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2017年4月26日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第31回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

タイ系諸王朝と仏教政治
 現在、東南アジアで仏教と政治の関係が最も密で、上座部系仏教政治の「大国」と言えるのはタイであるが、元来は精霊信仰が盛んだったタイ族の仏教受容過程については記録が少なく、不明な点が多い。
 少なくとも、仏教が国教的地位になったのは周辺諸国と比べて決して早かったわけではなく、おおむね14世紀のことである。それには、二つの王朝的流れがあった。一つはタイ中心部に成立した王朝スコータイ朝、もう一つはタイ北部に成立したラーンナー朝である。
 後者はチェンマイを中心に栄えた王朝であるが、先住のモン族の影響を受け、上座部仏教を導入した。特に14世紀中葉の第5代パーユー王の頃から仏教を積極的に保護するようになった。しかしラーンナー朝は16世紀後半以降はビルマの支配に下り、短い復興後は後述チャクリー朝に吸収されていく。
 前者のスコータイ朝では元来その支配を受けてきたクメール王朝の影響下に上座部仏教が浸透したと考えられるが、仏教が本格的な国教的地位を確立するのはさらに下り14世紀後半、第6代リタイ王代であった。この頃の王朝は南に成立した同じタイ族系アユタヤ朝やタイ族の分派とも言えるラーオ族が建てたラーンサーン朝のような後発諸国の台頭により圧迫されていた。
 そこで、リタイ王は王朝建て直しのため遷都するとともに、仏教を国家の精神的支柱に据え、自ら出家して仏教に帰依した。「仏法王」を称したリタイ王は仏教書を執筆するほど仏教の普及に尽くした。彼はまた上座部仏教の聖地であるセイロンから高僧を招聘して寺院の長に据え、タイ仏教の中核となるサンガ制度の土台を築いた。
 こうしたスコータイ式仏教政治はライバルのアユタヤ朝やラーンナー朝、ラーンサーン朝にも伝わり、同様の仏教政治が導入される。スコータイ朝はリタイ王の努力にもかかわらず衰退を続け、15世紀前半にはアユタヤ朝に吸収された。そのアユタヤ朝も上座部仏教国ながら、クメール王朝の影響も強く、ヒンドゥー的な色彩も帯びていた。
 18世紀、ビルマのコンバウン朝によって破壊され、滅亡したアユタヤ朝の後、一代限りのトンブリー朝を経て成立し、今日まで続くチャクリー朝においても仏教政治の基本は継承されたが、19世紀、重要な改革が二代にわたる王によって加えられる。
 最初はラーマ4世によるサンガの規律強化であり、この時に厳格な戒律をもって統制された新サンガのタンマユット僧団と旧来のサンガであるマハー僧団の二大サンガの対抗状況が生じた。
 続くラーマ5世による大規模な社会改革では、サンガ法を通じたサンガの宗教法人化と全僧侶の僧籍編入という国家管理政策が導入された。この画期的な改革により、タイ仏教は国家の保護統制下に置かれるようになった。
 その後、タイは周辺諸国とは対照的に西洋列強の植民地支配を免れたため、キリスト教宣教というお決まりの改宗干渉を受けることなく社会に深く定着し、タイの国家・社会の上部構造的支柱として確立されていった。
 大僧正(ソムデートプラサンカラート)を頂点とするサンガ制度は20世紀の立憲革命を経て、法的に変遷を重ねており、特にタイ近代政治を特色づける歴代軍事政権はサンガの統制管理をめぐり、しばしばサンガと微妙な関係に立つとともに、サンガ自体の腐敗も指摘される。
 なお、タイと民族文化的に近縁なラオスについても言及すると、先述ラーンサーン朝も全盛期を作った16世紀のセーターティラート王代には国章ともなっている仏塔タート・ルアンの建立がなされるなど仏教国として栄えたが、同時にアニミズム信仰も根強く、仏教と混淆していた。
 ラーンサーン朝は17世紀末に王位継承をめぐって三分裂し、18世紀後半にはトンブリー朝、続いてチャクリー朝の支配に下った後、仏泰戦争の結果、19世紀末にフランスの保護国として実質的な植民地に編入された。そのため、この先、ラオス仏教はタイ仏教とは大きく運命が分かれる。
 第二次世界大戦後の独立、インドシナ戦争を経た1975年の革命後、ラオスはマルクス‐レーニン主義国家となり、標榜上は無神論体制であるため、仏教と政治は分離されたが、なお国民のおよそ70パーセントは仏教徒とされる。

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