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2017年2月22日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第28回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

清朝支配下モンゴルと仏教
 モンゴル本国に当たるモンゴル帝国はオイラト帝国に先立って17世紀前半には衰微した。1603年に即位したリンダン・ハーンは帝国再建を目指して精力的に動いたが、その強権支配が諸部族から反発を招くとともに、新興の女真族系後金(清)の圧迫も強まっていた。
 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征の途上で病死すると、後金軍の侵攻を受け、リンダンの遺子エジェイは元朝以来の玉璽を後金に譲渡し、その支配に下った。ここに、モンゴル帝国は正式に終焉した。
 18世紀まで続いたモンゴル亜種のオイラト帝国も、前回見たように、1755年には清に下ったため、これ以降、モンゴルは総体として清朝の支配下に編入されることとなった。清朝支配下モンゴルで有力化してきたのは、ハルハ部であった。
 ハルハ部は代々ハーンを輩出してきたチンギス・ハーン裔とは異なる傍系部族であったが、モンゴル中興の祖ダヤン・ハーンによる部族再編に際し、ダヤンの息子が婿入りして有力部族となった。ハルハはモンゴル帝国滅亡後、清といち早く朝貢関係を結び、オイラトから圧迫された際も援助を受けることができた。
 ハルハ部もチベット仏教に帰依したが、他の部族と異なるのは独自の活仏制度を持ったことである。その初代はハルハ有力部族長の息子ジェプツンタンパ1世であった。彼は幼くして出家し、チベットに留学、ダライ・ラマ5世よりチベット高僧チョナン・ターラナータの転生者として認定され、帰国した。彼はまた、清の康熙帝からもホトクト大ラマの称号を得て、ハルハの宗教的・政治的権威を承認された。
 以後、ジェプツンタンパ・ホトクトはモンゴル系活仏の名跡として継承されていった。ただし、清はモンゴル勢力がジェプツンタンパの下に再び糾合されることを警戒し、3代ジェプツンタンパ以降はチベット人を認定するよう策したため、モンゴル人ジェプツンタンパは最初の二代までであった。
 チベット人活仏を戴く新たな神権体制はモンゴルに根づき、20世紀の辛亥革命で清が滅亡する直前の1911年、モンゴル有力者らは時のジェプツンタンパ8世を元首ボグド・ハーンに擁立して清から独立した。
 この神権君主制ボグド・ハーン体制は近代モンゴル揺籃期を主導し、1913年には遅れて独立を目指していたチベットのダライ・ラマ体制と相互承認条約を結んで、チベット仏教を紐帯とするモンゴル‐チベット連携の構築を目指した。
 しかし、ボグド・ハーン体制は中国の辛亥革命とロシア革命を受けた地政学的変動に翻弄されて独立国家としての地位を確保できず、ロシア革命の余波から社会主義運動が高まる中、1924年のジェプツンタンパ8世死去を受け、世俗社会主義体制に転換された。

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