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2017年11月

2017年11月26日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第15回)

三 スワヒリ文明圏

オマーン=ザンジバルの成立
 東アフリカの黒人奴隷ザンジュを語源とするザンジバル島は、前回見たキルワ王国の領土であったが、同王国が衰亡した後、ここを支配したのは最初はポルトガル、次いでアラビア半島南部のオマーンであった。
 オマーン自身、16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたが、17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立した。このヤアーリバ朝はポルトガルからの独立戦争に勝利し、ポルトガルを本国オマーンから撃退したばかりか、40年近い攻防戦を経てザンジバル島からも駆逐することに成功したのである。
 これ以降、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ拠点となり、オマーンは東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継貿易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄していく。その後、ヤアーリバ朝はイランによって滅ぼされるが、すぐに同じイバード派のブーサイード家が奪回し、新たなブーサイード朝を建てた。
 その結果、ザンジバルは引き続きブーサイード朝オマーンの領土となる。このオマーン=ザンジバルの支配層は明白にアラブ系であり、アラブ支配下では旧来のキルワ支配層を成したイラン出自とされるシラージも、バントゥー系アフリカ人とともに従属階級に置かれた。
 しかしこの時代になると、シラージ系とバントゥー系の血統的相違はますます相対化され、バントゥー化したシラージはスワヒリ語を母語とし、スワヒリ語圏の商業を担いつつ、スワヒリ語を内陸部まで拡大する役割を果たしたと見られる。
 ザンジバルは19世紀前半にオマーンの新首都となるが、間もなく王朝の内紛から分離独立し、改めてザンジバル王国が成立する。しかし、支配層は引き続きアラブ系のブーサイード朝分家であった。この頃になると、アラブ系とバントゥー化したシラージ系の混血も進み、スルターン自身にも、残された写真からすると母系からバントゥー黒人の血が注入されていたように思われる。
 とはいえ、引き続き従属階級のままに置かれたアフリカ黒人がザンジバルで主体性を獲得するのは、シラージと共同して決起した1964年のザンジバル革命によってザンジバル王国が打倒されてからであった。

2017年11月22日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第7回)

二 天皇制の創出と神道

第二次宗教改革:「天照神道」の確立
 仏教を定着させた蘇我体制(蘇我王朝―私見)は、半世紀ほど続いた後、7世紀半ばのいわゆる大化の改新によって倒され、旧王朝が復活した。この復活王朝(後昆支朝―詳しくは拙稿参照)は、二度と王権を簒奪されないためにも、君主(オオキミ)の権威を高める必要に迫られていた。
 その表れが「天皇」称号の創始であり、天皇王朝を支える律令的諸制度・機構の整備という事業であったが、それが本格化したのは、壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇の時代からである。天皇称号の使用も彼の時代からと言われるゆえんである。
 天皇という称号自体に天皇の至上性が表現されているが、形式的な称号だけでは足らず、宗教的なイデオロギーとしても、天皇は神の化身とみなされた。万葉集所収の天武代の和歌に、「大君は神にしませば」と詠まれたゆえんである。
 このような君主の神格化は、古代王権においては世界各地で見られるところであるが、日本の場合は古来の神道による権威付けが志向された。そうした権威付けの決定策として、新たな宗教改革が実行されたのである。その実行者は天武ではなく、その皇后で天武没後に皇位を継承した持統天皇である。
 持統主導で行なわれた宗教改革の本旨をひとことで言うなら、天照大神を最高神とする「天照神道」の確立である。従前の神道は王朝始祖・応神天皇=昆支大王が実行した第一次宗教改革における三輪山イヅモ神道を基調としていたところ、持統はこれを覆したのである。
 そのうえで、天照大神という女神とこれを祀る伊勢神宮を新たに皇室祭祀の中心に持ち出したのである。天照大神は元来、三輪山周辺の土着信仰上の神であったらしいが、第一次宗教改革の結果、排除されていたものを改めて再発見したのは持統特有のある種フェミニズムの反映であったと思われる(拙稿参照)。
 持統がこうした宗教改革―ある面では復古的宗教反動―を断行するに当たっては、まさに三輪山イヅモ神道の代弁者とも言える大三輪氏の職を賭した反対を受けたが、彼女は対抗上、藤原氏の助力を得て改革を貫徹したのである。
 後に天皇王朝下最強の貴族となる藤原氏―旧姓中臣氏―は、神話上の始祖が天孫降臨に随行したとされる伽耶系渡来人を遠祖とする豪族で、元は神と人とを媒介する霊媒者的な神官であったと見られる。かれらは仏教受容をめぐる内乱では反仏教派に与しながら、蘇我王朝下も生き延びた巧みな政略的一族であった。
 藤原氏の権勢をも高めた第二次宗教改革と「天照神道」の確立は、同時に行なわれた律令的天皇王朝制度の整備と相まって、天皇王朝の永続性を担保する精神的な土台となっていったものと思われる。
 ただし、第二次宗教改革後も仏教は排斥されず、むしろ天武‐持統時代には多くの官寺が建立され、仏教の国家管理化も推進されていたが、仏教は天皇制そのものの基礎というよりは、護国祈願的な観点からの国教という位置づけを持ち、天皇制の基礎となる神道とは役割が分担された二元的な国教体制が確立されていくことになる。

2017年11月19日 (日)

「ヒトラー逃亡説」の科学性

 2014年に米国政府がナチス指導者ヒトラーに関わる戦後の捜査資料を機密解除したことで、ここ数年、改めて「ヒトラー逃亡説」がクローズアップされ、米国のTV番組Hunting Hitler(History Channel)が取り上げるなど、関心を呼んでいる。
 「ヒトラーの死(自殺)」は歴史的には確定事実とされているが、それがなおも疑われるのは、第二次大戦末期、ベルリンを制圧したソ連軍主導の検視の杜撰さと、呉越同舟状態の連合国内部ですでに生じ始めていた冷戦に向かう相互不信のせいで、「ヒトラーの死」が科学的に確証されなかったためのようである。
 それで、戦後も一部で「ヒトラー逃亡説」が一種の陰謀理論として語られてきたが、公式資料の公開によってある程度検証が可能となった。とはいえ、当時ヒトラーの死を疑っていた米国諜報機関も追跡を断念し、打ち切った案件である。Hunting Hitlerは、その追跡を改めて民間で再開し、ヒトラー逃亡説を裏付けようとする試みであるが、資料の検証だけでは科学性を担保できないだろう。
 今後も国際的に手配される戦犯やテロ首魁は出てくるだろうが、その生死は世を惑わす陰謀理論の題材とされやすい。先進的なDNA鑑定などを駆使した国際的に中立な検証体制を構築する必要があるだろう。そうした技術も枠組みもなかった70年前の「ヒトラーの死」は、なお科学の余白のままである。

2017年11月15日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。


§16 宗義和(1818年‐1890年)

 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に満ちていた。
 最初の問題は、家督問題であった。義和は多くの側室を抱えていたが、中でも碧という平民出自の側室を寵愛するあまり、野心的な碧の教唆により、士分出自の側室が生んだ子を廃嫡し、碧の生んだ子を嫡子とする恣意的な決定を下したことで、お家騒動を招いたのだった。
 正室との間に子がなかったことが原因とはいえ、このような恣意的世襲は封建法の精神に反していた。しかし結局、碧の子が夭折したことを契機に決定は撤回され、碧も追放処分となった。この時、反碧派を形成したのが、義党という保守的な一派である。
 この問題が決着したのもつかの間、1861年には帝政ロシア軍艦ポサドニックが対馬に来航し、半年ほど対馬芋崎を占拠するという事変が勃発した。ロシア側の狙いは極東進出に必要な不凍港の租借という点にあった。その目的に沿って、ロシア側は無断で兵舎や練兵場などの建設を強行した。
 これは、大名封土とはいえ、江戸時代の日本が初めて外国に侵略された重大事件であった。事件は英国の介入を得て解決したが、辺境防備の無力をさらけ出した対馬藩では、江戸家老が幕府と密議し、宗氏の河内移封・幕府の対馬直轄移行が決まりかけた。
 しかし、これに反発した国元の義党が決起し、移封計画の中心人物であった江戸家老・佐須伊織を暗殺した。義党は尊皇攘夷派であり、前藩主義章の長州出身の正室であった慈芳院を通じて長州と結び、対長同盟を成立させたのであった。
 こうして実質的なクーデターを成功させた義党は、義和にも隠居を求め、藩主を嫡子に復帰していた義達〔よしあきら〕に交代させた。これにより、対馬藩では若い新藩主を擁した義党主導で、親長州の攘夷政治が展開されていくことになる。
 ちなみに、1863年に隠居した後の義和は明治維新を越えて20年近く長生し、廃藩置県後は余生を主に地元神社の神職として過ごして、明治23年(1890年)に没した。

2017年11月12日 (日)

資本主義的貴族制

 このところ、国際調査報道組織の手により、パナマ文書、パラダイス文書と、世界各国の富裕層・大資本がタックスへブンを利用して租税回避行為を行なっている実態が続々と暴露されている。その内容を見ると、現代資本主義社会における致富行為の技術的なカラクリがよくわかる。
 資本主義社会は生まれより能力―金を稼ぐ能力―に基づく社会と喧伝されているわけだが、金を稼ぐ能力に加え、稼いだ金を隠す能力も要求されているということである。それと同時に、これら富裕層・大資本の資産額の天文学的数値、また文書に名前の挙がる一部富裕層の暮らしぶりは、まさに現代の貴族―大資本も法人貴族―と呼ぶにふさわしいものである。
 それも個人的な能力の証だと抗弁したところで、資本主義社会でも共通して認められている相続制度を介して、蓄積した資産は子孫に継承されていくのであるから、経済的には世襲貴族も同然である。考えてみれば、中世以来の王侯貴族たちも、先祖は卑賤であったり、出自不詳であることが少なくないのであって、祖先の特定人物の成功の結果が子々孫々に継承されているだけである。
 そうした構造は、「能力社会」を標榜する資本主義社会でも変わりない。現代=晩期資本主義は、それ以前の勃興・成長期資本主義と比べても、貴族制の顕著化・固定化を進行させるだろう。それによって、資本主義は柔軟性を失い、閉塞した半封建的経済に陥っていくと展望される。

2017年11月 9日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第14回)

三 スワヒリ文明圏

キルワ貿易王国の盛衰
 スワヒリ文明圏は多くの交易都市国家に分かれ、領域的な国家はほとんど形成されなかったが、その例外として、10世紀半ば頃から16世紀初頭まで存続したキルワ王国がある。
 キルワ王国は、伝承上イラン南西部シーラーズの王子が創始したとされる。「王子」かどうかは別にしても、この地域の有力なペルシャ系商人層が王権を形成したとして不思議はない。
 王朝創設者のペルシャ人アリ・イブン・アル‐ハサン・シラージはキルワ島を在地バントゥー系部族長から買い取って都市を建設したという商業的な伝承からも、キルワ王国が商人によって建てられた可能性は高い。
 こうした建国経緯を反映して、キルワ王国には肌の白い支配層と黒人の奴隷層とが厳然と区別される人種差別的な身分制度が存在しており、バントゥー系黒人の地位は低かったが、一方で、イスラームに改宗したバントゥー系を含む中間層レベルでは混血が進み、実質的にはスワヒリ系国家として発展したものと見られる。 
 キルワ王国の経済基盤は圧倒的に、奴隷貿易を含む外国貿易に置かれていた。12世紀末に当時、金の集積地として繁栄していた現モザンビークの港湾都市ソファラを支配下に入れると、金交易の利権を独占して躍進した。この頃には、ザンジバル島も支配下に入れたキルワ王国は、13世紀以降、地域の大国となる。
 宗教的にはイスラーム系国家であり、キルワには大モスクも建設された。しかし、完全にはイスラーム化しない土着的な要素も残していたようである。13世紀頃にイエメンとの宗教的交流が深まったことを反映して、同世紀後半には王統もシラージ朝からイエメン系とされるマフダリ朝に交代している。
 これが実際の王朝交代か標榜上の宗旨替えかは不明であるが、このマフダリ朝の下、キルワ王国は最盛期を迎え、14世紀にキルワを旅した旅行家イブン・バットゥータは、キルワの壮麗さを称賛している。
  しかし、15世紀に入ると、王朝内部で権力闘争が激しくなり、王権が弱体化していく中、16世紀初頭にポルトガル艦隊の攻撃を受けて破壊された。その後は、統一性を失い、アラビア半島新興のオマーンの支配に下ることになる。

2017年11月 5日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第6回)

二 天皇制の創出と神道

宗教戦争:仏教との相克
 昆支大王による宗教改革の成果は永続的なものであり、その基本路線は以後、ヤマト王権により継承されていくが、6世紀の欽明天皇(大王;当時、天皇号はまだ存在しなかった)の時代になると、王朝開祖である昆支大王=応神天皇の神格化が大規模に行なわれる。
 その経緯は、別連載の拙稿で明らかにしたように、私見によれば昆支=応神天皇の孫に当たる欽明はクーデターにより異母兄らを排除して王位に就いた経緯から、自身の王権の強力な正当化を必要としており、それが祖父の神格化であったのだろう。
 そうした目的から開始されたのが、後に八幡信仰として定着していく新たな信仰体系である。実際、伝・応神天皇陵に隣接し、実質上最初の八幡宮と考えられる誉田八幡宮や、後世になって八幡総社の地位を獲得する宇佐神宮が欽明時代の由緒と伝えられることも、その裏付けとなろう。
 一方で、6世紀前半には仏教が王朝の先祖の地でもある百済から伝わった。伝来年には諸説あるが、552年説を採る『日本書紀』によれば、欽明自身は仏典と仏像を献上した百済の使者に欣喜雀躍したとあり、仏教を素直に受容しようとしたことが窺える。
 ただし、同時に、欽明は、仏教の取り扱いについて、一人では決めないとして慎重姿勢を取り、群臣に諮問している。ここで、蘇我氏と物部・中臣氏が意見対立したため、仏教は当面、擁護派の蘇我氏に預けることとされた。
 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の和風諡号どおり、ヤマト王権の領土を大きく拡張した征服王でもあった欽明の長期治世が終わると、王権は彼の軟弱な息子たちのために後退していく。そうした中で、改めて仏教の扱いをめぐり、王朝を揺るがす動乱が発生する。
 仏教擁護派の先頭に立った新興の豪族蘇我氏は、私見によれば自身も百済系豪族であり、心情的にも権勢確立のためにも仏教に依拠しようとしていた。対して、仏教排斥派の巨頭であった豪族物部氏は、私見によれば、ニニギのライバルとも言える伽耶系渡来集団の長ニギハヤヒを祖とする古来の豪族である(拙稿参照)。
 物部氏は、昆支大王による百済系王朝樹立後も巧みに生き残り、昆支大王による宗教改革の過程で、大神神社の神班物者(かみのものあかつひと;神への供物を分かつ人)に一族の伊香色雄が任命されたことを契機に、宗教・軍事両面で権勢を持つ最強豪族集団に成長していっただけに、古来の神道を脅かす外来宗教には敵対的であった。
 こうして、仏教派と排仏派の衝突は不可避であった。しかしよく知られているように、この宗教戦争は蘇我・仏教派の勝利に終わり、蘇我氏は王権を実質上簒奪する地位に上り詰める(拙稿で述べたとおり、私見は名実ともに蘇我王朝が成立したと解している)。
 これ以来、仏教は政治とも密接に結びつくが、神道に完全に取って代わったわけではなく、二元的な形で独特の神仏並立体系が形成されていく。しかし、これは続く第二次宗教改革とも関連してくるので、稿を改めて取り上げることにする。

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