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2017年4月

2017年4月30日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第12回)

十三 尚穆王(1739年‐1794年)/尚温王(1784年‐1802年)/尚成王(1800年‐1804年)

 14代尚穆〔しょうぼく〕王は、父の先代尚敬王が死去した時はまだ10代と若く、すでに退官していた蔡温が薩摩藩の命により引き続き実質的な宰相格を務めた。この間、1756年の清国冊封使の接受も蔡温が仕切っている。
 蔡温が完全に引退した後、彼に匹敵するような実力を持った宰相は出ず、尚穆王代には重臣の合議が機能したと見られる。その成果として、86年に発布された琉球発の成文刑法典・琉球科律がある。これは従来、不文慣習法や判例に委ねられた刑法を集大成して、法治国家としての基盤を整備した意義を持つ。
 尚穆王が在位した40数年は比較的安泰無事であり、清国や薩摩藩との関係も良好であった。世子尚哲は好学の秀才と謳われ、73年から翌年にかけて薩摩藩を表敬訪問し、時の藩主島津重豪の歓待を受けるが、88年、父に先立って30歳で早世した。
 そのため、尚穆王を継いだのは孫の尚温王であった。彼も年少での即位ながら、父尚哲に似て好学と見え、教育制度の改革に乗り出した。すなわち、従来福建人にルーツを持つ久米村出身者が独占してきた中国留学生(官生)の制度の改革と新たな最高学府・国学の創立である。
 この教育制度改革は自身も久米村出身であった国師・蔡世昌を中心に断行されたため、彼は久米村出身者から激しい糾弾攻撃を受けた。その結果、98年には暴動に発展したため、王府が強制介入し、久米村出身者を弾圧した。このいわゆる官生騒動は王府主導で鎮圧され、以後、国学による高等教育制度が定着する。
 だが、父以上の短命で、18歳にして夭折した尚温王を継いだのはわずか2歳の長男尚成王であったが、これも翌年に夭折したため、尚哲の四男尚灝(しょうこう)が17代国王に即位することとなるというように、この時期の琉球王朝は王位継承に揺らぎが生じていた。


六´ 島津重豪(1745年‐1833年)

 島津重豪〔しげひで〕が8代薩摩藩主となったのは先代の父重年が若年で死去した11歳の時であり、祖父継豊が死去するまで、その後見を受けた。継豊没後は外祖父による後見を経て、親政を開始する。
 重豪は薩摩藩では久方ぶりに長寿を保つ藩主となるが、その半生は大きく三期に分かれる。第一期は上述した年少時の後見期であるが、第二期が表向き隠居する天明七年(1787年)までの親政期である。
 この時代から、重豪は藩政改革に取り組む。好学の重豪が最も注力したのは文教政策であった。その一環として藩校や武芸道場、天文研究所、医学校などを矢継ぎ早に設立した。このような政策は、重豪が歓待した琉球王世子尚哲を通じて、その子である尚温王による上述の教育改革に影響を及ぼした可能性がある。
 ただ、財政的には父の時代に幕府(将軍家重)から「手伝普請」として不当に課せられた木曽三川の治水事業(宝暦治水)の負の遺産もあり、重豪の諸政策は終生を通して藩の財政悪化を促進することになる。
 中でも隠居後、大御所として主導した蘭学への傾斜と華美好みは、自身による粛正改革策への転換を導くことになるが、この重豪治世第三期については稿を改めて見ることにする。

2017年4月26日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第31回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

タイ系諸王朝と仏教政治
 現在、東南アジアで仏教と政治の関係が最も密で、上座部系仏教政治の「大国」と言えるのはタイであるが、元来は精霊信仰が盛んだったタイ族の仏教受容過程については記録が少なく、不明な点が多い。
 少なくとも、仏教が国教的地位になったのは周辺諸国と比べて決して早かったわけではなく、おおむね14世紀のことである。それには、二つの王朝的流れがあった。一つはタイ中心部に成立した王朝スコータイ朝、もう一つはタイ北部に成立したラーンナー朝である。
 後者はチェンマイを中心に栄えた王朝であるが、先住のモン族の影響を受け、上座部仏教を導入した。特に14世紀中葉の第5代パーユー王の頃から仏教を積極的に保護するようになった。しかしラーンナー朝は16世紀後半以降はビルマの支配に下り、短い復興後は後述チャクリー朝に吸収されていく。
 前者のスコータイ朝では元来その支配を受けてきたクメール王朝の影響下に上座部仏教が浸透したと考えられるが、仏教が本格的な国教的地位を確立するのはさらに下り14世紀後半、第6代リタイ王代であった。この頃の王朝は南に成立した同じタイ族系アユタヤ朝やタイ族の分派とも言えるラーオ族が建てたラーンサーン朝のような後発諸国の台頭により圧迫されていた。
 そこで、リタイ王は王朝建て直しのため遷都するとともに、仏教を国家の精神的支柱に据え、自ら出家して仏教に帰依した。「仏法王」を称したリタイ王は仏教書を執筆するほど仏教の普及に尽くした。彼はまた上座部仏教の聖地であるセイロンから高僧を招聘して寺院の長に据え、タイ仏教の中核となるサンガ制度の土台を築いた。
 こうしたスコータイ式仏教政治はライバルのアユタヤ朝やラーンナー朝、ラーンサーン朝にも伝わり、同様の仏教政治が導入される。スコータイ朝はリタイ王の努力にもかかわらず衰退を続け、15世紀前半にはアユタヤ朝に吸収された。そのアユタヤ朝も上座部仏教国ながら、クメール王朝の影響も強く、ヒンドゥー的な色彩も帯びていた。
 18世紀、ビルマのコンバウン朝によって破壊され、滅亡したアユタヤ朝の後、一代限りのトンブリー朝を経て成立し、今日まで続くチャクリー朝においても仏教政治の基本は継承されたが、19世紀、重要な改革が二代にわたる王によって加えられる。
 最初はラーマ4世によるサンガの規律強化であり、この時に厳格な戒律をもって統制された新サンガのタンマユット僧団と旧来のサンガであるマハー僧団の二大サンガの対抗状況が生じた。
 続くラーマ5世による大規模な社会改革では、サンガ法を通じたサンガの宗教法人化と全僧侶の僧籍編入という国家管理政策が導入された。この画期的な改革により、タイ仏教は国家の保護統制下に置かれるようになった。
 その後、タイは周辺諸国とは対照的に西洋列強の植民地支配を免れたため、キリスト教宣教というお決まりの改宗干渉を受けることなく社会に深く定着し、タイの国家・社会の上部構造的支柱として確立されていった。
 大僧正(ソムデートプラサンカラート)を頂点とするサンガ制度は20世紀の立憲革命を経て、法的に変遷を重ねており、特にタイ近代政治を特色づける歴代軍事政権はサンガの統制管理をめぐり、しばしばサンガと微妙な関係に立つとともに、サンガ自体の腐敗も指摘される。
 なお、タイと民族文化的に近縁なラオスについても言及すると、先述ラーンサーン朝も全盛期を作った16世紀のセーターティラート王代には国章ともなっている仏塔タート・ルアンの建立がなされるなど仏教国として栄えたが、同時にアニミズム信仰も根強く、仏教と混淆していた。
 ラーンサーン朝は17世紀末に王位継承をめぐって三分裂し、18世紀後半にはトンブリー朝、続いてチャクリー朝の支配に下った後、仏泰戦争の結果、19世紀末にフランスの保護国として実質的な植民地に編入された。そのため、この先、ラオス仏教はタイ仏教とは大きく運命が分かれる。
 第二次世界大戦後の独立、インドシナ戦争を経た1975年の革命後、ラオスはマルクス‐レーニン主義国家となり、標榜上は無神論体制であるため、仏教と政治は分離されたが、なお国民のおよそ70パーセントは仏教徒とされる。

2017年4月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第16回)

第二部 現況~未来

(5)日系オセアニア人たち
 戦後の日本は敗戦の結果、オセアニア地域の領土をすべてアメリカの信託統治の形で没収されて以降、この地域にもはや領土は保有していないが、今日でもオセアニアにおいて無視できない人的勢力として、日本人の血を引く日系オセアニア人がある。
 その中心はアメリカのハワイ州である。ハワイ州はアメリカ50州中、アジア系住民が優位を占める唯一の州であるが、その中で日系は現在、フィリピン系に次ぐ第二位で、約18万人と推計される。
 かれらの多くは明治維新後、1924年の排日的な移民法の制定に至るまで続いた移民の子孫たちであり、第二世代以降は日系ハワイ人として定着し、社会に根を張って政治的にも力を持つようになる。
 その象徴は、日系人初―アジア系としても初―の州知事として1974年から86年まで3期12年にわたりハワイ州知事職を全うした日系二世のジョージ・アリヨシである。さらに、2014年には日系人として二人目のデービッド・イゲが州知事に当選した。イゲはハワイ日系人に多い沖縄移民系としては初となる州知事である。
 また各州代表院としての性格が強い連邦議会上院では、故ダニエル・イノウエがハワイ州選出上院議員として1963年から半世紀近く多選を重ね、民主党で重きをなした。彼は大統領継承順位第3位となる上院仮議長まで務め、規定上は合衆国大統領に最も近い位置まで届いた日系人でもあった。
 なお、2013年にハワイ州選出上院議員に当選した戦後の日系一世メイジー・ヒロノは、全米で初のアジア系女性上院議員でもある。
 日系人の政界進出は戦前、南洋諸島統治の中心であったパラオにも見られる。純粋の日系人とみなすことができるか微妙だが、85年に暗殺されたハルオ・レメリク初代大統領はパラオ人男性と日本人女性の間に生まれている。第5代のクニオ・ナカムラ大統領も混血だが、父が日本人であり、日系人とみなされている。
 ミクロネシアの故トシオ・ナカヤマ初代大統領も父が日本人の混血日系人であり、第7代マニー・モリ大統領は日系四世である。その他、マーシャル諸島でも、第3代ケーサイ・ノート大統領は祖父が日本人の日系三世である。
 これら混血系も含めた日系オセアニア人の多くは戦前の貧しさゆえの経済移民、あるいは植民地統治の結果としての移民の子孫たちであるが、戦後もビジネス目的や生活目的で、オーストラリアやニュージーランドにも場所を広げて続いているオセアニア移住者の子孫が現地で定着すれば、新たなメンバーを加えて日系オセアニア人の勢力が発展していくであろう。

2017年4月20日 (木)

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年4月14日 (金)

アフリカ黒人の軌跡(連載第3回)

一 「残アフリカ」した人々

コイサン諸民族の由緒
 アフリカ黒人の中でも最も古い由緒を持つと想定されているのが、コイサン諸民族である。コイサン諸民族とはコイコイ族とサン族の総称であり、ともに南部アフリカのカラハリ砂漠を中心とした地域で今日でも狩猟採集生活をする種族である。
 かれらは現生人類の系譜上最古の分岐を示すY染色体ハプログループAを高頻度で保有することから、初期現生人類に最も近いと考えられている。ただし、Aの保有頻度でみれば、今日の南スーダンの多数派ディンカ族も高頻度であるから、初期集団のスーダン方面への拡散も想定される。
 とはいえ、コイサン諸民族は現在まで現生人類発祥地をほぼ離れず、かつ狩猟採集の生活様式を固守している点(ただし、コイ族は牧畜民)、極めて保守的集団とも言える。かれらの保守性は形質的にも言語的にも顕著である。
 形質的には女性の臀部が脂肪によって大きく突出する脂臀が知られる。縮れ毛などの特徴は他のアフリカ黒人と共通だが、肌色はさほど濃くなく、黄褐色に近いことは、初期現生人類の形質的特徴を推定するうえで参照項になるかもしれない。
 言語的な特徴は、舌打ちするときの音に近い吸着音による音素が豊富であることである。コイサン諸語と包括されるかれらの言語に音素の種類が極めて多いのは、原初の言語が語彙よりも音素の区別によって様々な意味を表現していたことの痕跡と考えられる。
 もっとも、今日のコイサン諸民族が初期現生人類の直接の純粋子孫というわけではなく、かれらは後に今日のナイジェリア方面から南下してきたバンツー系の新たなアフリカ黒人集団と接触し、相当に混血もしたことにより、血統的にも言語的にも相互浸透し合って、今日のコイサン諸民族となったと見るべきであろう。
 そのため、今日のコイサン諸民族はかなりの多様性を示しており、かつて形質的に「カポイド」、言語的には「コイサン語族」と包括されたコイサン諸民族のくくりは、その有効性に疑問が持たれているところではある。

2017年4月 9日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

ビルマ諸王朝と仏教の定着
 ビルマ(ミャンマー)は最大勢力のビルマ族をはじめ多民族がひしめく地域であるが、宗教的には早くからほぼ仏教で統一されていた。ビルマ最初の統一的な王朝は、現代ミャンマーでは少数民族であるモン族が建てたタトゥン朝であった。タトゥン朝はスリランカとも交易をしたため、スリランカの上座部仏教が早くから伝播した。
 他方、タトゥン朝では大乗仏教系のアリー僧団と呼ばれる俗化した密教団が浸透し、王権を凌ぐと言われるほどの権勢を張った。この状況を変えたのは11世紀、ビルマ族初の王朝パガン朝を建てたアノーヤターである。軍閥出身の彼は自身、大乗系の信仰を持ちながら、アリー僧団を解体したうえ、あえて上座部仏教を国教の地位に据えた。タトゥン朝の基盤を解体するうえでは有利と見たためだろう。
 こうしてパガン朝は上座部仏教国となったが、実際のところは大乗仏教のほか、密教、ヒンドゥー教も混在していた点ではカンボジアと大差はなかった。ただ、王侯貴族は来世の冥福のため、競って寺院建立を行なったため、パガン朝下では壮麗な寺院仏塔が数多く出現し、今日に至るまで優れた仏教建築として残されているところである。
 その後、パガン朝で形成された仏教諸派は王権の支持を背景に国内外で広く伝道活動を進め、東南アジアで広く在家信徒を増やし、この地域に上座部仏教を浸透させるうえで大きな力を持った。
 しかし、王朝後期には再び俗化した密教団アラニャ僧団が勢力を広げ、広大な寺領を手中にするようになり、道徳的にも退廃した。王朝もモンゴル帝国の侵攻を受け、14世紀初頭には滅亡する。その後、ビルマでは諸民族の興亡が続くが、いずれも基本的に上座部仏教系の国である。
 ビルマ族が王権を奪回したのは、16世紀初頭のタウングー王朝からである。他方、今日のラカイン州にはビルマ族と近縁なラカイン族が15世紀に建てたやはり上座部仏教系アラカン朝があるが、この王朝も多くの仏教建築を残している。
 アラカン朝はイスラーム圏との交易も行い、イスラーム教にも寛容であったため、領内には従者、傭兵、商人等として定住したムスリムもあり、宗教的には融和されていたが、続くコウバウン朝による征服の後、ムスリムたちは隣のベンガル地方へ集団移住した。
 タウングーとアラカンの両王朝は18世紀にビルマ族の一首長であったアラウンパヤーが建てたコンバウン朝によって順次滅ぼされる。コンバウン朝も引き続き上座部仏教を擁護し、アラウンパヤーの四男で第6代国王ボードーパヤーは僧団の統合を進めて、統一僧団を設立した。
 彼の時代以後のビルマは上座部仏教の理論的中心地となり、仏教が閉塞していた上座部仏教先行地のスリランカへと逆輸入され、仏教復興を刺激するほどになった。
 しかし、英国によるビルマ侵略が進むと、キリスト教が浸透し始め、仏教界も分裂してきたため、1871年に第五回結集が当時の王都マンダレーにて開催された。しかし、86年にビルマ全土が英国の手に落ちて以降、植民地政府は世俗主義を採用しつつ、民衆にはキリスト教宣教師による改宗というお決まりの流れが生じた。
 英領インドに編入された英国植民治下、仏教僧の中には独立運動に関与する者もあったが、カンボジアほど急進化はせず、レディ僧院を創立したサヤドー師のように政治とは距離を置きつつ、独自の仏教哲学を深め、教宣に当たる高僧を輩出するようにもなったのが近代ビルマ仏教の特徴である。

2017年4月 5日 (水)

笑顔全体主義

 日本人はなぜ無理に笑顔を作りたがり、かつ他人の笑顔を見たがるのだろうか。これは、私にとって長年にわたる謎である。
 一つの仮説は、日本は世界一幸せな国だという「地上の楽園」プロパガンダを信じることが国民の義務だからというもの。私もこの説に傾いていたが、最近疑問に思えてきた。「地上の楽園」プロパガンダならもっと有名な国が存在するが、その国と日本には相当な相違点もあるように思える。
 とすると、第二の仮説として、実は幸せになれないような要素がたくさんあるからこそ、逆説的に笑顔を作り、見たがるというもの。この仮説は実際逆説的だが、最近の惨事や不幸な出来事を見ると、こちらのほうがあり得そうである。
 どちらにせよ、あるいは第三の仮説があるにせよ、笑顔を作ることは国民の義務であり、「笑顔がない」というのはそれだけで不審者・犯罪者扱いされかねない雰囲気が充満しているのが日本である。笑顔全体主義。一方で、可笑しくもないのに浮かべる日本人の笑みは国際的には謎とされ、時として不気味に思われている。
 とはいえ、この話がなぜ教育雑言として語られるかと言えば、自身の体験と関連するからである。子ども時代の私は作り笑いが大の苦手、従って「笑顔がない」ことを親からさえよく責められ、一度などはある笑顔狂の教師から授業中に名指しで吊るし上げられたこともあった。こういう衆人監視下での屈辱の恨みは骨髄に徹するので、一生忘れることはないだろう。
 だが、今日も全国の学校では「笑顔、笑顔!」と教師たちが笑顔教育にいそしみ、テレビをつければ、作り笑いのプロたちの空虚な笑顔が並んでいるだろう。

2017年4月 2日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第11回)

十二 尚益王(1678年‐1712年)/尚敬王(1700年‐1752年)

 12代尚益王は30年間在位した祖父尚貞王の後を受けて即位したが、在位わずか2年で死去し、子の尚敬が継いだ。尚敬王の治世は大飢饉による被害という困難の中で始まるが、尚敬の時代は実質的な宰相格の三司官蔡温の手腕により、安泰なものとなった。
 蔡温は第一尚氏王朝成立以前の14世紀末、明から渡来した福建人職能集団久米三十六姓の一つである蔡氏の出で、父は尚貞王代に『中山世譜』を完成させた学者蔡鐸である。そのため幼少期から英才教育を受け、中国大陸赴任を経て王子時代の尚敬の師範となった。
 こうした縁から、蔡温は尚敬王即位後は史上初の国師に任ぜられ、事実上国政全般を委ねられた。1728年には正式に三司官に選出され、名実共に王国政治のトップに立った。彼が特に力を入れたのは農政であり、自ら農書『農務帳』や治山書『杣山法式仕次』を著すほどであった。中でも、田/畑交換禁止や農民への永代耕作権の付与は農業生産力の向上に寄与した。
 その他、イデオロギー的な面では士族、農民の身分道徳的な心得をまとめた『御教条』を公布し、王国における封建的身分秩序の確立にも努めている。また10年以上の歳月を費やして大々的な検地(元文検地)を実施し、封建制度の土台強化も行なった。
 外交面でも、清の冊封に対処しつつ、日本側宗主である薩摩藩からの信頼も獲得し、政敵平敷屋〔へしきや〕朝敏から薩摩藩に讒言された際は薩摩藩が讒言者らを処刑したほどであった。また尚敬王が在位約40年にして死去したことを機に三司官を引退した後も、薩摩藩の命により晩年まで実権を保持した。


五´ 島津吉貴(1675年‐1747年)/継豊(1700年‐1760年)

 島津吉貴は先代綱貴の嫡男として後を継いだ4代藩主である。享保七年(1721年)に嫡男継豊に家督を譲り、薩摩庭園仙巌園に隠居しているが、その治世はおおむね琉球側の尚益・尚敬王代に相応している。
 琉球との関わりでは、宝永七年(1710年)、前年の6代将軍徳川家宣就任に際しての琉球慶賀使聘礼を指導している。また吉貴自身が指導したわけではないが、前田利右衛門なる薩摩領民が琉球から持ち込んだ甘薯が米作不毛地を救う主産品として普及し、一大生産地となったことから、サツマイモの名が生まれたのも吉貴時代である。
 また、上述した蔡温讒言事件に際して讒言者朝敏らを処刑した一件は吉貴隠居後の享保十九年(1734年)のことであるが、吉貴はまだ存命しており、これにも仙巌園にて大御所として関与した可能性がある。
 一方、嫡男継豊は在位年数こそ約25年と長かったが、病気がちであり、いくつかの分家の創出以外にさしたる事績は見られないまま、先例にならい、延享三年(1746年)、家督を嫡男宗信に譲って隠居した。
 ところが、宗信も、続く次男重年も父に先立ち若年で早世する不幸に見舞われ、最終的に重年の子で継豊の孫に当たる重豪〔しげひで〕が宝暦五年(1755年)に11歳で家督を継ぐこととなり、継豊がこれを後見した。

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