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2017年8月

2017年8月30日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載最終回)

十二 現代政治と仏教

宗教対立の中の仏教②
 現代における上座部仏教と他宗教との対立紛争の事例として、東南アジアの上座部仏教系の二大国であるタイとミャンマーでは少数派イスラーム教徒との対立紛争が生じている。
 このうち、タイでもマレーシアとの国境に近い深南部はマレー系住民が多く、14世紀から20世紀初頭まで、イスラーム教を奉ずるマレー系のパタニ王国が所在していたところである。パタニは全盛期の17世紀には貿易立国として栄えたが、タイ諸王朝に対しては属国の関係にあり、国力が衰退した20世紀初頭にはタイに併合された。
 こうした経緯から、タイ深南部にはイスラーム教徒が多く、反中央政府の気風が伝統的に強い。タイ政府は反政府運動を厳しく抑圧しつつ、この地域の民族同化政策を展開してきたが、開発の遅れや貧困は必ずしも解決せず、同化政策への積年の反発も強いと見られる。
 特に2000年代以降は、中東でのイスラーム過激主義の浸透により、パタニ王国再興やマレー系イスラーム国家の樹立を掲げた分離独立運動が活発化し、武装テロ事件が相次ぐ状況となっているが、反政府側も多数の組織に分裂しており、現時点では内戦と言える段階には達していない。
 他方、ミャンマーでは、バングラデシュと接するラカイン州を中心に居住してきたイスラーム教徒集団ロヒンギャへの抑圧と大量難民化が国際問題となっている。
 ロヒンギャの起源は必ずしも明らかでないが、ミャンマー多数派のビルマ系ではなく、英国統治下で英領インドの一部であったバングラデシュから移住(または帰還)してきたベンガル人の末裔と見る説が強い。
 戦後独立したビルマはロヒンギャの国籍を剥奪したことから、かれらは無国籍者となり、元来難民化しやすい状況にあった。ただ、長い軍事政権下では徹底した抑圧により動きは封じられていたが、民主化の過程でロヒンギャ側も武装反政府運動を活発化させ、2012年頃から政府軍との武力衝突がたびたび起きている。
 その結果、大量のロヒンギャが密航船で海上脱出を図り、ボートピープル化した。2015年に長年の民主化運動指導者アウンサンスーチーを事実上の指導者とする新政権が成立した後も、新政権はロヒンギャ問題に正面から取り組まず、むしろテロ対策として軍による強権的な掃討作戦を展開し、仏教徒側の排斥運動も活発化しているため、ロヒンギャ難民は増大している。
 タイ、ミャンマーいずれの事例でも、イスラーム教側は少数劣勢であるため、多数派仏教側が単なる「テロ対策」で片付けることなく、仏教本来の寛容や慈悲の教理に立ち戻り、宗教問題として正面から取り組むことが期待されるだろう。

2017年8月27日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第36回)

十二 現代政治と仏教

宗教対立の中の仏教①
 仏教が政治的な優越宗教として他宗教との間で深刻な対立紛争を引き起こす例は決して多くはないが、戒律が厳格で保守的な上座部仏教系においてはいくつかの事例が見られる。中でも、スリランカ内戦は最も代表的かつ深刻な一例である。
 上座部仏教の源流地スリランカでは、英国植民地統治下で一時仏教は閉塞したが、仏教はキリスト教に押さえ込まれることなく生き延び、19世紀後半以降はアナガーリカ・ダルマパーラのようなシンハラ知識人を中心に仏教を精神的な基盤とするナショナリズムが興隆する。
 一方、スリランカには古くから多くはヒンドゥー教徒のタミル人が居住していたことに加え、英国は紅茶プランテーション労働力としてインドから移入したタミル人を優遇し、その子孫は1948年の独立後も定住化したため、スリランカ・タミル人は少数派ながら無視できない勢力となった。
 そうした中、独立後のスリランカでは植民地時代の反動から、多数派シンハラ人によるシンハラ優越主義の風潮が強まり、選挙権の剥奪などタミル人差別が構造化されていった。その際、シンハラ支配層側は仏教を至高宗教と位置づけたことから、この両民族の対立は、宗教上は仏教対ヒンドゥー教の対立として現れることになった。
 タミル人側は対抗上、独立国家タミル・イーラムの樹立を目指し、1970年代半ばから活動家ヴェルピライ・プラバカランを指導者とする武装ゲリラ組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)を結成して、分離独立運動を開始する。
 この対立は1983年以降、完全な内戦に突入する。LTTEは武装化を進め、ゲリラ戦と大統領暗殺などの爆弾テロを併用しつつ、北部の都市キリノッチを拠点として事実上の占領地を設定した。内戦は親タミル派のインドの介入が失敗した後、ノルウェーの中立的な仲介により和平が成立するかに見えたが、これも挫折した。
 最終的には、2006年から政府軍による大規模な掃討作戦が展開され、09年、LTTEの実質的な降伏宣言とそれに続くプラバカランらLTTE指導部の全員殺害を経て、内戦はシンハラ政府軍の全面勝利に終わった。この四半世紀余りに及んだ戦争の犠牲者数は、最大推計で10万人に達する。
 09年以降は、内戦からの復興と民族的・宗教的和解のプロセスの段階にあるが、シンハラ人優位の構造は内戦勝利によりいっそう強化され、なおタミル人差別・迫害が続いているという報告もあり、楽観を許さない状況である。

2017年8月23日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載最終回)

第二部 現況~未来

(10)環境的滅亡危機
 当連載は「世界の縮図」というサブタイトルのもとに展開してきたが、最終章はまさに世界的な問題である気候変動がオセアニアの島嶼国家にもたらしている国家存亡の危機に関する。
 オセアニアを危機にさらしているのは、気候変動に由来する海面上昇である。海面上昇の影響はもともと低海抜の環礁が多いオセアニアの島嶼国家を直接的な水没の危機にさらす。中でもキリバスとツバルである。いずれも多数の環礁で構成された典型的なオセアニアの島嶼国家である。
 特にキリバスはいち早く政府もこの問題に取り組み、2003年から15年にかけて、キリバス政府や地球環境ファシリティー、国連開発計画、日本政府などが共同で5500万ドルを投入し、三段階に分けてキリバスの水没危機を軽減するプログラム「キリバス適応計画」を実施してきた。
 その間、2010年には同国の首都タラワ環礁で、キリバス政府の主宰による「タラワ気候変動会議」が開催され、気候変動の原因や弊害について世界に強く訴えかける即時行動を求める「アンボ宣言」を同国のほか日本や中国を含む12か国共同で採択した。キリバスは小国ながら気候変動問題では大きなリーダーシップを発揮しようとしている。
 その一方で、キリバス政府はまさに国家の消滅をも視野に、域内のフィジーへの全国民移住計画も検討している。こうした国家の環境的滅亡危機によって生じる難民―環境難民―は、従来の戦乱や飢餓から生じる難民とは異なり、温暖化が進行した未来世界を先取りする現象である。
 他方、ツバルは海面上昇に対して脆弱な地質構造を持つため、一説によれば海面上昇の進行により、最初に水没する危険が指摘されている。ただ、ツバル政府は全国民移住計画には消極的で、気候変動への世界的な取り組みにより海面上昇を抑制することを強く求めている。
 国家存亡の危機に至らないまでも、塩害による廃農や満潮時の浸水、海岸侵食の進行などはマーシャル諸島など他のオセアニア諸国でも大なり小なり見られるところである。こうした問題の解決はオセアニア域内の課題ではなく、まさに地球規模の世界的な課題である。
 最後に、ツバルのエネレ・ソポアガ首相が2015年の国連気候変動会議(COP21)で演説を締めくくった次の言葉で稿を閉じることしたい。

 ツバルのために行動しましょう。なぜなら、私たちがツバルを救えば、ツバルも世界を救うからであります。

2017年8月20日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第20回)

第二部 現況~未来

(9)中国のオセアニア進出
 オセアニア地域への中国人の進出は、清朝時代の19世紀後半以降、いわゆる苦力〔クーリー〕労働者を含めた移民の形で進み、特にオーストラリアの主要都市には大規模なチャイナタウンが形成された。その他ハワイをはじめとする島嶼地域にもそれぞれ地場のチャイナタウンが形成されていった。
 こうした華人移民は、土着した場所で財力を蓄え、政治にも進出する。パプアニューギニアで1980年代と90年代に三度首相を務めたジュリアス・チャンや、キリバスで2003年から16年まで大統領を務め、気候変動問題に関してリーダーシップを取ったアノテ・トンなどは華人系の代表的な政治家である。
 こうした華人移民集団とは別に、現代中国は国家単位でオセアニアに進出する動きを強化している。中国はかねてより、太平洋方面にアメリカを意識した二本の「列島線」なる拡大的防衛戦略ラインを引いてきたが、近年はそうした消極的な防衛ラインを超えた積極的な太平洋進出政策を展開する。
 これは、豪米同盟を基軸とする覇権が確立されてきたオセアニアに中国が割り込み、とりわけオセアニア最大のチャイナタウンを擁するオーストラリアとの経済関係を足場に、オセアニアにおけるアメリカのプレゼンスを相対的に低下させる狙いを伴っていると見られる。
 それと同時に、1971年の中国の国連加盟・台湾の脱落後も台湾と外交関係を維持する小国が少なからず残されているオセアニアにおいて、台湾に対する外交的優位性を確立するための攻勢という側面もあるであろう。
 小国の側でも域内覇権国であるオーストラリアへの従属を避けたい思惑から、中国の経済進出を利用しつつ、産業基盤の弱さを補填し、国の開発を進めたい思惑が一致する。中でも、中国との関係が近年とみに高まっているのが、フィジーである。
 フィジーは独立以来、中国とは友好関係にあるとはいえ、2006年の軍事クーデター以来のバイニマラマ政権は民主化圧力をかけるオーストラリアを回避する形で中国との経済・軍事関係を強化しており、特に軍事援助が突出していることが注目される。
 こうした中国のオセアニア進出に対して、先住民衆の間から反中感情の表出もなくはない。06年にソロモン諸島で発生した反中暴動はその予兆であった。中国の進出が経済援助的な性格を超え、覇権主義的な色彩を帯びるならば、全般的に反中感情が高まる恐れもあるだろう。

2017年8月17日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都漢城を制圧した。仁祖は漢城南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。


§10
 宗義成(1604年‐1657年)

 宗義成は、近世大名対馬藩主宗氏二代目として、初代の父義智の後を継いだ。二代目にはおうおう苦難がのしかかることが多いが、彼の場合は藩の存続に関わる重大な不祥事であった。先代が幕命により朝鮮との国交回復交渉に当たっていた際、幕府の国書を偽造していた一件が発覚したのである。
 対馬藩がこのような挙に出たのは、交渉過程で朝鮮側が幕府の国書の先提出を要求してきたところ、そのような屈辱的対応をしかねたことにあったようである。結局、藩では幕府の国書を改ざんして形式上朝鮮側の要求に応じつつ、朝鮮側の「回答使」を幕府側が求めた正式の「通信使」と偽って、その返書も改ざんするという二重改ざんという手の込んだ偽装で交渉をまとめていたのである。
 実のところ、こうした対朝鮮関係での文書偽造は、宗氏にとっては中世の守護大名時代からの常套手段であり、ある種のお家芸であったのだが、この件に限って露見したのは、自ら改ざんにも関与した家老柳川調興〔しげおき〕の内部告発による。
 野心家で、幕府中枢ともつながっていた調興は幕府直臣の旗本に昇進することを狙って義成と対立したため、対抗策として内部告発に出たようである。この一件は時の将軍家光自らが裁く公開訴訟に発展したが、調興敗訴・弘前藩預かり、義成は咎めなしという結果に終わった。
 このように内部告発者側だけが責任を問われたため、「柳川一件」とも称される不公平な裁定は、おそらく幕府としても、朝鮮情勢に明るい宗氏の存続を認めたほうが得策という政治判断の結果であろう。しかし、藩で対朝鮮外交に当たっていた調興や、臨済宗僧侶規伯玄方らの実務者が罪状を問われ追放された結果、宗氏の朝鮮外交は行き詰まった。
 それに付け入る形で、幕府は新たに宗氏の対朝鮮外交を補佐する朝鮮修文職を置き、京都五山僧を対馬に派遣する制度を創設した。これにより、以後の対朝鮮外交では幕府の統制権と宗氏の代官的性格が強まるのである。これは、家光政権の情報・貿易統制=「鎖国」政策とも関連する大きな転換点であった。

2017年8月 9日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第7回)

二 サハラ交易文明圏

サハラ交易と文明開化
 ヌビア人の王国が衰亡した後、アフリカ黒人の活動中心は西アフリカへ遷移し、西アフリカの文明開化を刺激するが、その契機となったのは、サハラ砂漠をルートとする交易活動―サハラ交易であった。
 かつて緑地だったと想定されるサハラも紀元後には砂漠化が進行しており、紀元3世紀頃には乾燥に強いラクダが移入され、ラクダを使役する交易が盛んになり始めていた。気候変動に伴う砂漠化の進行が人々から生活の場を奪う一方で、砂漠をルートとする交易は活発化するという歴史の皮肉であった。
 この地域でラクダ交易を最初に開始したのは、北アフリカ地域全体に割拠したアマジクの諸族であったが、かれらはアフリカ黒人ではなく、アフロ・アジア語族に属するコーカソイドである。アマジクはイスラーム勢力の北アフリカ征服により順次イスラーム化し、後に強力なイスラーム諸王朝を築く。
 サハラ交易の主要ルートは、現モロッコからニジェール河北部へ通ずるニジェール・ルートと現チュニジアからチャド湖付近へ通ずるチャド・ルートの二本があったが、前者のニジェール河流域では紀元前3000年紀から先行の農耕文化圏が拓けている。しかし、それはナイル河流域のような文明圏に発展することはなかった。
 やがてこの流域ではバントゥー人とも同系のニジェール‐コンゴ語族に属するマンデ語派諸族の村落群が出現するが、その中からガーナが優勢化し、早ければ紀元4世紀には王国を形成したとされる。後にガーナ王国は隊商交易で巨富を築くことになる。
 このガーナを嚆矢として、西アフリカからチャド湖付近にかけてのサハラ交易ルート沿いには、アフリカ黒人を担い手とする商業文明圏―サハラ交易文明圏―が築かれていくのである。

2017年8月 6日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第35回)

十二 現代政治と仏教

日本の「議会政仏教」
 日本では明治政府による廃仏毀釈政策の結果、中世以来の伝統仏教勢力が急速に閉塞することとなり、仏教は神道に劣後する二級宗教に転落した。その一方で、昭和に入ると、伝統仏教勢力の外部で新興の仏教団体を創立する動きが見られた。
 それらの教団には日蓮宗・法華系標榜宗派が多いことが特徴であるが、そこには、既存宗派の枠にはまらない日蓮宗の持つ在野的性格が影響しているのかもしれない。しかし、戦時体制下で神道系も含む新興宗派全般に対する当局の監視が強まり、創価学会のように幹部が検挙され、弾圧される場合もあった。
 戦後は、憲法で保障された信教の自由の下、新興仏教団体が無数に創立されていく。そうした中で、戦前創立の大規模な教団の中には、議会政治に直接間接に参加するものも現れた。いち早く系列政党を結成し、国政に進出したのは法華系の創価学会(以下、学会と略す)である。
 学会は1956年に初めて傘下参議院議員を出したのを契機に、64年には正式に公明党を結成し、67年総選挙で25名の当選者を出して以来、中道を標榜する議会政党として今日まで定着、1990年代以降は、たびたび連立政権の一角を担うに至っている。
 ちなみに近年、学会同様に系列政党の幸福実現党を通じた議会参加を試みているのは仏教ベースの独異な教義を持つ幸福の科学であるが、現状、少数の地方議員を擁するものの、国政では地歩を築いておらず、現時点で国政レベルへの進出で学会以上の成功を収めている仏教系団体は存在しない。
 また、戦前に法華系の霊友会から分派した立正佼成会は戦後の選挙運動を通じて主として自由民主党(自民党)を支援してきたが、ライバル関係にある学会系の公明党が自民党と連立を組むと流動化・個別化し、旧民主党・民進党系の支持に傾斜していると言われる。
 このように日本の戦後政治は、伝統仏教勢力以上に新興仏教勢力と議会政とのつながりにおいて、他の仏教諸国にも見られない独自の展開を見せている。もっとも、こうした言わば「議会政仏教」は、憲法が信教の自由とともに規定する政教分離原則との緊張関係を常にはらんでおり、特に教団系列政党の政権参加は憲法上も機微な問題を提起することは否定できない。
 ところで、90年代半ば、松本と東京で神経ガスサリンを散布する化学テロ事件を起こし、世界を震撼させたオウム真理教は、日本では珍しい上座部仏教に近い教義を持つ新興仏教団体であったが、かれらも当初は国政参加を狙い、選挙に参加するも目的は達成されなかった。それを契機に教団は過激化・武装化に走り、テロ事件を惹起するに至ったとされる。
 平和なイメージの仏教がテロに関与することは稀であり、教団被害対策に当たった弁護士一家惨殺など敵対人物を標的とする多数の凶悪事件を組織的に起こしたオウム真理教はあまりにも特異な存在であったが、「国家」の樹立まで目論んだとされる教団は現代日本における議会政仏教への過激なアンチテーゼだったのかもしれない。

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