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2017年7月

2017年7月19日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第15回)

十六 尚泰王(1843年‐1901年)

 尚泰王は先代の父尚育王が若くして没したことから、1848年、幼少で即位した。そのため、治世初期の欧米列強との相次ぐ条約締結で主導的役割を果たすことはなかった。
 1850年代に琉球が締結した一連の条約のうち最初は米琉修好条約であったが、このとき米側のペリー提督は琉球征服を日本開国の突破口と認識して琉球に現れ、強硬上陸したのだった。日本に先立つ黒船来航である。
 最終的に、琉球は日米和親条約に引き続いて、不平等条約の性質を持つ琉米修好条約の締結を半ば強制されることになる。これをきっかけに、フランス、オランダとも同種条約の締結を強いられた点は、日本本国の安政五か国条約の経緯と類似している。
 こうした不平等条約の締結は、江戸幕府(将軍徳川家定)、琉球王国ともに元首が弱体であったという事情が相当に影響していると思われる。
 幼少で即位し、琉球王国最後の王となった尚泰王の治世は、日本側の幕末から明治維新をはさんで24年に及んだが、明治維新後の治世に関しては、稿を改めて見ることにする。


八´ 島津斉彬(1809年‐1859年)

 薩摩藩主の中でも特に著名な島津斉彬は若くして洋学志向の改革派であったことから、緊縮財政派の父斉興に警戒され、庶子の久光への譲位が画策されたが、斉彬はこの企てを打ち破り、お家騒動(お由羅騒動)を利用して藩主の座を勝ち取ったことは前回述べた。
 1851年に藩主に就任した斉彬は開明・開国派として藩の富国強兵に務め、後の明治維新政府の先取りのような政策を藩内で実施するとともに、養女に取った親類の篤姫を将軍家定正室として送り込み、将軍家と姻戚関係を結び、幕府との人脈を生かし、外様ゆえに幕府要職には就かないまま、幕政改革にも介入した。
 斉彬はとりわけ洋式軍備に強い関心を寄せ、側近市来四郎を琉球に送り、琉球を介してフランスから兵器の購入を計画した。この際、薩摩藩に非協力的だった琉球王府の人事に干渉し、通訳官として薩摩の評価も高い牧志朝忠ら親薩摩派の陣容に立て替えている。
 他方、幕政では家定死後の将軍後継問題で一橋(徳川)慶喜を推し、大老井伊直弼と対立した。井伊は安政の大獄の強権発動で、紀州藩主徳川慶福(家茂)を将軍に擁立、反発した斉彬は挙兵上洛を企てるが、兵の観閲中に発病し、間もなく急死した。
 存命中の父斉興や異母弟久光ら守旧派による暗殺説も囁かれる斉彬の急死は、琉球王府の権力闘争にも直接波及し、大規模な疑獄政変を引き起こすが、これについては稿を改めて見ることとにする。

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年7月12日 (水)

東西融合医学

 今日、単に「医学」と言えば、西洋医学を指すと決まっているが、原因不明の様々な症状に悩まされるようになると、西洋医学の限界を痛感する。
 病体を壊れた機械のように修理する西洋医学は命に関わるような急性的症状への外科手術を含めた緊急対処や当面の症状軽減のための対症的薬物治療は得意だが、直ちに命に関わらない慢性的かつ多臓器的な症状―実は健康問題の大半を占める―への根治療法は不得手である。
 その点、病体をより総合的に把握する東洋医学の一環である中医や漢方は、西洋医学の知らない治療法の宝庫のようである。ただし、その欠点は経験優位で科学的な確証(エビデンス)が不充分なことである。
 東洋医学を科学的に解明し直したうえ、西洋医学と融合し、その不得手な領域を克服する医学体系の脱構築的再編が求められる時代ではないかと思う。その点、東洋医学は科学の余白というより、空白地帯かもしれない。
 未来の医療は、西洋医学至上ではなく、東西融合医学に基づき、医師も東西両医学体系を身につけた施術者であるべきではないか、と願望する。

2017年7月 5日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第34回)

十一 近代国家と仏教

インドの仏教復興運動
 発祥地インドでは伝統的なバラモン→ヒンドゥー教に押し返されて極小宗派となった仏教であるが、近現代になって、反カースト差別の政治運動と結びつく形で部分的な復興の動きがある。
 その創始者ビームラーオ・アンベードカルはカースト制度最下層身分ダリットに出自し、戦後独立したばかりのインドの法務大臣や憲法起草者を務め、「インド憲法の父」とも称される法律家・政治家であって、宗教家ではない。政治家としての彼の最大の目標はインドの宿痾とも言うべきカースト差別廃絶にあった。
 彼は死の直前に仏教に改宗したにすぎないが、この時、彼の支持者である50万人規模のダリットも集団改宗したことで、戦後インドにおける仏教復興運動が開始されたとみなされる。
 こうした経緯から、この運動はアンベードカル独自の仏典解釈に強く影響されている。例えば、仏教における根本概念である輪廻転生・因果応報はカースト差別の正当化に利用されかねないことから否定されるなど、合理主義的な性格が強い。
 従って、このアンベードカル主義仏教を厳密に分類することは難しいが、内容上は上座部仏教を土台としながらも、後発の大乗仏教や密教まで包摂した止揚的な新仏教であり、ある種の仏教系新興宗派とみなすこともできるかもしれない。
 こうしたアンベードカル主義の仏教運動は、彼の死後も支持者らによって継承され、インドにおいて一定の勢力を保持している。政党では、ダリットを支持基盤とする中道左派政党である大衆社会党にも浸透し、同党は2007年のウッタル・プラデーシュ州議会選挙に勝利して、州政権を獲得した(12年選挙では敗北下野)。
 とはいえ、インドにおける仏教徒人口は1パーセントに満たず、釈迦による創唱当初の勢いは見られない。多数派ヒンドゥー教からの批判も根強く、全国的な広がりには程遠いが、現代インド仏教はカースト差別克服問題と結びつく形で独自の展開を見せていることは間違いない。
 なお、前回も見たとおり、インドは1959年以来、北部ヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムサラ(ダラムシャーラー)にダライ・ラマ14世とチベット亡命政府の存在を認め、庇護している。結果として、ダラムサラはインドにおけるチベット仏教拠点として定着した。
 しかし、インド連邦政府は中国との関係維持のため、ダライ・ラマあるいはその支持勢力による政治的活動には否定的であり、もともと微妙な中印間における微妙な外交問題となっている。

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