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2017年4月 2日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第11回)

十二 尚益王(1678年‐1712年)/尚敬王(1700年‐1752年)

 12代尚益王は30年間在位した祖父尚貞王の後を受けて即位したが、在位わずか2年で死去し、子の尚敬が継いだ。尚敬王の治世は大飢饉による被害という困難の中で始まるが、尚敬の時代は実質的な宰相格の三司官蔡温の手腕により、安泰なものとなった。
 蔡温は第一尚氏王朝成立以前の14世紀末、明から渡来した福建人職能集団久米三十六姓の一つである蔡氏の出で、父は尚貞王代に『中山世譜』を完成させた学者蔡鐸である。そのため幼少期から英才教育を受け、中国大陸赴任を経て王子時代の尚敬の師範となった。
 こうした縁から、蔡温は尚敬王即位後は史上初の国師に任ぜられ、事実上国政全般を委ねられた。1728年には正式に三司官に選出され、名実共に王国政治のトップに立った。彼が特に力を入れたのは農政であり、自ら農書『農務帳』や治山書『杣山法式仕次』を著すほどであった。中でも、田/畑交換禁止や農民への永代耕作権の付与は農業生産力の向上に寄与した。
 その他、イデオロギー的な面では士族、農民の身分道徳的な心得をまとめた『御教条』を公布し、王国における封建的身分秩序の確立にも努めている。また10年以上の歳月を費やして大々的な検地(元文検地)を実施し、封建制度の土台強化も行なった。
 外交面でも、清の冊封に対処しつつ、日本側宗主である薩摩藩からの信頼も獲得し、政敵平敷屋〔へしきや〕朝敏から薩摩藩に讒言された際は薩摩藩が讒言者らを処刑したほどであった。また尚敬王が在位約40年にして死去したことを機に三司官を引退した後も、薩摩藩の命により晩年まで実権を保持した。


五´ 島津吉貴(1675年‐1747年)/継豊(1700年‐1760年)

 島津吉貴は先代綱貴の嫡男として後を継いだ4代藩主である。享保七年(1721年)に嫡男継豊に家督を譲り、薩摩庭園仙巌園に隠居しているが、その治世はおおむね琉球側の尚益・尚敬王代に相応している。
 琉球との関わりでは、宝永七年(1710年)、前年の6代将軍徳川家宣就任に際しての琉球慶賀使聘礼を指導している。また吉貴自身が指導したわけではないが、前田利右衛門なる薩摩領民が琉球から持ち込んだ甘薯が米作不毛地を救う主産品として普及し、一大生産地となったことから、サツマイモの名が生まれたのも吉貴時代である。
 また、上述した蔡温讒言事件に際して讒言者朝敏らを処刑した一件は吉貴隠居後の享保十九年(1734年)のことであるが、吉貴はまだ存命しており、これにも仙巌園にて大御所として関与した可能性がある。
 一方、嫡男継豊は在位年数こそ約25年と長かったが、病気がちであり、いくつかの分家の創出以外にさしたる事績は見られないまま、先例にならい、延享三年(1746年)、家督を嫡男宗信に譲って隠居した。
 ところが、宗信も、続く次男重年も父に先立ち若年で早世する不幸に見舞われ、最終的に重年の子で継豊の孫に当たる重豪〔しげひで〕が宝暦五年(1755年)に11歳で家督を継ぐこととなり、継豊がこれを後見した。

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