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2017年2月 2日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第27回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

オイラト王朝とチベット仏教
 元朝撤退後のモンゴルにあって、最も熱心なチベット仏教徒となったのはモンゴル族の亜族とも言えるオイラト族だった。かれらはモンゴル西部を本拠地とし、元はテュルク系とも言われるが、チンギス・ハーンに服属して以来、チンギス家の姻族として定着し、実質上はモンゴル族と変わらなくなった。
 オイラト族は15世紀以降、いくつかの部族に分かれてモンゴル本族に対抗する大連合を組むようになったが、モンゴルのハーンはチンギス末裔に限るという継承原理に阻まれ、15世紀に初めてオイラト族から出たエセン・ハーンも一代限りで滅ぼされた。
 そうした中、17世紀にはオイラト族ホシュート部が有力化し、部族長トゥルバイフ(グーシ・ハーン)が帰依していたゲルク派のダライ・ラマを擁してチベットを征服、グーシ・ハーン王朝を立てたことは以前にも触れたところである。このオイラト系チベット王朝は5代80年ほど存続した。
 一方、グーシ・ハーンはチベット遠征に同行させていたオイラト族ジュンガル部族長ホトゴチンに娘を嫁がせたうえ、バートル・ホンタイジの称号を与えてオイラト本拠地の統治を委ねた。ここに、ジュンガル部が治める強力なオイラト系遊牧国家ジュンガル帝国が発足した。
 ジュンガル帝国ではバートル・ホンタイジの没後、内乱に陥り、1672年にはバートルの子センゲが異母兄らに殺害されたが、弟のガルダンが決起し、敵を討伐して新たなジュンガル部族長に就任した。これが母方からグーシ・ハーンの孫に当たるガルダン・ハーンである。
 ちなみに、グーシ・ハーンにせよ、ガルダン・ハーンにせよ、本来チンギス末裔のみが名乗れるハーン称号をいずれもダライ・ラマ5世から授与されており、オイラト族とチベット仏教ゲルク派との結合の強さが窺える。
 ガルダン・ハーンは少年時代、さる高僧の転生と認定されたことから、チベットに留学し、ダライ・ラマ5世の下で学んだが、その後帰国・還俗したのであった。こうした緊密な師弟関係から、後にガルダン・ハーンが対立したホシュート部を討伐すると、ダライ・ラマ5世はガルダンに「持教受命王」の称号を授与した。
 これ以降、オイラト族ではジュンガル部が盟主格となり、ガルダン・ハーンは周辺勢力の征服を精力的に進め、中央アジア全域に及ぶ大帝国を一代にして築き上げた。しかし、その権勢は長く続かなかった。清と結ぶモンゴル族ハルハ部に介入して清朝とも対立したことがあだとなり、1696年、清軍に攻め込まれて敗北、敗走・潜伏中に病死してしまう。
 ガルダンの死後は兄センゲの子孫が部族長を継いでいき、1717年にはグーシ・ハーン王朝を一時征服するが、間もなく衰退し、最終的に1755年、清によって滅ぼされ、清の支配下に入った。以後、モンゴル系遊牧帝国は二度と再生することはなかったが、モンゴルとチベット仏教の結びつきは恒久的なものとなったのである。

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