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2017年11月 5日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第6回)

二 天皇制の創出と神道

宗教戦争:仏教との相克
 昆支大王による宗教改革の成果は永続的なものであり、その基本路線は以後、ヤマト王権により継承されていくが、6世紀の欽明天皇(大王;当時、天皇号はまだ存在しなかった)の時代になると、王朝開祖である昆支大王=応神天皇の神格化が大規模に行なわれる。
 その経緯は、別連載の拙稿で明らかにしたように、私見によれば昆支=応神天皇の孫に当たる欽明はクーデターにより異母兄らを排除して王位に就いた経緯から、自身の王権の強力な正当化を必要としており、それが祖父の神格化であったのだろう。
 そうした目的から開始されたのが、後に八幡信仰として定着していく新たな信仰体系である。実際、伝・応神天皇陵に隣接し、実質上最初の八幡宮と考えられる誉田八幡宮や、後世になって八幡総社の地位を獲得する宇佐神宮が欽明時代の由緒と伝えられることも、その裏付けとなろう。
 一方で、6世紀前半には仏教が王朝の先祖の地でもある百済から伝わった。伝来年には諸説あるが、552年説を採る『日本書紀』によれば、欽明自身は仏典と仏像を献上した百済の使者に欣喜雀躍したとあり、仏教を素直に受容しようとしたことが窺える。
 ただし、同時に、欽明は、仏教の取り扱いについて、一人では決めないとして慎重姿勢を取り、群臣に諮問している。ここで、蘇我氏と物部・中臣氏が意見対立したため、仏教は当面、擁護派の蘇我氏に預けることとされた。
 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の和風諡号どおり、ヤマト王権の領土を大きく拡張した征服王でもあった欽明の長期治世が終わると、王権は彼の軟弱な息子たちのために後退していく。そうした中で、改めて仏教の扱いをめぐり、王朝を揺るがす動乱が発生する。
 仏教擁護派の先頭に立った新興の豪族蘇我氏は、私見によれば自身も百済系豪族であり、心情的にも権勢確立のためにも仏教に依拠しようとしていた。対して、仏教排斥派の巨頭であった豪族物部氏は、私見によれば、ニニギのライバルとも言える伽耶系渡来集団の長ニギハヤヒを祖とする古来の豪族である(拙稿参照)。
 物部氏は、昆支大王による百済系王朝樹立後も巧みに生き残り、昆支大王による宗教改革の過程で、大神神社の神班物者(かみのものあかつひと;神への供物を分かつ人)に一族の伊香色雄が任命されたことを契機に、宗教・軍事両面で権勢を持つ最強豪族集団に成長していっただけに、古来の神道を脅かす外来宗教には敵対的であった。
 こうして、仏教派と排仏派の衝突は不可避であった。しかしよく知られているように、この宗教戦争は蘇我・仏教派の勝利に終わり、蘇我氏は王権を実質上簒奪する地位に上り詰める(拙稿で述べたとおり、私見は名実ともに蘇我王朝が成立したと解している)。
 これ以来、仏教は政治とも密接に結びつくが、神道に完全に取って代わったわけではなく、二元的な形で独特の神仏並立体系が形成されていく。しかし、これは続く第二次宗教改革とも関連してくるので、稿を改めて取り上げることにする。

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