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2017年10月

2017年10月29日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。


§15 宗義質(1800年‐1838年)/義章(1818年‐1842年)

 宗義質〔よしかた〕は先代の父義功から死の前年1811年に年少で家督を継承し、13代藩主となった。そうした事情から、成長するまでは親政を行なえず、家臣団は派閥・利権抗争に走った。父の時代からの藩政の動揺が継続したのである。
 財政経済面でも、朝鮮貿易の収支が悪化をたどる中、治世中1823年と31年の二度にわたる城下府中の大火が追い討ちをかけ、藩の斜陽化は覆うべくもなかった。対馬藩が接待役を務める朝鮮通信使も、朝鮮王朝・幕府双方の財政難もあり、義質が家督を継いだ1811年が最後となったが、財政難の藩にとってはこれ幸いだったかもしれない。
 こうして対馬藩主の栄進の最大足がかりでもあった朝鮮通信使接待がなくなったにもかかわらず、義質は歴代藩主中でも最高位の左近衛少将に昇任したが、その翌年、死去した。享年39歳ながら、在任期間は26年と比較的長かった。
 後を長男義章〔よしあや〕が継いだが、病弱と見え、わずか3年で死去した。幕末へ向けた転換期に短命藩主が続いたことは、藩政の行方を危うくした。加えて、義章が正室を長州藩主毛利家から迎え、長州藩との姻戚関係を生じたことが、幕末、長州藩の動静に巻き込まれる要因ともなるのだった。

2017年10月26日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第13回)

三 スワヒリ文明圏

ザンジュ階級の形成
 スワヒリ文明圏で、人口構成上最大を占めていたのはバントゥー系黒人であったが、アラブ人はかれらをアラビア語で「黒人の土地」を意味する「ザンジュ」の名で呼んだ。この語は、今日タンザニアに属する自治地域ザンジバルに残されている。
 ザンジュはアラブ人らの交易相手でもあったが、アラブ人はザンジュに対して差別的な意識を持っていたことは間違いない。例えば、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダシーは、ザンジュを「黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々」と決めつけているが、当代第一級の知識人ですらこの程度の認識であったことがわかる。
 その結果、ザンジュはアラブ‐ペルシャ商人層が主導したスワヒリ都市では奴隷階級として使役された。また何世紀にもわたって輸出され、アラブ奴隷貿易における中心的な「商品」とすらされたのである。ザンジュ奴隷は東南アジアを経由して、遠く中国王朝にまで「貢物」として献上され、中国文献に「僧祇奴」として転写記録されている。
 アッバース朝ではザンジュを奴隷兵士として徴用することもあったが、イラク南部の農業地帯では農園労働者としてザンジュが送り込まれた。かれらは過酷な労働条件下に置かれていたことから、9世紀後半、アラブ人革命家に煽動されて反乱を起こし、十数年にわたり地方革命政権を維持したほどの力量も示した。
 他方、ザンジュの乱直前期まで生きたアッバース朝の文学者で、アラビア散文文学の祖とも目されるアル‐ジャーヒズは、祖父がザンジュであったとされ、一部ではアラブ‐ザンジュ間の通婚もなされていたことがうかがえる。
 スワヒリ都市にあっては、アラブ‐ペルシャ系との通婚による混血はいっそう進んでいたと思われ、後代にはアラブ‐ペルシャ系とバントゥー系の区別は実質上つかなくなったであろうが、さしあたり初期スワヒリ文明圏の黒人ザンジュ階級は従属的なものであった。

2017年10月23日 (月)

神道と政治―史的総覧(連載第5回)

二 天皇制の創出と神道

第一次宗教改革:イヅモ神道の導入
 神道はヤマト王権の祭政一致体制を支える宗教的基盤となり、やがて天皇制律令国家の制度的基盤ともなるわけであるが、そこへ至るまでの過程は想定されている以上に複雑である。
 すなわち、二つの大規模な宗教改革の間に内乱を招いた仏教の伝来と受容という経過が挟まれる。このような見方はあくまでも私見であって、決して通説的に確立されたものではないが、一つの管見として提示する。
 まず、前章では行論上やや曖昧にヤマト神道とイヅモ神道の接合ということを述べたが、このような接合が成るに当たっては、政変を契機とする宗教改革の介在が想定される。このことはすでに別稿で詳論したので、そちらへ譲るが、遅くとも4世紀前葉までに成立したいわゆるヤマト王権は5世紀後葉に王朝交代の政変を経験している。
 それは、九州北部を経由して東征してきた伽耶系渡来人を主体とする王朝から、帰化した百済王子が創始した百済系渡来人を主体とする王朝への交代である。ヤマト神道とイヅモ神道の接合が起きたのは、この政変で成立した新王朝の宗教改革の結果である。
 伽耶系王朝下のヤマト王権の宗教は、天孫降臨に象徴される始祖神話に、三輪山を聖山拠点とするヤマトの土着的な信仰体系を継承加味したものであったろうが、この旧王朝を倒した百済系王朝は新たにイヅモ神道を導入したのである。
 そこには、イヅモ王権との神聖同盟という外交的な新政策が大きく影響しているが、旧王朝系勢力を宗教面から統制支配するという内政的な目的もあったと考えられる。そうした宗教改革を主導した君主(オオキミ)が、正史上にいわゆる「応神天皇」―昆支大王―であった。
 三輪山をイヅモ神道系聖山に作り変えたこの第一次宗教改革は、後に見るように、およそ一世紀後に再び覆されるのであるが、イヅモ神道の接合という成果は永続した。
 実際、三輪山自体を本殿とする大神神社の主祭神である大物主大神はイヅモ神道における大国主の「和魂」(=安らかな魂)とみなされ、配神としてまさに大己貴神(=大国主神)を祀っているのである。なお、昆支大王による宗教改革の詳細に係る私見も別稿にて詳論したので、これも管見ながら参照願いたい。

2017年10月19日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第12回)

三 スワヒリ文明圏

スワヒリ文明圏の発祥
 今日のアフリカ東海岸中央部には、バントゥー語群を代表するスワヒリ語を共通語とする大連環地域が広がっているが、この地域はまさにバントゥー人の西からの大移動によって始まった。
 バントゥー人はすでに紀元前1000年頃には大湖沼地帯に移住し、農耕文化を担っていたと見られるが、人口増の圧力により、紀元2世紀頃までには東海岸地域に進出した。
 しかし、スワヒリ文明圏の誕生に当たっては、イスラームの伝来が不可欠の触媒となった。アラビア半島で6世紀末に創唱されたイスラームは7世紀末までには紅海を越えてアラブ商人によってアフリカ東海岸にも伝えられていた。
 その結果、バントゥー人のイスラーム化が進むとともに、アラブ人やペルシャ人の定住者も加わり、血統的にも混合しながら、アラビア語の語彙を大幅に取り込んだバントゥー語変種であるスワヒリ語が地域のリンガフランカとして形成・定着し、スワヒリ語を共有する文明圏が築かれていったのである。
 こうしたイスラームを文明化触媒とする形成過程は前章で見たサハラ交易文明圏とも類似しているが、大きく異なるのは、スワヒリ文明圏ではアフリカ黒人自身を主体とする大帝国は築かれなかったことである。その代わりに、キルワやザンジバルなど島嶼部に発達した交易都市群が栄えた。
 その理由として、この地域の民族的・文化的混淆性と海に向かって開かれた交易都市文明としての性格が想定できる。実際、この地域では共同体の発祥をシラージと呼ばれる外来のペルシャ人に求める伝承など、受動的な発祥が強調されるのである。
 しかし考古学的な証拠は、この地域の中心勢力がやはりバントゥー系黒人であり、アラブ人やペルシャ人は文明形成の触媒的な役割を担ったことを示唆している。とはいえ、政治経済的な面でのアラブ人やペルシャ人の主導性は否めなかった。

2017年10月15日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第17回)

十七 正祖・李祘(1752年‐1800年)

 22代正祖は、父荘献世子が祖父の21代英祖によって処刑されたため、一代飛ばす形で英祖の後継者となった。彼は荘献世子の子であることに内心誇りを抱いていたようであるが、君主としては祖父の路線の継承者であった。
 彼は父の刑死に関わった老論派を嫌悪し、その権益を抑制しつつも、党争は避け、祖父が敷いた蕩平策を維持し、国王権力を強化する集権的な政策を施行した。国王権力の強化は軍制改革にも及び、正祖は国王直属の親衛隊として壮勇営を創設し、国王の統帥権を強化した。こうして、国王の政軍関係の掌握力を高めることが、正祖の終生にわたる施政方針であった。
 正祖はまた、好学だった英祖から文化政策も継承し、発展させた。ことに王立図書館・公文書館の性格を持つ奎章閣を設立し、ここに重要な書籍・文献を集積するとともに、文官の研修と政策立案なども併せて行なう一種のシンクタンクとしての機能も持たせたのであった。
 正祖の時代には、従来の朝鮮にありがちだった観念論的な儒学の気風に代えて、より実証的・実用的な実学の気風が広がり、奎章閣はそうした実学研究機関としての役割も担っていた。それは、正祖の改革政治の方向性ともマッチするものでもあった。
 こうした学問の平易な実学化は伝統的な学問の担い手であった両班階級から中人以下の階級まで学問的な志向が普及する契機となり、正祖時代は朝鮮王朝史上、文化が最も花開いた時代、ある種の啓蒙時代としても記憶されている。
 一方で、この時代の朝鮮社会はキリスト教(天主教)との直面を本格的に経験した。キリスト教は先代英祖の時代に一部地方に流入してきていたが、英祖はこれを邪教と断じ、すぐさま禁圧した。
 正祖時代になると朝鮮への布教が始まり、朝鮮人カトリック教徒の活動も目立ってきた。朝鮮史上初のキリスト教会が設立されたのも、正祖時代のことである。
 正祖自身は儒学を正統思想とし、カトリック(西学)を否定しつつも、弾圧は慎重に避けていたが、身内の葬儀をカトリック式で執り行って社会問題化した両班尹持忠を処刑したことで 朝鮮初の殉教者を出した。
 キリスト教の流入は西洋人の来航ともリンクしており、正祖晩年の1797年にはウィリアム・ロバート・ブロートンに率いられた英国軍艦プロヴィデンス号が釜山に漂着するという出来事もあった。
 18世紀最後の四半世紀をほぼカバーした正祖の時代は、朝鮮社会の大きな転換点に当たっており、正祖は彼なりに時代の波をとらえた改革を進めていたが、1800年、道半ばにして没した。
 彼の政治的失敗は、父荘献世子の死にも関与した英祖の野心的な継室貞純王后に報復せず、生かしておいたことだったかもしれない。正祖よりも長生した彼女は、正祖没後、再び動き出し、正祖の息子の23代純祖を垂簾聴政によって操り、正祖の諸改革を覆してしまうのである。


§14 宗猪三郎〈義功〉(1771年‐1785年)/義功(1773年‐1813年)

 10代藩主宗義暢が1778年に死去した時、彼には三人の幼年の息子たちが残されていた。そのうち最年長の四男猪三郎がまず家督を継いだが、彼は病弱であったのか、慣例であった将軍との御目見も果たさないまま、1785年、15歳で夭折する。
 当然継嗣もなく、宗家はお家断絶危機に直面する。ここで発揮されたのが、宗氏お家芸とも言える偽装工作であった。重臣らは慎重に幕閣とも謀ったうえ、死亡したのは末男の種寿であることにし、六男の富寿が猪三郎になりすまして継承するという工作を幕府黙認の下に行なったのである。
 こうして富寿が実質上の12代藩主におさまり、元服後は義功〔よしかつ〕を名乗り、先代の故・猪三郎にも偽装のため、同名を追贈した。とはいえ、就任時12歳だった義功治世の初期は重臣による集団指導体制であり、親政を開始したのは元服後の1787年以降のことである。
 義功は同時代の朝鮮国王正祖に似て、文教政策に力を入れ、新たな藩校として講学所(思文館)を開設したほか、後には九州本土側の飛び地田代領にも東明館を開設している。そのほか、幕府に数十年先立って、武芸の訓練を施す講武所を開設するなど、文武での人材基盤の強化に努めた。
 また義功の時代には、異国船を警戒する幕府の命により遠見番所を設置したほか、朝鮮への外国船来航にも対処するため、釜山倭館にも兵士を配置するなど、防備体制の強化を強いられたため、兄の時代に15万両にまで達していた幕府からの借財を含め、藩財政を圧迫した。
 しかし、財政難は解消されず、倹約令も実効を見なかった。義功自身も病気がちで指導力に欠けたため、家臣団の派閥・権益争いなどが絶えなかった。しかし在位期間は27年と比較的長く、死の前年には次男に無事家督を譲り、隠居した。

2017年10月11日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第4回)

一 古代国家と神道の形成

ヤマト神道とイヅモ神道
 いわゆる古墳時代は、全国に16万基を越える膨大な数の古墳が特定されていることからもわかるとおり、極めて地域性の強い首長制国家の乱立時代であったが、その中から、畿内を拠点とするいわゆるヤマト王権が有力化し、やがて全国的王権へと発展する。
 この畿内王権の起源に関して、筆者はつとに朝鮮半島南部の伽耶諸国から九州北部への渡来勢力がさらに東征して創始したものという説を公表しているが、その根拠として、故国に当たる金官伽耶国の始祖神話と日本神話に投影されたヤマト王権の始祖神話―いわゆる天孫降臨―の類似性を挙げた(拙稿参照)。
 この天孫系神々―天津神―の故地である「高天原」は、海を越えた大陸の暗示であり、「降臨」は渡海の暗示である。そして、天孫二二ギらの天津神にはヤマト王権を創始した集団の首長像が投影され、ヤマト朝廷の支配の根源とみなされるようになる。
 しかし、この天津神の優越性が示されるのは、国津神との対照性においてである。国津神は天津神が出現する以前から国土を治めていたとされる土着的な神々であり、その代表格たる首長神が大国主である。
 この国津神の故地はイヅモである。イヅモ王権は出雲東部に発祥し、山陰地方で勢力を張り、その影響性は北陸方面にも及ぶ裏日本における大勢力であったと見られる。
 天津神の優越性はいわゆる「イヅモの国譲り」というストーリーによって示され、この背景にはヤマト王権によるイヅモ王権の征服という史実があるという解釈が示されている。これについても、筆者は別の角度から私見を述べた(拙稿参照)。
 私見はイヅモ王権に関しても、一定の渡来的要素を認めるが(上記拙稿)、それはともかくとして、ある時点で、ヤマト王権とイヅモ王権は同盟関係を結び、やがてはヤマト朝廷へ収斂されていった過程で、ヤマトの優位性を正当化する「国譲り」の神話が政治的に作り出されたのであろう。
 ヤマト王権系の神道―ヤマト神道―は、その後現代に至る神道の基軸に据えられていき、皇室が奉ずる宗教でもあるが、一方で、イヅモ王権系の神道―イヅモ神道―も、統一神道の中に組み込まれていった。
 とはいえ、イヅモ神道も神道の個別流派として独自の地位を維持し、皇室もイヅモ神道のメッカとも言える出雲大社に礼を尽くすのは、ヤマト神道とイヅモ神道の微妙な政治的な接合関係を示している。

2017年10月 4日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第11回)

二 サハラ交易文明圏

カネム‐ボルヌ帝国
 カネム‐ボルヌ帝国は、古代から近代までチャドを拠点に広域支配した複数の継起的な王朝の総称であり、単一の帝国ではない。その全存続期間はアフリカの諸王国でも最長の1200年近くに及ぶが、チャド湖北東部に拠点を置いた前半の時代をカネム帝国、同西部に遷都した後半をボルヌ帝国と呼ぶ。
 チャドはトリポリを起点とするサハラ交易ルートの南端部に当たる地域であり、西アフリカ方面へのまさに中継地に当たり、ここを広域支配したカネム‐ボルヌ帝国もまたサハラ交易文明圏に包摂される。
 その最初期のカネム王朝はナイル・サハラ語族系の遊牧民カネンブ族によって建てられた。かれらは民族籍不詳の先住サオ人の都市国家を征服して定住化し、その高度な文化を吸収しつつ、新王朝を発展させた。しかし、11世紀後半、フマイと名乗る実力者が王権を簒奪し、新王朝を建てた。
 この新王朝の民族的出自も不詳であるが、アラブ系イエメン人の系譜を名乗るセフワ朝を称した。しかし、実際のところ、セフワ朝はやはりナイル・サハラ語族系のカヌリ人を主体としていたと考えられる。セフワ朝は13世紀に出たドゥナマ・ダッバレミ王の時、イスラーム化し、イスラーム帝国として強勢化する。
 しかし14世紀には衰退し、1376年、チャド湖西南部のボルヌ地方への遷都を余儀なくされた。王室も分裂し、存亡の瀬戸際に立たされたが、15世紀後半に出たアリ・ガジ王が王室の統一とカネム帝国時代の王都ンジミの奪回を果たした。
 16世紀後半のイドリス・アルーマ王の時代にカネム帝国時代の領域をほぼ奪回し、ハウサ諸王国も支配下に置き、ニジェール東部にまで及ぶ帝国全盛期を迎えた。その中央サハラにおける覇権は、19世紀初頭にニジェール・コンゴ語族系のフラニ人が台頭するまで続いていく。

2017年10月 1日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の姻戚には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。


§13 宗義如(1716年‐1752年)/義蕃(1717年‐1775年)

 宗義如〔よしゆき〕は先代義誠の嫡男であったが、父が1730年に死去した際は年少のため家督を継げず、二年間は叔父の方熈〔みちひろ〕が中継ぎ的に藩主を務め、32年に正式に藩主となった。義如は享保元年の生まれであり、彼が藩主となった時、幕府側では将軍吉宗による改革が断行されていた。
 しかし、吉宗の享保改革は、対馬藩にとっては悪夢の一面があった。それは朝鮮貿易における主要な輸入品であった木綿や朝鮮人参の国産化奨励策である。特に後者は義如が藩主となる直前、日光御薬園にて国産化に成功、幕府は諸藩のみならず、一般向けにも国産人参の種子(御種人参)を配布し、栽培が普及したことから、1760年代には輸入の必要性がほぼ消失してしまったのである。
 このため、対馬藩の生命線である朝鮮貿易の収支が落ち込み、かねてからの財政難を悪化させた。そのため、家臣の知行借り上げや幕府からの年一万両に及ぶ補助金支給といった緊急経済対策を講じる羽目となった。そのうえ、義如自身も52年、折から流行していた天然痘のため急逝した。
 嫡男はまだ幼少のため、後を継いだのは、1739年以来、家老職にあった弟の義蕃〔よししげ〕であった。彼は家老として幕府からの補助金獲得交渉に当たるなど、兄藩主の右腕として藩政を支えていた。義蕃は十年の治世の後、甥で義如の嫡男義暢〔よしなが〕に譲位し隠居したが、自身が死去する前年まで実権を保持するなど野心的な一面があった。
 しかも、義暢は親政開始から四年で死去したため、義蕃の治世はほぼ義蕃時代の継続期間であった。この間も財政難は続き、朝鮮通信使接待費まで幕府からの援助に頼り、元来難儀な離島からの参勤交代を三年一度に軽減する措置を受けるなど、藩の維持に苦心している。

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