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2017年6月

2017年6月28日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第6回)

一 「残アフリカ」した人々

ヌビア人の文明化
 西洋中心的な視点で、しばしば「非文明的」ととらえられがちなアフリカ黒人であるが、紀元前の時代にいち早く文明化したのは、エジプト南部からスーダン北部にかけてナイル流域に展開したヌビア人であった。
 ヌビア人は、ナイル‐サハラ語族に属する代表的な民族であり(アフロ‐アジア語族説もあるが、立ち入らない)、エジプト第1王朝時代と同時期にすでに発達した都市国家のようなものを形成したとの説もあるが、史料・情報不足のため、詳細は把握できない。
 鉱物資源の豊富なヌビア地方は強勢化したエジプト王国の侵略を受け、植民地支配下に置かれたが、エジプト新王国時代の紀元前11世紀前半頃、エジプトの混乱を突いてナパタを首都に独立したと見られる。このいわゆるクシュ王国は、王都と王朝を代えながらも紀元後350年まで持続していく。
 ヌビア人は長くエジプトの支配下にあった関係上、初期クシュ王国(ナパタ朝)はエジプト文明の強い影響を受け、ヒエログリフ文字やエジプト神アモンの信仰、ミイラ製作、ピラミッド築造技術などを取り込んだ派生文明の性格を帯びていた。
 強勢化したクシュ王国は、紀元前760年から656年までの約一世紀、ついに斜陽の「本家」エジプトを征服・併合し、第25王朝を樹立した。しかし、下エジプトでリビア人主導の反乱が起き、下エジプトを失ったのに続き、アッシリアの侵攻を受けて第25王朝は崩壊、クシュ王国自体も南のメロエに遷都を余儀なくされた。
 しかし、この敗退は新たにメロエを首都とする新時代の始まりであり、クシュ王国の全盛期を築いたのである。メロエは鉱物資源、農業土壌ともに豊富で、交易上もアビシニア(エチオピア)経由で紅海からインド洋で出る拠点となったからである。
 他文明の摂取に長けていたらしいヌビア人はアッシリアが得意とした鉄器製造技術を取り入れ、鉄製兵器製造で軍事的にも強大化し、エジプト文字とギリシャ文字双方から形成した独自のメロエ文字を創案した。「本家」より小ぶりながらも、王墓ピラミッドの築造も精力的に行なわれた。聖書でも、クシュ王国の繁栄ぶりは記されている。
 ちなみに、メロエ朝独自の特徴として、その時代としては異例なことに、ローマ軍との交戦で勝利し、ストラボンの歴史書にも言及されたアマニレナスや、全盛期を演出し、ヌビア独自のライオン神アペデマクの神殿で知られるアマニトレら、女王を多く輩出したことがある。女王はカンダケと呼ばれ、女戦士としての性格も持っていたようである。
 しかし、クシュ王国は北アフリカ、エジプトへの拡大を狙うローマ帝国の圧迫に加え、王朝の内紛も手伝って、衰退に向かう。最終的には、紀元350年、南アラビアから移住してきたと見られるセム系民族の新興アクスム王国(エチオピア)によって滅ぼされたのである。
 その後、ヌビア人はキリスト教を受容したアクスム王国の影響下に、三つのキリスト教系小国を形成したが、これらは統一されることのないまま、7世紀以降、イスラーム勢力の侵攻により、衰滅の道をたどる。

2017年6月21日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第14回)

十五 尚育王(1813年‐1847年)

 琉球にも西洋列強の手が及び始めた19世紀前半の時期に登位した尚育王は、前回も見たように、父王が晩年精神障碍のため執務不能となったことから、10代から摂政として政務を執っていた。
 在位中は、来航する列強との折衝に追われることが多かった。まず1844年にフランス海軍が宣教師テオドール‐オギュスタン・フォルカードを伴って来航した。王府はフォルカードの滞在を許したが、2年後には退去させている。
 同年には英国海軍が宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムを伴って来航した。王府はフランスの先例どおり退去を求めるも、抗し切れず、医師でもあったベッテルハイムは琉球王室の祈願寺であった護国寺に居座り、当局の監視を受けながらも8年間にわたり医療及び布教活動を行なった。彼は聖書の琉球語翻訳も手がけるなど、琉球における最初のキリスト教宣教師として事績を残している。
 尚育王の国葬の際、ベッテルハイムが群衆に囲まれ、殴打されるという外交問題に発展しかねない事件が発生している。ベッテルハイムの布教が大衆間では快く思われていなかったことを示唆する事件であった。
 尚育王は年齢的にはさらに20年ほど生きて琉球王国最後の王となった可能性もあったが、47年、30代にして没した。摂政時代を合わせれば、約20年の治世であった。


七´ 島津斉興(1791年‐1859年)

 島津斉興は、いわゆる近思録崩れのクーデターにより隠居に追い込まれた父斉宣に代わって、祖父重豪によって若くして藩主に擁立された経緯から、祖父が没した1833年までは当然にも祖父の傀儡藩主に過ぎなかった。
 しかし親政を開始すると、晩年の祖父が見出していた下級藩士出身の調所広郷を家老に抜擢して、藩政改革を断行させた。そのため、斉興の時代は調所改革の時代と重なる。調所改革の目的は放漫財政家の重豪時代に500万両にまで達していた負債の整理ということに尽きていた。
 そのために調所は事実上のデフォルト策、琉球を通じた清との密貿易、琉球征服以来薩摩藩直轄となっていた旧琉球領奄美諸島での黒糖搾取(黒糖地獄)などの強硬策をもって比較的短期のうちに財政再建を果たし得たのであったが、そのつけは政争に巻き込まれての横死であった(自殺説あり)。
 政争とは、斉興の後継をめぐる嫡子斉彬と庶子久光の間でのお家騒動―町人出身の久光の生母お由羅の方の名にちなみ、「お由羅騒動」と呼ばれる―であった。封建的発想では嫡子の斉彬後継が正論だが、重豪の気質を受け継ぎ「蘭癖」のあった斉彬を嫌う調所は、主君の斉興とともに久光を推していた。
 だが、幕府中枢と通じた斉彬派の画策により、調所は密貿易の件を国策捜査で追及される中、急死したのである。その2年後には久光派であった斉興も幕府の介入によって隠居に追い込まれ、斉彬に藩主の座を譲ったのであった。

2017年6月18日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。


§9 宗義智(1568年‐1615年)

 宗義智〔よしとし〕は、宗氏にとって最も困難な戦国時代末期から江戸時代草創期の大変動期に宗氏当主となった人物である。本来、彼は追放された元当主宗将盛の息子の一人であったが、養父宗義調によって早世した二人の兄の後、当主に擁立された。
 しかし、秀吉の九州征伐という難局に対処するべく、いったん義調が当主に復帰したため、当主の地位が確定するのは、義調が死去した1588年である。この頃、宗氏は明を征服する際の先導役として朝鮮を日本に服属させるという無理難題を要求する秀吉の意向に沿って朝鮮との交渉を担わされ、苦慮していた。
 明の冊封国であった朝鮮が明の征服に手を貸す可能性はなく、義智の交渉も当然ながら挫折し、秀吉の朝鮮出兵を迎える。義智は名将小西行長の娘婿でもあり、行長とともに文禄・慶長の両戦役で大活躍し、戦績を上げている。朝鮮との交戦が義智の本意であったかは疑問であるが、対馬の辺境領主が天下人に逆らえる立場にはなかった。
 こうして、宗氏は秀吉配下の武将・大名としてその地位を確立するのであるが、そのことは秀吉死後に来る関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に与するという結果をもたらすことになる。
 先にも触れたように、宗義智は豊臣派のキリシタン大名小西行長の娘婿であったことから、関ヶ原の戦いでは西軍の中心的部将として参戦、伏見城攻撃などで活躍している。しかし、周知のとおり、この天下分け目の戦いは西軍の敗北に終わった。
 義父の行長は捕らわれ、処刑されたが、義智は詰問にとどまり、改めて対馬藩を安堵される幸運を得、義父とは運命が分かれた。この特別措置は、二度にわたった秀吉の出兵で大きく損なわれた対朝鮮関係の改善を重視していた家康が誰よりも朝鮮に通じた宗氏の存在を不可欠と認識していたことによる。
 ただし、代償として、義智は最初の正室で行長の娘でもあったキリシタンの妙(洗礼名マリア)を離縁しなければならなかったが、宗氏は義智を初代とする近世大名として明治維新まで生き延びていくことになるのである。
 かくして初代対馬府中藩主となった義智にとって最初の大仕事は、朝鮮との和平条約の締結であった。しかし、当初朝鮮側の態度は硬く、朝鮮側は先行条件として、朝鮮出兵時に王陵を破壊した戦犯を引き渡すよう要求してきた。
 これに対し、対馬藩は朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を水銀で潰し、尋問に答えられぬよう発声不能にしたうえで該当の「戦犯」として引き渡すような術策を弄する交渉を展開した結果、朝鮮側の態度は軟化していった。
 これにより、早くも宣祖存命中の1605年には暫定的な和平が成立、07年には第一回朝鮮通信使の派遣にまで漕ぎ着けたのであるが、正式の和平条約の締結は宣祖の死去と続く朝鮮王朝内の政変により、持ち越しとなる。

2017年6月15日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第33回)

十一 近代国家と仏教

チベット「自治」と仏教
 チベット仏教拠点のチベットの近代は、それぞれ革命によって樹立された中華民国にソ連という新興国、そして英国という大国による覇権争いに巻き込まれる辛酸を舐めた。
 しかし、その間、ダライ・ラマを元首とする祭政一致体制―ガンデンポタン―が本質的に変化することはなかった。それほど、チベット仏教とチベット政治は一体的であったのだった。
 その点、チベット仏教ドゥク派系ブータンでは、早くから聖界指導者シャブドゥンと俗界指導者デブが分離し、最終的には両者が統一され、1907年に豪族ウゲン・ワンチュクが世襲君主に選出されて以降、英領インド、次いで独立インドの庇護下で緩やかな独立を維持しつつ、漸進的に近代的な立憲君主制(ワンチュク朝)へ移行していったのとは対照的であった。
 とはいえ、19世紀末から20世紀初頭におけるチベットの困難な時期に統治したダライ・ラマ13世は、ある程度の近代化を試みた。特に税制や軍制の近代化と文化の欧化である。その背後にはチベット支配を強めようと画策する英国の援助があった。こうした親英・欧化政策は一部の保守的な寺院勢力の反乱を招いたが、13世はこれを乗り切った。
 しかし、13世が1933年に没すると、チベットに対する中華民国の影響力が強まる。後継のダライ・ラマ14世(現職)は39年に「発見」された後、中華民国によって庇護・擁立された。
 大きな転換点は、49年の中国共産党体制の樹立である。チベット政府はこれを機に完全な独立を狙ったが、独立を許さない中国が51年にチベットに侵攻、短時日で全土を征服した。これにより、チベットは中国の支配下に入り、形式的な「自治」が与えられることとなった。
 こうした武力制服に対するチベット人の抵抗は50年代を通じて激化し、動乱となる。対する中国軍の反撃も虐殺を辞さないすさまじいものであった。
 14世は59年、インドのダラムサラに脱出し、亡命政府を樹立する。一方、中国側はチベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ権威を持つパンチェン・ラマ10世を優遇し、ある種の対立教皇のような形で庇護する政策を採った。
 チベット人の抵抗はその後も断続的に継続されているが、ダライ・ラマ14世は亡命政府を率いつつ、ガンジー的な非暴力主義抵抗を続け、こうした抵抗を「分離主義」とみなして容認しない中国政府がチベットに再び戒厳令を敷き、抑圧を強めた89年にはノーベル平和賞を受賞した。
 一方、中国側は89年のパンチェン・ラマ10世死没を受け、95年に当時6歳のチベット児童をパンチェン・ラマ11世に認定し、10世の後継に擁立したが、当局はその直前、ダライ・ラマ14世自らがパンチェン・ラマ11世に認定していた別のチベット児童を連行、失踪させたため、以後、パンチェン・ラマ自体も並立状態にある。
 その後、14世は2011年をもって政治的に「引退」し、政治権力を亡命政府に委譲するとともに、ダライ・ラマ転生制度の廃止も示唆している。これは実質的に政教分離体制への移行を促進するものであり、チベット仏教における歴史的な大転換となるため、議論を呼んでいる。
 また、14世は仏教とマルクス主義の融合を有効な統治体制として指摘するなどの思考実験的な提言も行なっている。現在、チベット仏教は中国支配と自身の現代化との間で岐路に立っていると言えよう。

2017年6月12日 (月)

オセアニア―世界の縮図(連載第18回)

第二部 現況~未来

(7)政情不安事例②:パプアニューギニア
 パプアニューギニアの本島は、その名のとおりパプア人を主体とするが、本島の東に位置するブーゲンビル島は言語・文化の異なるメラネシア人系を主体とし、伝統的にソロモン諸島との関係が深い。
 しかし、ドイツ植民地時代に本島と併せてドイツ領ニューギニアにくくられ、独立後もそのままパプアニューギニア領に引き継がれた。そうした事情が内戦として表出したのが、ブーゲンビル島紛争であった。
 分離独立運動は島の銅山開発利権も絡む形で1975年のパプアニューギニア独立直後から始まるが、本格化したのは1988年以降、武装組織ブーゲンビル革命軍の下、一方的に独立を宣言してからである。
 旧宗主国オーストラリアの支援を受けた政府軍との間の内戦は91年にいったん停戦協定に至るもすぐに破棄され、オーストラリアとニュージーランドの仲介による最終的な和平は世紀をまたいだ2001年のことであった(内戦自体は98年終結)。
 その間97年には、弱体な政府軍を補充するべく政府が結んだ英国民間軍事会社からの不透明な傭兵契約をめぐって、不満を持った軍部がクーデター未遂事件を起こすなど、内政の混乱も重なった。
 最終的なブーゲンビル和平協定では自治政府の樹立、将来的な独立住民投票など、譲歩的な合意がなされ、紛争は終結した。しかし、新興独立国家での長期内戦の悪影響は大きく、内戦で破壊されたブーゲンビル島首府のアラワはいまだ再建途上、首府機能も一時的に遷されている状態である。
 現在、ブーゲンビルは自治州という形態で2000年以降自治政府の施政下にあり、19年には独立を問う住民投票も予定されていることから、その結果次第では再び何らかの紛議が再燃する可能性もなくはない状況であり、行方が注視される。

2017年6月 7日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第5回)

一 「残アフリカ」した人々

バントゥー人大移動
 現在、アフリカ黒人中における最大勢力を形成しているバントゥー系諸民族は、西アフリカでの誕生から間もなく、拡大・大移動を開始する。このバントゥー人大移動は、ずっと後にゲルマン人大移動が欧州大陸の歴史を作ったように、アフリカ大陸の歴史を作った。
 バントゥー人大移動はゲルマン人のそれに比べても長く、紀元前1000年頃から紀元後300年頃に及ぶ千年単位の長い年月をかけて行なわれたと考えられる。その契機は、オリエント方面から移住してきた集団から農耕を学んだことにあるとされる。
 この集団は欧州にも農耕をもたらした民族で、Y染色体ハプログループR1bを共通指標とするコーカソイド系民族である。かれらはアフリカではチャド、カメルーン付近に定住し、そこにいた原バントゥー人に農耕を伝えるとともに、現在までその遺伝子を西アジア的なアフロ‐アフリカ語族に属するチャド系民族に残している。
 農耕を体得したバントゥー人らは、より肥沃な農耕適地を求めて移動を開始する。最初は中央アフリカの熱帯雨林が目指されたが、東アフリカのサバンナ地帯や大湖沼地域にも拡大していく。アフリカ黒人故地とも言える南アフリカへの拡大はやや遅れ、紀元後に大湖沼地域から部族ごとに移動していったようである。
 こうして、バントゥー人はいったん故地の南アフリカを出た後、農耕を身につけ、長い年月をかけて再び故地へ帰還する「帰ってきたアフリカ人」となったのである。現在、バントゥー系に包含される民族数は数百に及ぶ。
 ただ、かれらは移動先で土着した15世紀頃に至るまで政治的な国家を形成することはなく、族長に率いられた部族共同体社会を維持していたと見られる。この点、既存のローマ帝国内に侵入して、帝国から国家形成のノウハウを吸収し得たゲルマン人と異なり、当時のアフリカ大陸にはローマ帝国に匹敵する統一国家は存在していなかった。
 アフリカへ侵出していったローマ帝国自身も北アフリカ以南にまで手を伸ばそうとはしなかった。一方、ナイル河沿いのエジプトとその影響下に栄えたヌビア人の王国も地中海や西アジアに目を向けており、アフリカ大陸全土をカバーするような帝国には膨張しなかったため、バントゥー人がその支配下に入り込むこともなかったのである。

2017年6月 2日 (金)

私家版琉球国王列伝(連載第13回)

十四 尚灝王(1787年‐1834年)

 先代の尚成王が幼年のまま没すると、叔父の尚灝〔しょうこう〕が後を継ぐこととなったが、以後の琉球王統は彼の子孫で確定している。1804年の即位時は10代であったが、その後30年にわたり在位し、尚穆王以来の長期治世となった。
 彼の治世中の琉球は、日本と同様、西洋列強の来航という新状況に直面した。初発は1816年に来航したバジル・ホール率いる英国軍艦であった。その目的は極東探査にあった。続いて、21年にはオランダ商船、27年には英国商船が来航し、開港を要求するも、薩摩藩に従属する琉球独自の開港は不可であった。
 尚灝王は長い治世のわりに目立った事績は記録されておらず、晩年には精神疾患を患い、執務不能となり、28年には15歳の世子尚育が摂政として立った。列強の開港要求がより強硬になるのは、尚灝王が没して尚育が正式に王位に就いた後のことである。


六´ 島津重豪〈続〉

 琉球の尚灝王代は、長生した薩摩藩主島津重豪の晩年期にほぼ相応する。前回は触れなかった重豪治世第三期である。この時期の重豪はすでに家督を長男斉宣〔なりのぶ〕に譲って表向き隠居しつつ、後見人として実権を保持する院政を敷いていた。
 そうした中で勃発したのが、文化五年(1808年)から翌年にかけてのお家騒動・近思録崩れである。斉宣が朱子学教本『近思録』を奉じる家老らを起用して緊縮財政を主導しようとしたことに反発した重豪が家内クーデターを起こして斉宣を隠居に追い込み、孫の斉興に立て替えたたうえ、近思録派を粛清したのであった。
 これは従来、積極的な文教政策や蘭学への傾倒から驕奢に走り、財政破綻の危機を引き起こしていた重豪と、これに反発する一部家臣団の対立を背景とする政変であったが、重豪に反省の色はなかった。ただ、最晩年に自ら見出し、抜擢した下級藩士出身の調所広郷が、やがて次の斉興の時代に財政改革を主導することになる。
 当時としては異例の89歳まで長生した重豪は「蘭癖大名」の典型とされるが、オランダ商館を通じて交流のあったシーボルトによれば、開明的かつ聡明だったとされる。彼が、幕末の倒幕運動拠点となる薩摩藩の精神的な土台を築いたこともたしかであった。

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