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2017年3月 9日 (木)

私家版琉球国王列伝(連載第10回)

十一 尚貞王(1646年‐1709年)

 11代尚貞王は先代の父尚質王から比較的安定した王権を承継した。ただ、王宮首里城は先代の1660年に焼失し、まだ再建中だったため、王家の冠婚葬祭場であった大美御殿で即位式を執り行うというハプニングもあった。なお、首里城は尚貞王在位中に再建を果たしている。
 尚貞王の在位年は40年に及んだわりに特筆すべき偉業は記録されていないが、それは安泰の証なのであろう。尚貞王は歴史に関心が深く、後に三司官として辣腕を振るう中国系官僚蔡温の父蔡鐸を起用し、漢文体の王国史『中山世譜』を編纂させている。
 また諸臣の家譜を管理する系図座を設置し、諸家の家譜を提出させ、その素性を明らかにしつつ、系図を認証された者を士族として姓を授与する身分制度を整備したのも、尚貞王である。経済面では、首里の壺屋に窯場を集中させ、陶業の発展を王の膝元で図ったが、これも身分制度と一体化した職能管理政策であったと考えられる。
 このように、尚貞王は身分制度の確立を通じて、王国支配を強化した功績を持つと言えるかもしれない。ただ、聡明の聞こえ高かった世子尚純は父に二年先立って早世したため、尚純の長男で孫の尚益が継ぐこととなる。
 ちなみに、尚益には口唇裂の障碍があったとされ、尚貞王は医師兼外交官の高嶺徳明に中国で形成外科の補唇術を学ばせ、帰国した高嶺に尚益の手術を施行させ、成功したという。これは日本に先立つ全身麻酔外科手術であったと評されることもある。


四´ 島津綱貴(1650年‐1704年)

 島津綱貴は尚貞王と年代的にほぼ重なる3代薩摩藩主である。前回触れたように、先代光久の嫡男で綱貴の父綱久が早世したため、40歳近くで祖父から直接に家督を継承したものである。その経緯は、尚貞王から尚益王への承継と似ている。
 綱貴は領民に慕われる人柄であったらしいが、藩政は災難続きであった。まずもともと鹿児島地方に多い自然災害はもちろん、幕府からその名も「御手伝」として課せられる普請義務の履行もあった。とりわけ徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となった寛永寺本堂普請である。
 こうした「御手伝普請」は幕府が外様諸藩を統制する財政的な手段であったが、とりわけ幕府が開府以来警戒心を解いていなかった薩摩藩には集中的に「御手伝」を課す傾向があり、結果として藩財政は逼迫していた。
 こうして薩摩藩が藩政に追われる中、薩摩藩による琉球支配は弛緩していかざるを得なかったため、結果的に琉球の自治権が回復されていったのも、綱貴時代である。その治世は祖父光久が長生したため、17年ほどであった。

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