人」である。

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