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2017年5月

2017年5月24日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第32回)

十一 近代国家と仏教

社会主義体制と仏教
 近代になると、仏教も社会主義体制という新しい政治国家と直面する段階を迎えた。その最初の好例は、世界で二番目―アジアでは最初の―社会主義国家となったモンゴルである。
 中世にチベット仏教国として確立されたモンゴルの近代は、チベット出身の活仏ボグド・ハーンを戴く立憲君主制国家として始まったが、間もなくロシア革命の影響を受けた社会主義勢力が台頭し、最後のボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクト8世の逝去を機に社会主義共和制へ移行したのであった。
 その後、人民革命党社会主義体制下でもしばらく仏教は保護されていたが、1930年代、スターリンのソ連と衛星同盟した独裁者チョイバルサンの下、大々的な仏教弾圧が開始された。この時、3万人以上と言われる僧侶が殺戮される大粛清が断行され、仏教寺院は閉鎖された。
 仏教には「神」の概念はなく、社会主義的な無神論と両立できる面もあるが、当時のスターリン主義体制下ではそうした細密な考慮はなされず、宗教=反革命という定式の下、非弁証法的な仕方で仏教が否定されたのである。モンゴルで仏教が復興したのは、社会主義体制の抑圧がある程度緩和された1970年代のことであった。
 同様の事態は、共産党支配体制が確立された中国でも起きた。中国でも当初は1953年に設立された中国仏教協会を翼賛的な仏教団体として仏教が一定保護されたが、1960年代の文化大革命の時期、仏教は反革命的と断罪され、寺院は破壊の標的とされた。
 しかし、中国の場合は中国仏教そのものの弾圧に加え、後に改めて触れるチベット民族問題が絡み、チベット仏教への弾圧が激しく行なわれ、多くのチベット僧侶が迫害・殺戮された点で、二重構造的な弾圧政策であった。
 毛沢東の死没と文革終了後、その誤りが公式に認められると、中国仏教協会の指導下に仏教の復興がなされ、文革期に破壊され、荒廃した寺院の再建などの事業が行なわれたが、あくまでも共産党体制が許容する範囲内での活動である。
 他方、仏教と社会主義を対立させず、上座部仏教思想に基づく社会主義を指向したのが1950‐60年代のカンボジアとビルマであった。カンボジアではシハヌーク国王が王制の枠内での仏教社会主義を提唱した。また60年代に軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィンが提唱した「ビルマ式社会主義」もその系譜に含まれる。
 これら仏教社会主義体制は新奇ではあったが、内実に乏しく、カンボジアでは70年代に狂信的な大虐殺を断行する共産党の台頭を防げなかった。ビルマ式社会主義はネ・ウィン独裁体制の代名詞と化し、その民主化運動による崩壊は軍事独裁政権の反動を招いた。

2017年5月21日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第17回)

第二部 現況~未来

(6)政情不安事例①:フィジー
 平穏でのどかな印象さえ強いオセアニアであるが、ここにも民族紛争に起因する政情不安の事例がいくつか見られる。幸いそのほとんどは現時点で一応解決を見ており、現代史の出来事となりつつあるが、再燃の可能性がないわけではない。
 その一つフィジーは旧宗主国英国が移入させたインド系労働者の子孫が人口の高い割合を占めてきた点でオセアニアでも特異な状況にあったが、インド系フィジー人は独立後、経済を主導する富裕層の地位に上った。これには、多数派先住フィジー人の不満が鬱積していた。
 87年の総選挙でインド系政権が誕生すると、そうした不満を背景に、1987年に二度の軍事クーデターが勃発する。オセアニアでは極めて稀な事態であった。
 クーデター指導者シティベニ・ランブカ中佐は先住フィジー人であり、英連邦離脱・共和制移行と先住フィジー人を優遇する憲法改正を主導したことから、彼のクーデターには民族革命的要素が加わった。
 ランブカ自身、文民として92年から99年まで首相を務め、この間にフィジーは英連邦復帰を果たした。しかしランブカは99年の総選挙で敗れ、インド系のチョードリー政権に交替した。
 これに反発した先住民系武装グループによる国会占拠事件が起きると、軍部が介入、武装グループとチョードリー政権双方を排除し、ガラセ首相の先住民系政権を発足させた。しかし、06年にはガラセ首相と対立したフランク・バイニマラマ軍司令官がクーデターを起こし、政権を奪取する。
 これに対してオーストラリアやEUをはじめとする国際社会が制裁を科す中、バイニマラマは巧妙な生き残り戦術で14年の総選挙まで軍事政権を維持し続けたのであった。同年の総選挙で、バイニマラマは民族融和的なフィジーファースト党を率いて圧勝し、改めて文民政権首相として支配を維持している。
 こうして、最近十数年のフィジーはバイニマラマの長期政権下で政治的な安定は確保できているかに見えるが、打ち続くクーデターや先住民優遇策を嫌ったインド系ビジネスパーソンの海外流出やクーデター後の経済制裁の影響から、経済の低迷が続く。
 そうした中、経済制裁に加わらない中国の経済援助的進出が目立つ。中国の着眼はフィジーの水産資源にあるとされ、すでに中国国営水産会社がバイニマラマ政権とのパイプを軸に展開している。こうした新動向は、中国の太平洋進出を象徴している。

2017年5月19日 (金)

「無償化」の裏側

 憲法を改正して高等教育を無償化するという動きが急である。無償化の理念自体には大いに賛成である。だが、日本の高等教育は私学に多くを委ねてきた。その結果、私立大学(短大を含む)に在籍する学生の割合は8割に達するという。要するに、日本の学生≒私立大学生なのである。
 私学は授業料を収入源として成り立つ独立採算制の学校であるゆえに、経営者の教育理念に基づいた自由な教育が許される。これを無償化することは、倒産への道である。結局、日本における高等教育無償化は2割にすぎない国公立大学生向けのものとなる。
 ただ、国公立大学には「難関」が多いので、学生も全般に「優秀」とみなされている。かれらだけを無償とするなら、エリート奨学制度と化すだろう。国公立と私立の格差はいっそう広がることになる。全然平等ではない。もっとも、高校レベルで実施している私学向けの就学支援金のような制度によって授業料低減を図ることはできるが、これは本来の無償化とは異なる。
 ということで、日本で高等教育無償化は合理性を持たないと考えられる。なのに、突如無償化論が浮上したのは、9条改憲を急ぐ政権の思惑絡みとしか思えない。9条改憲と抱き合わせ販売の押し売りをしようという魂胆だろう。違うならお詫びするが、無償化論の裏側は冷静に見究めたい。

2017年5月11日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第4回)

一 「残アフリカ」した人々

三大言語系統の形成
 アフリカ黒人を最も重要かつ客観的な民族的指標である言語を基準に分類すると、(Ⅰ)コイサン諸語、(Ⅱ)ニジェール・コンゴ語族、(Ⅲ)ナイル・サハラ語族の三言語人系統に大別されるとするのがおおむね通説となっている。
 このうち、前回見たコイサン諸民族を包含する(Ⅰ)群は、アフリカで―より広く現生人類中でも―最古の言語を持つ諸族である可能性が高い。
 (Ⅱ)群は現代のアフリカ大陸において話者数・言語数において最大のグループであり、中でもバントゥー語群が中核を成す。バントゥー諸語を持つのはバントゥー系諸民族であり、現代アフリカ黒人中でも最大勢力を成している。
 かれらの原郷は今日のナイジェリア‐カメルーン国境付近と推定されている。おそらくは南アフリカ付近で誕生し、「残アフリカ」したグループが北西へ移住することで形成された集団であろう。形成時期は紀元前2000年頃とされ、さほど古くはない。
 かれらはやがて農耕・牧畜を身につけて繁栄し、多数の部族に分かれて拡散を始めた。バントゥー人大移動である。言わば南アフリカへと回帰していく形で、アフリカ大陸中央部から南部にかけてバントゥー系諸民族の居住地域が拡大し、南部に残留していた(Ⅰ)群の狩猟採集民族をも吸収していったであろう。
 (Ⅲ)群は名称どおり、ナイル流域・サハラ砂漠を中心に広がる言語群であり、その歴史的な代表格はスーダンのヌビア人であるが、話者数で言えば、今日のケニアとタンザニアに分布するルオ族が最大である。
 かつてサハラ砂漠はステップ緑地帯であり、豊かな地域であったことから、古くから人類の活動が見られる。そうした古サハラ人の民族系統については十分明らかではないが、南アフリカからこのサハラ緑地へと移住していったグループの末裔がこの(Ⅲ)群に包含されるかもしれない。
 文明という観点から見ると、アフリカ黒人中、最も初期に文明国家を築いたのはヌビア人であった。かれらは紀元前26世紀にはナパタを都とする王国を形成し、隣接するエジプト文明の影響下に発展し、一時はエジプト自体をも併合するのである。

2017年5月 7日 (日)

私家版李朝国王列伝〔増補版〕(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、朝鮮当局の司法や徴税も及ばないような形で事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖は儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。


§7 宗義盛(1476年‐1520年)/宗晴康(1475年‐1563年)

 宗義盛は先代材盛の嫡子として後を継いだが、時代は戦国期、対馬でも守護代家の権勢が増していた。そのような時に起きたのが、上記三浦の乱であった。この事件は直接には朝鮮在留日本人が起こしたものだが、義盛はこれに加勢する形で介入している。
 当時、宗氏はこうした朝鮮在留日本人に対しては三浦代官を派遣して管理するようになっていたため、乱に際してはむしろこれを鎮圧すべき立場にあったところ、援軍した背景には、当時権勢を増していた守護代家への対抗があったともされる。
 義盛は自ら軍勢を率いて参戦したが、結局は敗北した。結果は、朝鮮との通交断絶であった。しかし、それで終わらない粘りも宗氏の持ち味である。乱後から大内氏を通じた講和交渉に入り、わずか二年後には通交再開・講和条約に漕ぎ着けている。
 ただし、新条約(壬申条約)の内容は乱の根源であった恒居倭廃止はもとより、開港場は一箇所に制限、島主歳遣船の減便、通交許可審査の厳格化など、宗氏にとっては厳しい内容であった。しかし、宗氏はこれを受け入れるしかなかった。
 義盛の威信はこれによりいっそう低下したようであり、彼の没後、宗氏当主は宗家(本家)を離れ、盛長、将盛と分家に転々継承される混乱が続く。この間、条約改定交渉も試みられるが、成功しないまま、秀吉時代を迎えることになる。
 こうした家内混乱を収めたのが1539年、家臣団の反乱で追放された甥の先代当主将盛を継いだ宗晴康である。彼は混乱の原因であった多数の分家を整理し、宗家以外の宗氏公称を禁ずる措置を発動して、対馬所領の統一と戦国大名化を推進した。
 一度は僧籍に入っていた晴康は還俗してかなりの高齢で当主に就き、1552年に嫡子義調〔よししげ〕に家督を譲った後、当時としては異例の89歳という長寿を全うしている。年齢にかかわらず、有能かつ頑強な戦国大名型の当主であったのだろう。

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