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2017年9月

2017年9月24日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第10回)

二 西アフリカ人の商業文明

ハウサ諸王国群
 
西アフリカで商業文明を担ったもう一つのグループとして、ハウサ人を挙げなくてはならない。ハウサ人は今日では西アフリカの大国ナイジェリアで最大人口を要する主要民族となっているが、その故地は東アフリカのヌビア地方と見られている。
 もっとも、伝承上はイラクのバクダッドの王子バヤジダを遠祖とするというが、遺伝子上ハウサ人が最も近いのはナイル‐サハラ語族系のナイロート族であるとされるから、かれらは元来、ナイル‐サハラ語族だったと推定される。
 とはいえ、現在のかれらの言語ハウサ語は、古代エジプト語やアラビア語も広く包含されるアフロ・アジア語族の一分岐チャド語派に分類される。これはおそらく、かれらが西方へ大移動する過程のチャド付近で、使用言語の交替を経験したためと考えられる。
 ハウサ人は西暦700年頃までに大移動を終え、13世紀頃から今日のニジェール南部・ナイジェリア北部にかけての地域に多数の都市国家を形成した。これらの都市にはそれぞれ王ないし首長がおり、都市王国の形態を取っていた。
 西アフリカ定着後は周辺のマンデ系民族などからイスラームを受容し、イスラーム化していった。ただ、ハウサ諸王国は統一されることなく、時の西アフリカ覇権国家ソンガイ帝国とチャド方面の覇権を握るカネム・ボルヌ帝国の間を埋める緩衝国家群としてそれぞれがサハラ交易の中継ぎで収益を上げていた。
 強いて言えば、最も古いハウサ都市国家の一つであるザリアと後発のケッビが二強としてライバル関係にあったが、いずれも統一帝国を形成するには至らなかった。ハウサ諸王国は19世紀初頭に新興のソコト帝国に征服されるまで長く持続したが、これはあえて不安定な統一帝国を構築しなかったおかげとも言えるだろう。
 こうしてハウサ人は政治的に分裂しながらも、商業を通じて総体としてはナイジェリア北部で強固な地盤を確立し、西アフリカ最大の民族集団に成長するとともに、その言語ハウサ語はスワヒリ語と並びブラックアフリカにおける商取引上の共通語(リンガ・フランカ)の一つとなっていった。

2017年9月20日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自(生母は賎民)から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。


§12 宗義方(1684年‐1718年)/義誠(1692年‐1730年)

 宗義方〔よしみち〕は兄の4代藩主義倫が夭折した後を10歳ほどで継いだが、当時はまだ父の義真が後見役として藩政を掌握していたため、義方が親政を開始したのは父が没した1702年以降のことである。
 義方時代の事績としては、農民を武装動員し、対馬農業の基軸であった焼畑の敵となる猪や鹿を駆除する「猪鹿追詰」に成功したことがある。
 地方自治体における害獣対策の先駆けとも言えるこの策は、時の将軍綱吉が看板政策としていた「生類憐みの令」に抵触する恐れのある政策であったが、問責されなかったのは、「生類憐みの令」の運用が存外柔軟であったとする近年の説を裏付けるかもしれない。
 一方、義方は同時代の朝鮮側で対日関係を重視した粛宗が派遣した朝鮮通信使の接待役を務め、特に6代将軍家宣の就任祝いとして朝鮮通信使が来日した際の接待を行なった功績により、江戸幕府から肥前の飛び地で若干の加増を認められた。
 とはいえ、実高2万石程度の小藩に変わりなかったうえ、義方の時代には父義真時代の繁栄が翳り始め、財政難が顕著になっていた。そこで、倹約令を出するも、効果は見られなかった。
 義方には嫡子がなく、後は弟の義誠〔よしのぶ〕が養子として継いだが、義誠もまた財政難に苦しみ、倹約令を発するも、効果は見られなかった。結局、義方・義誠兄弟藩主の通算36年余りは、対馬藩にとって長い斜陽の始まりの時代であったと言える。

2017年9月17日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第2回)

一 古代国家と神道の形成

邪馬台国と国家祭祀
 神道は特定の創始者と創始年を特定できない伝統宗教であり、原初のアニミズムに起源を持つことはほぼ間違いない。そのため、初めから政治との関わりが濃厚だったいわゆる世界三大宗教とは異なり、元来は民間信仰の性格が強かったはずである。
 それがいつ頃から政治との結びつきを持ち始めたのかは史料もなく不明としか言いようがないが、日本の古代国家揺籃期における国家祭祀に関する最も古い記録は、やはり『魏志倭人伝』の記述であろう。とはいえ、その記述はごく簡潔である。
 そこではまず民間の宗教的習俗として、何らかの事を起こすに際して、骨を焼き、火の裂け目を見て吉兆を占う卜占の存在に言及され、それは亀の甲羅を用いる中国の「令亀の法」のやり方と似るとも指摘されている。これは邪馬台国に限らず、日本―中国側が「倭」と認識していた限りの領域―の共通習俗として描かれている。
 より政治と関わる記述としては、邪馬台国女王・卑弥呼の人物紹介の箇所で、女王が「鬼道」に使え、民衆をよく惑わすという簡単な記述があるのみである。ここで言う「鬼道」の内容について具体的な記述はないが、女王自身も卜占的な祭祀を執り行う立場にあり、民衆もそれを篤く信仰していた様子が伺える。
 卑弥呼推戴の経緯は、小国間での長年の内乱を終結させることにあったとも記されているから、卑弥呼が体現した宗教は民衆のみならず、小国の首長ら支配層をも従わせ、戦乱を収拾し、和平を保障するような力を帯びていたことをも裏書きしている。
 邪馬台国の地理的位置づけについてはいまだに論争は決着していないが、この国家が何処に所在しようと3世紀の弥生時代末期における日本の代表国家であったことは間違いなく、この国にはすでに祭政一致の政治体制が存在したことも間違いない。
 邪馬台国の政治では夫を持たない卑弥呼女王の男弟が摂政のような役割を負っていたとされ、また諸国の検察も邪馬台国傘下の伊都国に置かれた「一大率」が掌握したとあることからも、女王は俗権を超越し、専ら国家祭祀を受け持つ聖俗二分的な体制が採られていたとも解釈できる。この点、後の律令国家では天皇が聖俗にまたがる権威を持ったのとは構造が異なっている。
 そうしたことから、日本における3世紀の古代国家揺籃期の時代から国家祭祀が形成され始めていたことは確認できるとしても、それが後の神道の直接の祖と言えるかどうか、まして卑弥呼が神道における主神でもある天照大神の実在モデルかどうかについては断定できない。

2017年9月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第9回)

二 西アフリカ人の商業文明

マリ/ソンガイ帝国の繁栄
 ガーナがムラービト朝の攻撃を受けて衰亡した後、西アフリカはしばらく混沌とした情勢に陥るが、その中で優勢だったのは、やはりマンデ語派のスースー族が建てたスースー王国であった。
 これに対し、スースー王国の支配下にあったマンディンカ族が伝説的英雄スンジャータ・ケイタの指導で反乱を起こして勝利、ケイタがマリ王国を建てた。この新王国は非常な成功を収め、ガーナの実質的な後継者として、金を資源的基盤としたサハラ交易を掌握し、経済的にも繁栄を極めた。
 この頃から次のソンガイ帝国の時代にかけ、ニジェール河中流域のオアシス都市トンブクトゥはサハラ交易の中継拠点として繁栄し、西欧にも「黄金郷」として知られるほどとなった。トンブクトゥにはイスラーム商人のほか、知識人も集まったことから、西アフリカにおけるイスラーム教学の中心ともなり、この地域のイスラーム化をさらに深化させる役割も果たした。
 マリは14世紀前半に出たマンサ・ムーサ王の時、その最盛期を迎える。彼は巨額の資産を有するとともに、敬虔なイスラーム教徒でもあり、1324年に大がかりなイスラーム聖地メッカ巡礼を挙行して名を残した。その際、大量の金の喜捨を行なったため、金相場が暴落したとの逸話も残る。 
 周辺小王国を服属させ、域内人口が5000万人ともされる帝国的隆盛を極めたマリであったが、14世紀後半以降は弱体化し、南北から外部勢力の侵攻をたびたび受け、衰退していく(最終的滅亡は17世紀前半)。代わって、覇権を握ったのはソンガイ王国であった。
 その発祥民族であるソンガイ族はガーナやマリを担ったニジェール・コンゴ語族ではなく、ナイル・サハラ語族に属しており、元はニジェール上流域のガオを首都とする独立王国として繁栄したが、マリ帝国時代はマリに服属していた。
 ガオはマリが衰退した14世紀後半以降、優勢となり、スンニ・アリ王の時、マリを破りソンガイ帝国の基礎を築く。しかし、後を継いだ息子のスンニ・バルは1493年、ソニンケ族出身の軍人アスキア・ムハンマドのクーデターで王位を追われた。
 このクーデターの背景には、イスラームへの帰依を拒否したスンニ・バルへのイスラーム勢力の反発とガーナ以来、閉塞していたソニンケ族の権力奪還という二つの要素があったように見える。アスキア・ムハンマド王は、イスラーム教を主軸とする体制を確立するとともに、伝統のサハラ交易をいっそう強化し、ソンガイ帝国の全盛期を作った。
 しかし、晩年失明したアスキア・ムハンマドが息子たちによって廃位された後は、王位継承争いが激化する中、ソンガイは衰退していく。最終的には16世紀末の1592年、北アフリカで勢力を強めていたモロッコに侵攻され、滅亡した。

2017年9月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。


§
11 宗義真(1639年‐1702年)/義倫(1671年‐1694年)

 宗義真が先代の父義成を継いで第3代対馬藩主となったのは1657年、かの柳川一件のスキャンダルから20年の時を経て藩政が一応安定した時期であった。
 先代も、日本最古の銀山とされながら中世以来放置されていた対馬銀山の再開発や朝鮮通信使迎賓の簡素化を通じた財政改革に着手していたが、義真もこれを継承し、藩政全般の改革に乗り出した。ことに、江戸時代には各藩の主流となっていく蔵前知行制への移行である。
 この支配構造の改革は従来の封建的な領地安堵による知行から、石高に応じた俸禄による知行への変更であり、封建制を抜け出してある種の近代的な官僚制への過渡期となるような時代の変化に対応していたが、米作が低調で焼畑農業が主流だった対馬の実情に合わせ、焼畑の生産力を基準とする間高〔けんだか〕制という特殊な制度が採用された。
 また藩士や寺社への土地の集中を是正すべく、全国の藩に先駆けて、均田制度を実施した。すなわち、領内の土地をいったん藩に収公したうえ、あらためて農民に均分し、一年ごとに用益者を交替させる均田割替制であり、均田制度としても最も徹底したものである。
 しかし南九州の辺境領主島津氏の薩摩藩と同様に、兵農分離が進まず、地方給人による封建的な農民支配が残存する対馬藩では、義真の改革は不評であり、家臣団の不満が爆発した。その結果、知行制度改革の先頭に立って、その基礎となる寛文検地を実施した責任者を死罪に処すことを余儀なくされた。
 とはいえ、義真の改革は港湾整備から運河掘削、さらには小学校と称する藩校の建設など多岐にわたっており、その全体が否定されたわけではなく、1692年の隠居後も後を継いだ義倫〔よしつぐ〕、義倫夭折後は義方〔よしみち〕という二人の息子を後見する大御所として終生実権を保持した。
 対朝鮮関係では、祖父の時代に建設された釜山の豆毛浦倭館に代え、さらに広大な10万坪に及ぶ草梁倭館を建設し、新たな日本人居留地区として整備したのも義真の事績である。

2017年9月 7日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第8回)

二 西アフリカ人の商業文明

イスラームの受容
 アフリカ黒人は、隣接するエジプト文明から多大な影響を受けたヌビア人を除けば、高度な文明圏から地理的に隔絶されていたため、独自の文化を発達させつつも、文字体系も備えた高度文明を創出することには難儀していた。その状況を変えたのは、西アジアから到来してイスラーム教であった。
 アフリカ黒人のイスラームの受容は、西アフリカから始まった。この地域と西アジア方面の間は広大なサハラ砂漠で隔てられているが、かつて緑地だったと想定されるサハラも紀元後には砂漠化が進行しており、紀元3世紀頃には乾燥に強いラクダが移入され、ラクダを使役した交易が盛んになり始めていた。気候変動に伴う砂漠化の進行が人々から生活の場を奪う一方で、砂漠をルートとする交易は活発化するという歴史的な皮肉であった。
 そうしたサハラ交易の利益を掌握するようになっていったのが、前回も見たガーナである。7世紀にイスラーム集団によって北アフリカが征服されると、隊商交易のネットワークが確立され、ガーナはその西の終点への中継で利益を得ることになる。その資源的基盤となったのは、「黄金の国」とも評された金であった。
 ガーナに関する最初の史料情報は9世紀のイスラーム学者によってもたらされているが、ガーナ自身は史料を残さなかったため、その実態の詳細は必ずしも明らかでないが、今日的な知見によると、ガーナ王国はマンデ語派の中でもソニンケ族と呼ばれる民族集団を主体とする国家で、それぞれの王を持つ都市国家の連合王国という構造を有していたと見られるが、連合王国の王は高い権威を持っていたようである。
 アフリカ旅行者からの情報を収集し、ガーナの繁栄ぶりを描写した11世紀のコルドバの学者アブ・ウバイド・アル‐バクリによると、この時代のガーナはイスラームの受容を始めた唯一の黒人国家とされ、遅くとも11世紀にはイスラーム教がガーナに浸透していたことがわかる。
 しかし皮肉なことに、イスラームの受容はガーナ王国の文明化とともに衰退をもたらした。その要因として、1076年、ガーナの交易利益の横取りを狙った北アフリカの新興イスラーム王朝ムラービト朝による攻撃を受けて事実上征服されたことがあった。
 ガーナはその後も細々と存続したようではあるが、13世紀に入ると、同じマンデ語派系マンディンカ族が建てたイスラーム系マリ王国の興隆により、同国に吸収され消滅したと考えられる。これ以降、西アフリカの覇権はマリが握ることになる。

2017年9月 3日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第1回)

小序 

 当連載は、日本の伝統宗教である神道と政治との関わりについて、史的に総覧することを目的とする。先般、筆者は「仏教と政治」に関しても、世界史的な視野から史的な総覧を試みたところであるが、当連載はそれに引き続く姉妹的な連載として位置づけられるものである。
 ただし、言うまでもなく、神道は仏教のように国境を越えて広く普及した国際宗教ではなく、日本の土着的伝統宗教であるので、史的総覧の範囲も日本史的視野に限局される。
 神道は日本人が最も気軽に参拝する宗教施設である神社に象徴されるれっきとした宗教であるが、「お稲荷さん」のようにあまりに日常化しているせいか、それが「宗教」であるという認識さえ持ちにくく、まして「お稲荷さん」を政治と結びつけて考えることなどまずない。
 しかし「お稲荷さん」の由来ですら、歴史的に立ち入れば政治と大いに関係がある。一方で、「神道と政治」と言えば、旧国家神道や現代の議会政治内での神道政治連盟などが想起されるが、こうした近・現代の生々しい政治的動向だけが「神道と政治」のすべてではない。
 神道は、先史日本のアニミズムに源流を持ちつつ、宗教的な祭祀体系として整備される過程で、時代により政治的な浮沈を経験してきており、政治との関わりは複雑微妙である。それを辿ることで、神道というどこかとらえどころのない独異な宗教の新たなかたちも見えてくるように思われる。
 このように、当連載は神道を宗教史的ではなく、あえて政治史的に検証することによって、仏教とともに日本人の精神性を形成してきた神道の姿を改めてとらえ直す小さな試みである。その点で、神道を国粋的に称揚する言説とも、反対に思想的に危険視する言説とも一線が画されるであろう。

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