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2017年9月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。


§
11 宗義真(1639年‐1702年)/義倫(1671年‐1694年)

 宗義真が先代の父義成を継いで第3代対馬藩主となったのは1657年、かの柳川一件のスキャンダルから20年の時を経て藩政が一応安定した時期であった。
 先代も、日本最古の銀山とされながら中世以来放置されていた対馬銀山の再開発や朝鮮通信使迎賓の簡素化を通じた財政改革に着手していたが、義真もこれを継承し、藩政全般の改革に乗り出した。ことに、江戸時代には各藩の主流となっていく蔵前知行制への移行である。
 この支配構造の改革は従来の封建的な領地安堵による知行から、石高に応じた俸禄による知行への変更であり、封建制を抜け出してある種の近代的な官僚制への過渡期となるような時代の変化に対応していたが、米作が低調で焼畑農業が主流だった対馬の実情に合わせ、焼畑の生産力を基準とする間高〔けんだか〕制という特殊な制度が採用された。
 また藩士や寺社への土地の集中を是正すべく、全国の藩に先駆けて、均田制度を実施した。すなわち、領内の土地をいったん藩に収公したうえ、あらためて農民に均分し、一年ごとに用益者を交替させる均田割替制であり、均田制度としても最も徹底したものである。
 しかし南九州の辺境領主島津氏の薩摩藩と同様に、兵農分離が進まず、地方給人による封建的な農民支配が残存する対馬藩では、義真の改革は不評であり、家臣団の不満が爆発した。その結果、知行制度改革の先頭に立って、その基礎となる寛文検地を実施した責任者を死罪に処すことを余儀なくされた。
 とはいえ、義真の改革は港湾整備から運河掘削、さらには小学校と称する藩校の建設など多岐にわたっており、その全体が否定されたわけではなく、1692年の隠居後も後を継いだ義倫〔よしつぐ〕、義倫夭折後は義方〔よしみち〕という二人の息子を後見する大御所として終生実権を保持した。
 対朝鮮関係では、祖父の時代に建設された釜山の豆毛浦倭館に代え、さらに広大な10万坪に及ぶ草梁倭館を建設し、新たな日本人居留地区として整備したのも義真の事績である。

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