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2017年3月

2017年3月31日 (金)

現代の八甲田山事件

 先月末、那須で雪中訓練中の高校生らが雪崩で集団死した事件は、100年以上前、帝国陸軍兵士らが青森の八甲田山で雪中行軍訓練中に集団遭難死した八甲田山事件を思い起こさせた。今回の事件も、日本の登山史に残る悲劇となるだろう。
 今回の事件は、学校部活動を主体とする日本式競技者育成の危うさを改めて浮き彫りにした。この方式は保護者にとっては子どもに無料で競技を習得させられるメリットもある反面、厳正なライセンスを持った指導者による体系的な責任指導がなされないため、半素人指導者による安全配慮に欠けた指導により生徒らが生命・身体を損なう危険性と隣り合わせである。
 さらに言えば、既に無謀さが指摘されている今回の雪中強行訓練には、かの八甲田山事件でも見られたまさしく日本軍流の精神論先行の共通根的発想が指導者の胸中にあったのではないかと推測させる。学校体育の延長的な部活動ではありがちなことである。
 そろそろ学校至上の競技者育成法式を改め、より合理主義的な責任指導体制が整備された民間競技クラブ主体の競技者育成方式に改める時ではないか。そのためには学校部活動の全廃という大胆な改革策が必要だと思われる。

2017年3月26日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第15回)

第二部 現況~未来

(4)オセアニアン・アメリカ
 アメリカはオセアニアに本土を持たないが、重要な海外領土を持つことで、この領域において一個のプレゼンスを保持している。これを「オセアニアン・アメリカ」と呼ぶことができる。
 この語は国際関係用語としては知られていないようであるが、先述したように、オーストラリア及びニュージーランドとともに太平洋安全保障条約の当事国となっているアメリカはオセアニアの枢要な構成国にほかならない。
 オセアニアン・アメリカを構成する統治体は一元的ではなく、いくつかの種別から成っている。その中心は言うまでもなく、全米50州の一つであるハワイ州である。ハワイは19世紀末にアメリカの関与したクーデターで独立王国が転覆された後、準州として編入され、1959年に50番目の州に昇格している。
 次に自治的未編入領域として、北マリアナ諸島とグアムがある。両者は合わせて東南アジア方面から先史時代に渡ってきたと見られるチャモロ族を先住民とする島嶼域で、9世紀頃には石柱遺跡ラッテストーンで知られる古代王朝も成立していたが、その後の歴史は分かれた。
 北マリアナ諸島はスペイン領からドイツ領、日本の信託委任領を経て第二次大戦後、アメリカの信託統治領に渡り、86年の信託統治終了に伴い、コモンウェルスという形式で自治領となった。他方、グアムはスペイン支配の後、米西戦争に勝利したアメリカの植民地に渡り、1950年に限定的な自治地域となったが、コモンウェルスの地位は認められず、自治権はなお制約されている。
 最後に、非自治的未編入領域ながら、事実上の自治権を付与された米領サモア(東サモア)である。「事実上」というのは、連邦法上は正式に自治権が付与されないまま、1967年に自主憲法が施行されているからである。皮肉にも、正式に自治権を持たないサモアが最も自治的であるが、代償として開発は進んでいない。
 こうした複雑な構成のオセアニアン・アメリカの中核は当然にも、正式の州であるハワイにあり、まさしくアメリカはオセアニアにも張り出していることになる。これは、アメリカの歴史的な戦略である太平洋・東アジア進出の象徴とも言える。
 オセアニアン・アメリカは総体として軍事的にも、最古の米統合軍である太平洋軍の枢要地であり、同軍司令部はハワイに置かれ、グアムは島の三分の一が米軍基地用地という「基地の島」となっている。そうしたこともあり、グアムでは北マリアナ同様のコモンウェルス昇格が実現せず、まさに要塞植民地的状況が続いている。
 このように、オセアニアン・アメリカの総面積は決して大きくないながら、アメリカの世界戦略において不可欠の領域となっており、独立運動は全般に低調で、今後も現状維持が続くと考えられる。

2017年3月23日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第2回)

一 「残アフリカ」した人々

豊穣だったアフリカ
 アフリカ黒人の発祥地は言うまでもなくアフリカ大陸であるが、そこは同時に人類そのものの発祥地と想定されている。中でも今日の南アフリカ共和国を中心とした南部アフリカは旧人を含めた古人骨の宝庫であることからして、南部アフリカがまさしく人類発祥地である可能性は高い。近年は、東部アフリカ説も有力で、論争は続くが、ここでは立ち入らない。
 ここが人類発祥地であったからには、その気候は人間にとってよほど最適のものであったと推定され、およそ20万年前に誕生したと推定される現生人類も、そうした良好な気候に支えられて大いに繁殖したものと思われる。
 しかし、繁殖は人口増・食糧難の要因となったところへ、温暖化によりアラビア半島に水上移動可能な環境が開けたことから、まずはアラビア半島・中東方面へと「出アフリカ」する集団が現れたと想定される。他方、「残アフリカ」した保守的集団の子孫が今日のアフリカ黒人となった。
 この「残アフリカ」組は、おそらく人口増の中でも食糧を確保する狩猟採集術に長け、あえて「出アフリカ」する苦難を選択する必要を感じなかったのだろう。実際、南部アフリカには今日でも狩猟採集を中心とした伝統的生活様式を守る少数民族が暮らしており、その伝統の強さを感じさせる。
 しかし、やがてこの「残アフリカ」組もその内部で人口増が生じたため、次第にアフリカ大陸を東西に北上して大陸全土に散っていき、新天地で多様な民族集団を形成し始めた。
 今日では南極を除けば世界最大級の過酷な砂漠であるサハラ砂漠ですら過去には豊かな緑地であったと推定されるごとく、先史のアフリカ大陸は現在よりはるかに豊穣な大地であったため、アフリカ黒人諸族は各地に拡散し繁栄し得たのである。
 ところで、最初の現生人類が果たして今日のアフリカ黒人と同様の身体的特徴を持つ人々であったかは不明であり、特に肌色はアフリカ大陸がまだ温暖であった時代にはさほど色濃くなく、アフリカ黒人はアフリカが全体として熱帯化していく過程に適応して形成されたとも推定できる。
 そうした意味で、アフリカ黒人は最初の現生人類に最も近いとはいえ、その純粋な子孫であるとまでは言えないであろう。ただし、現生人類発祥地に近い地域にその後もとどまった諸族は、形質的にも言語的にも原初現生人類の特徴をよく保存していると想定される。

2017年3月16日 (木)

私家版李朝国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した76年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学の理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。

2017年3月12日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

カンボジア王朝と仏教の変遷
 今日の東南アジアで仏教徒の割合が特に高いのはカンボジア、タイ、ミャンマーの三国で、いずれも九割を越える圧倒的な仏教優勢国である。その仏教はいずれも上座部系で共通している。ただ、仏教伝来のルートや態様には相違がある。
 実際のところ、上記三国に先立って仏教が伝来したのは今日では圧倒的にイスラームが優勢なインドネシア地域であり、5世紀にはスマトラ島に伝来したと言われる。そして7世紀から14世紀にかけてのシュリーヴィジャヤ王国が大乗仏教を信奉したほか、8世紀から9世紀にかけてのジャワ島のシャイレーンドラ王国も同様であったが、15世紀以降この地域の諸国は順次イスラーム教に改宗されていく。
 冒頭の三国中で最も早くに仏教が伝来したのはカンボジアであった。カンボジアが仏教国となるまでの経緯は複雑である。まずカンボジアには6世紀から9世紀にかけてクメール人王国真臘が存在した。真臘はカンボジアからベトナムにまたがって存在していた扶南国の属国からスタートしたため、ヒンドゥー教と仏教が並存していた扶南国の影響を強く受けていた。こうしたヒンドゥー‐仏教並存体制は以後しばらくはカンボジアの基調となる。
 真臘国は8世紀後半から9世紀初頭まで前記シャイレーンドラ王国の侵略・占領を受けたが、シャイレーンドラ王朝は大乗仏教を信奉し、世界最大級の仏教遺跡であるボロブドゥール大寺院を建造した。そこから独立して建国されたカンボジアのアンコール王朝は基本的にヒンドゥー教国家して出発するが、大乗仏教の影響も受け、大乗仏教が第二宗教的な位置を占めるようになった。
 転機となるのは、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世の治世である。彼はベトナム中部にあったヒンドゥー教国家チャンパ王国との戦争で荒廃した時期に即位し、復興を担った。その際の平和国家の理念として大乗仏教を置いたのであった。その点では、古代インド・マウリヤ朝のアショーカ王とも類似している。
 ジャヤーヴァルマン7世はヒンドゥー教由来の「王は神の権化なり」とする統治理念を「王は転輪聖王(仏教における理想王)なり」とする仏教的な理念に置換して、仏教国治の支柱としたのである。その点では、モンゴル元朝のクビライとも共通するところがある。
 一代で王国の繁栄を築いたジャヤーヴァルマン7世は在位中多くの仏教寺院を建立したが、伝統のヒンドゥー教も排除することなく、バイヨンのようなヒンドゥー‐仏教習合的な宗教施設も建設している。また彼はタマリンダ王子をスリランカに留学させ、当地の上座部仏教を学ばせた。
 王子が帰国後、カンボジアに上座部仏教を普及させて以降、カンボジアでは貴賎を越えて広く上座部仏教が浸透し、社会総体を仏教化する契機が開かれたのである。これはカンボジアでは上座部仏教が極めて階級横断的な形で布教されたためと言われる。
 ジャヤーヴァルマン7世の没後、アンコール朝は衰退し、モンゴルの侵攻を受けた13世紀のジャヤーヴァルマン8世の治世では廃仏・ヒンドゥー回帰の政策が採られたが、1295年にクーデターで王位を簒奪した娘婿のインドラヴァルマン3世は自ら信奉していた上座部仏教を改めて国教に据えた。
 これ以降、カンボジアは上座部仏教国として定着したが、国はタイやベトナムの侵略を受けるようになり、15世紀前半に首都アンコールが陥落して以後は都を転々とする流浪の歴史となる。この先、19世紀後半にフランス植民地となるまでの数百年間はカンボジア史において「暗黒時代」と呼ばれる閉塞の歴史であった。
 この長い閉塞の時代、とりわけたびたび侵略したタイの影響力が増大し、19世紀にはタイ流上座部仏教の二大教団の一つで後発のタンマユット僧団がカンボジア王室の庇護の下に拠点を築き、マハー僧団との対立を引き起こすことになる。
 なお、フランス植民地治下でベトナムやラオスとともに仏領インドシナに併合されたカンボジアでは、仏教僧ないし仏教主義者による聖戦的な反仏闘争が展開され、仏教は独立闘争のシンボルともなったところである。

2017年3月 9日 (木)

私家版琉球国王列伝(連載第10回)

十一 尚貞王(1646年‐1709年)

 11代尚貞王は先代の父尚質王から比較的安定した王権を承継した。ただ、王宮首里城は先代の1660年に焼失し、まだ再建中だったため、王家の冠婚葬祭場であった大美御殿で即位式を執り行うというハプニングもあった。なお、首里城は尚貞王在位中に再建を果たしている。
 尚貞王の在位年は40年に及んだわりに特筆すべき偉業は記録されていないが、それは安泰の証なのであろう。尚貞王は歴史に関心が深く、後に三司官として辣腕を振るう中国系官僚蔡温の父蔡鐸を起用し、漢文体の王国史『中山世譜』を編纂させている。
 また諸臣の家譜を管理する系図座を設置し、諸家の家譜を提出させ、その素性を明らかにしつつ、系図を認証された者を士族として姓を授与する身分制度を整備したのも、尚貞王である。経済面では、首里の壺屋に窯場を集中させ、陶業の発展を王の膝元で図ったが、これも身分制度と一体化した職能管理政策であったと考えられる。
 このように、尚貞王は身分制度の確立を通じて、王国支配を強化した功績を持つと言えるかもしれない。ただ、聡明の聞こえ高かった世子尚純は父に二年先立って早世したため、尚純の長男で孫の尚益が継ぐこととなる。
 ちなみに、尚益には口唇裂の障碍があったとされ、尚貞王は医師兼外交官の高嶺徳明に中国で形成外科の補唇術を学ばせ、帰国した高嶺に尚益の手術を施行させ、成功したという。これは日本に先立つ全身麻酔外科手術であったと評されることもある。


四´ 島津綱貴(1650年‐1704年)

 島津綱貴は尚貞王と年代的にほぼ重なる3代薩摩藩主である。前回触れたように、先代光久の嫡男で綱貴の父綱久が早世したため、40歳近くで祖父から直接に家督を継承したものである。その経緯は、尚貞王から尚益王への承継と似ている。
 綱貴は領民に慕われる人柄であったらしいが、藩政は災難続きであった。まずもともと鹿児島地方に多い自然災害はもちろん、幕府からその名も「御手伝」として課せられる普請義務の履行もあった。とりわけ徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となった寛永寺本堂普請である。
 こうした「御手伝普請」は幕府が外様諸藩を統制する財政的な手段であったが、とりわけ幕府が開府以来警戒心を解いていなかった薩摩藩には集中的に「御手伝」を課す傾向があり、結果として藩財政は逼迫していた。
 こうして薩摩藩が藩政に追われる中、薩摩藩による琉球支配は弛緩していかざるを得なかったため、結果的に琉球の自治権が回復されていったのも、綱貴時代である。その治世は祖父光久が長生したため、17年ほどであった。

2017年3月 5日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第14回)

第二部 現況~未来

(3)ニュージーランドの独自位置
 オセアニアにおいて、オーストラリアと似た英国移民を中心とするヨーロッパ白人主体の歴史・文化、人口構成を持ちながら、しかしオーストラリアとは異なる独自位置を保持してきたのが、ニュージーランドである。
 ニュージーランドはオーストラリアとは異なり、移民制限的な白人優越政策を採らず、先住民マオリとの関係でも、差別はあったものの、民族浄化的な政策は志向されず、マオリの権利を擁護する施策が進んできた。
 しかし、両国の相違が明白に現れるのは、安全保障政策である。ニュージーランドもオーストラリアとともにアメリカとの太平洋安全保障条約に加盟しているが、1980年代のロンギ労働党政権は非核政策を追求し、核兵器搭載艦船のニュージーランド水域進入と寄航を禁じ、ニュージーランド領土・領海を非核兵器・非原子力推進艦艇地帯に指定するという世界でも徹底した非核政策を敷いた。
 これにより、アメリカは上記条約に基づく対ニュージーランド防衛義務を停止したため、ニュージーランドは事実上条約を脱退したに等しくなった。その反面、ニュージーランドは南太平洋非核地帯条約の旗手としての地位を獲得したとも言える。
 他方で、ニュージーランドはオセアニア域内でトケラウ島を領有し、クック諸島、ニウエを自由連合下に置くなど、小国なりの覇権主義的なプレゼンスも保持するなど、巧妙な外交安保政策を志向している。
 もう一つ、ニュージーランドを特徴づけてきたのは、北欧と並び第二次大戦前から建設された福祉国家としての側面であった。対外的には、第二次大戦後、戦争被害が甚大だった旧宗主国英国の思惑もあり、ニュージーランドが英国農産品の主要な輸出先として特恵待遇を受けたことから、英国市場との結びつきを利用して経済成長を遂げることができた。
 しかし、この特恵関係が英国のEC(現EU)加盟ととともに終了し、一転して経済的苦境に立たされると、80年代半ば以降は脱福祉国家のプロセスを歩んだ。最初に舵を切ったのは、先のロンギ労働党政権であった。労働党はまさにニュージーランド福祉国家建設の旗手であったのだが、自ら築いた遺産の切り崩しに着手したのである。
 このプロセスは90年代、明確に新自由主義的な保守系ボルジャー国民党政権に継承されて、一定の完成を見たが、結果は同様の改革を経た英国と同様の経済格差の拡大や貧困化の発現であった。
 99年に政権を奪還した労働党はクラーク首相(女性)の下で、再度福祉修復的な政策を志向するも、クラークは一方で、米中との自由貿易も推進するなど、新自由主義政策を放棄はしなかった。
 08年以降は再び国民党が政権党に返り咲き、脱福祉国家・新自由主義路線は既定的となっている。その結果、ニュージーランドは世界でも最も経済規制の少ない投資先と評価されており、そうした投資面での優位性で独自の存在感を発揮しようとしていると思われる。
 一方で、アジア系移民の制限を主要な公約とするニュージーランド・ファースト党が90年代以降台頭し、国民党政権と連立し、あるいは労働党政権に閣外協力する形で議会にキャスティングボート的な地歩を固めている。
 この党のピータース創立者兼党首は父方がマオリ系(母方はスコットランド系)という人物であり、アジア人排斥の一方でマオリの権利向上も主張するなど、党の立ち位置は複雑にねじれており、ここにもニュージーランドの特殊性が滲んでいる。

2017年3月 1日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第1回)

小序

 本連載は、いわゆる「アフリカ史」ではない。「アフリカ史」という場合は、広大なアフリカ大陸全体の通史であり、そこにはエジプトやエチオピアといった古国の歴史も包含されることになる。しかしここで言う「アフリカ黒人」とは、旧来の人種分類上はネグロイドに属する諸民族を指す。
 従って、旧称いわゆるセム系/ハム系諸民族によって築かれ、今日でもその系譜を引くエジプトをはじめとする北アフリカやエチオピア、ソマリアなどは、「アフリカ黒人の軌跡」の舞台とならない。その一方、アフリカ大陸にとどまったアフリカ黒人はもちろん、大陸から南北アメリカ大陸やカリブ海方面に奴隷として連行され、定着したアフリカ黒人の軌跡にまで及ぶことになる。
 もう一点、「歴史」でなく、「軌跡」とした理由は、アフリカ黒人は一部の例外を除き、長い間無文字・口伝社会を維持したからである。無文字のまま相当な高度文化を築いた民族も存在する。このような場合、たとえ歴史はなくとも、たしかな軌跡はある。 
 人類学的知見によれば、最初の現生人類はアフリカ大陸で誕生したが、その後「出アフリカ」組と「残アフリカ」組とに分かれたとされ、後者から多様に派生したのがアフリカ黒人系諸民族と見られている。そうした意味で、アフリカ黒人は、歴史は浅いが人類としての軌跡は最も長い。
 そのような軌跡を時代的に追うことが、本連載の目的である。それを通じて、アフリカとアメリカの両大陸を股にかけて存在するかれらの史的動態を明らかにしてみたいと思う。それは同時に、先行の『世界歴史鳥瞰』ではほとんど割愛せざるを得なかったアフリカ黒人というアクターを改めて視野に捉え直す試みでもある。

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