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2017年2月

2017年2月25日 (土)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第6回)

五 文宗・李珦(1414年‐1452年)/端宗・李弘暐(1441年‐1457年)

 世襲を基本とする君主制では、名君の長期治世の後に混乱が起きることは古今東西よくあることだが、世宗大王没後の李朝もその例外ではなかった。
 世宗は晩年健康を害していたため、存命中から長男の世子李珦が1442年以降、摂政として国政を代行するようになっていた。そのため、彼が50年の父王死去を経て円滑に王位を継承し、5代文宗となるが、文宗は不運にも在位わずか2年で病没してしまう。代わって、文宗の11歳の世子李弘暐が王位を継承し、6代端宗となる。
 しかし、年少のため、当然摂政を必要としたが、生母の顕徳王后は端宗を出産した直後に産褥死しており、後宮からの後見が期待できなかったため、父文宗は臨終の際に、世宗以来の重臣や学者に息子の補佐を遺言していた。ところが53年、文宗の弟で野心家の首陽大君(後の7代成祖)がクーデターを起こして、端宗側近団を殺害・排除し、実権を掌握した(癸酉靖難)。
 結果、首陽大君が集めた側近グループ(勲旧派)が国政を壟断し、55年には端宗を退位に追い込んだため、端宗は14歳にして上王の地位に退くことになった。しかし、57年、端宗の復位を図る六人の旧重臣(死六臣)を中心とした陰謀が未然に発覚すると、上王もこれに連座する形で魯山君に降格・追放のうえ、最終的に賜薬によって処刑された。
 こうして宮廷の策謀に巻き込まれ、わずか16歳にして処刑された悲劇の前国王魯山君は、没後241年後の1698年に至り、時の19代国王粛宗によって復位のうえ、端宗の廟号を追贈されたのであった。

六 世祖・李瑈(1417年‐1468年)/睿宗・李晄(1450年‐1469年)

 前述したように、世宗の次男首陽大君はクーデターによって甥の端宗を退位させて自らが7代国王に即位した。この経緯は後世、儒教的な道理に反する王位簒奪と解釈されるようになり、遠く17世紀末、19代粛宗の時に端宗の復位や「死六臣」の名誉回復もなされたのであった。
 とはいえ、当時としては世宗没後、不安定化した国政を強権をもって立て直したのは世祖であった。世祖の政策はほぼ父王のそれの継承発展であったが、クーデター政権の脆弱性を補強するためにも意識的に独裁的な恐怖支配を行なった。端宗復位事件に際しての関与者に対する残酷な拷問・処刑もそうした表れであった。
 独裁強化のため、父王の晩年に廃されていた国王による六曹直啓制を復活させ、王への権力集中を図った。一方で、いまだ完備されていなかった基本法典の整備にも注力し、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成る「経国大典」の編纂を主導するが、さほど長くなかった治世の間に完成・公布されたのは戸典と刑典だけであった。とはいえ、これは民事と刑事に関する重要な法制度の整備を意味した。
 世祖は晩年、ハンセン病と見られる病気に侵され、死の前年には北辺の豪族・李施愛の反乱に見舞われるなど政情が不安定化する中、世子海陽大君に譲位したうえ、68年に死去した。在位13年余りと父世宗の半分にも満たない道半ばでの他界であった。
 後継者となった8代睿宗はまだ18歳と若く、母の貞熹王后が大妃(慈聖大妃)として摂政となり、勲旧派重臣とともに国政を主導した。朝鮮最初の垂簾聴政者となった慈聖大妃は首陽大君妃だった時にも夫を𠮟咤してクーデターを唆したと言われ、自らも政治に深く関与した女性であった。 
 しかし、睿宗政権は不安定化し、そのわずか1年余りの治世では筆禍事件や謀反事件などが立て続けに起こった。そうした中、睿宗は69年、19歳で死去してしまう。政情が再び安定に向かうのは、9代国王に擁立された世宗の早世した長男の子者山君が成長し、親政を開始した76年以降のことである。


§4 宗成職(1419年?‐1467年)

 名君が世を去った後、混乱が起きたのは宗氏側でも同じであった。宗氏の威信を大いに高めた貞盛が没した後は、嫡男成職〔しげもと〕が継ぐが、彼の時代、宗氏一族は結束を欠いた。
 その結果か―上述した朝鮮側の混乱もあったか―、1450年代になると、嘉吉条約適用外の深処倭(本土日本人)名義の朝鮮通交が多発している。そのため、朝鮮側は1455年にこれら深処倭の整理統制を宗氏に要求した。
 それでも深処倭名義通交は増発していくが、これは宗氏が名義借りや通行権譲渡の形で偽使として派遣したものと考えられている。こうした偽使を成職が単独で送っていたか、それとも宗氏関係者が個別に送っていたのかは不明である。
 成職時代の宗氏は、国内的にも後退があった。嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟則繁をかくまい、朝鮮逃亡を幇助したため、大内氏らの追討を受けた旧来の主家筋少弐教頼―成職の義兄弟―の筑前復帰を支援するも、大内氏に敗れた。
 結局、宗氏の再起は、成職が嫡男を残さず1467年(応仁元年)に没した後を継いだ従弟に当たる養子貞国の手に委ねられることとなったのである。

2017年2月24日 (金)

働き蜂社会は不変

 政府肝いりでの“プレミアムフライデー”とやらが始まった。“ワーク・ライフ・バランス”もそうだが、こなれないカタカナ語で上から一斉に号令をかけるやり方がまた一つ増えたようである。
 しかし、「労働時間の短縮」を正面から掲げず、「働き方改革」などと言葉を濁して過労の基本にある働き蜂社会を温存したまま、スローガンを繰り出しても本質は変わらない。働き蜂が月一で金曜日だけ早く羽を休めたところで、総体としての蓄積過労は回復されないだろう。
 だが、そもそもこのキャンペーンの隠された目的はレジャーで消費を刺激することにあるようだ。働き蜂を月一で食い蜂に変身させて消費不況を解消しようという経済界の思惑である。労働に代えて消費に繰り出して、胃袋を過活動状態にするのは休息ではない。
 働き蜂社会の大転換が明白に意識され、休息の自由が権利として確立されるのは、いつのことだろうか。巨大なGDPの維持を絶対目標としている限り、この国では永久に無理だろう。

働くために休むなかれ、休むために働くべし。

2017年2月22日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第28回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

清朝支配下モンゴルと仏教
 モンゴル本国に当たるモンゴル帝国はオイラト帝国に先立って17世紀前半には衰微した。1603年に即位したリンダン・ハーンは帝国再建を目指して精力的に動いたが、その強権支配が諸部族から反発を招くとともに、新興の女真族系後金(清)の圧迫も強まっていた。
 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征の途上で病死すると、後金軍の侵攻を受け、リンダンの遺子エジェイは元朝以来の玉璽を後金に譲渡し、その支配に下った。ここに、モンゴル帝国は正式に終焉した。
 18世紀まで続いたモンゴル亜種のオイラト帝国も、前回見たように、1755年には清に下ったため、これ以降、モンゴルは総体として清朝の支配下に編入されることとなった。清朝支配下モンゴルで有力化してきたのは、ハルハ部であった。
 ハルハ部は代々ハーンを輩出してきたチンギス・ハーン裔とは異なる傍系部族であったが、モンゴル中興の祖ダヤン・ハーンによる部族再編に際し、ダヤンの息子が婿入りして有力部族となった。ハルハはモンゴル帝国滅亡後、清といち早く朝貢関係を結び、オイラトから圧迫された際も援助を受けることができた。
 ハルハ部もチベット仏教に帰依したが、他の部族と異なるのは独自の活仏制度を持ったことである。その初代はハルハ有力部族長の息子ジェプツンタンパ1世であった。彼は幼くして出家し、チベットに留学、ダライ・ラマ5世よりチベット高僧チョナン・ターラナータの転生者として認定され、帰国した。彼はまた、清の康熙帝からもホトクト大ラマの称号を得て、ハルハの宗教的・政治的権威を承認された。
 以後、ジェプツンタンパ・ホトクトはモンゴル系活仏の名跡として継承されていった。ただし、清はモンゴル勢力がジェプツンタンパの下に再び糾合されることを警戒し、3代ジェプツンタンパ以降はチベット人を認定するよう策したため、モンゴル人ジェプツンタンパは最初の二代までであった。
 チベット人活仏を戴く新たな神権体制はモンゴルに根づき、20世紀の辛亥革命で清が滅亡する直前の1911年、モンゴル有力者らは時のジェプツンタンパ8世を元首ボグド・ハーンに擁立して清から独立した。
 この神権君主制ボグド・ハーン体制は近代モンゴル揺籃期を主導し、1913年には遅れて独立を目指していたチベットのダライ・ラマ体制と相互承認条約を結んで、チベット仏教を紐帯とするモンゴル‐チベット連携の構築を目指した。
 しかし、ボグド・ハーン体制は中国の辛亥革命とロシア革命を受けた地政学的変動に翻弄されて独立国家としての地位を確保できず、ロシア革命の余波から社会主義運動が高まる中、1924年のジェプツンタンパ8世死去を受け、世俗社会主義体制に転換された。

2017年2月15日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第9回)

 尚豊王(1590年‐1640年)/尚賢王(1625年‐1647年)/尚質王(1629年‐1668年)

 薩摩による侵攻・征服当時の尚寧王は世子を残さず、1620年に苦難の治世を終えて没した翌年、王統は再び本家筋に戻り、5代尚元王の孫に当たる尚豊王が即位した。彼は約20年在位したが、この間、薩摩藩から王号を剥奪され、琉球国司に落とされるなど屈辱的な待遇を受けた。
 結局、彼は薩摩藩の傀儡のまま世を去り、世子の尚賢が後を継いだ。尚賢の治世はおよそ6年と短いものだったが、彼の治世では後に琉球の主産業となる黒糖やウコンの専売制度が導入されるなど、農政面では一定の治績を残している。また尚質王は、中国で明を打倒して新王朝を形成した清と引き続き冊封関係を結び、清から印綬されている。
 尚豊・尚賢父子の治世は薩摩藩の統制がまだ厳しい時代であったが、尚賢の後を継いだ王弟で10代尚質王の時代になると、薩摩藩の統制が一定緩和されてきた。そうした状況下で、尚質王は一連の改革を実行した。
 その実務を担ったのが、王族羽地御殿出身の羽地朝秀であった。彼は薩摩藩へ留学して学問を修めた後に帰琉し、琉球初の正史『中山世鑑』の編纂に当たった。こうした功績に加え、おそらくは後述する北谷恵祖事件(1663年)に介入してきた薩摩藩対策からも、尚質王の摂政に抜擢され、改革の全権を委ねられたのであった。
 彼は薩摩藩への留学経験から、確信的な親薩摩派であり、琉球人の祖は日本人であるとする「琉日同祖論」に立って琉球伝統の神道を懐疑し、最高神官として大きな権威を持ってきた聞得大君を王妃より下位に格下げする宗教改革を実施した。
 その他、朝秀は倹約による財政再建などの世俗政策も実施し、薩摩侵攻以来疲弊していた国力の回復に努め、尚質を継いだ尚貞王代初期の1673年まで摂政を続けた。
 こうして、尚質王代には薩摩藩の支配が一種の間接支配に変化する中で、琉球は一定の独自性を回復し、以後も200年近く存続していくのである。そこには対日迎合の批判も向けられながら、現実的な改革に努めた朝秀の功績も寄与したであろう。


三´ 島津光久(1616年‐1692年)

 島津光久は薩摩藩初代藩主家久の嫡男で、2代薩摩藩主である。彼は幕命で幼少期を江戸で人質として過ごし、参勤交代の原型を作ったと言われるが、そのため父死去を受け急遽帰国し、若くして藩主に就任した後しばらくは藩政に動揺が続いた。
 さらに、幕府の鎖国政策転換により、薩摩藩が頼みとする貿易が著しく制約されたことは藩財政を圧迫した。活路を見出そうとした金山の発見・開発も幕府の妨害で断念せざるを得ず、窮地に陥った。彼の治世で琉球支配が緩んだのも、こうして光久が藩運営に苦慮していた結果と言えるかもしれない。
 もっとも、寛文七年(1667年)には、琉球が清に派遣した康熙帝即位の慶賀使恵祖一行が琉球人の賊に襲撃され、貢物を強奪された不祥事(北谷恵祖事件)には司法介入し、関係者を処断している。
 その他には光久の在位中、これといって見るべき事績は記録されておらず、彼が名を残しているのは大名による庭園造りの先駆けとも言える鹿児島の仙巌園を造園したことくらいである。
 ただ、光久は壮健だったらしく、当時としては相当の長寿である80歳近くまで長生し、子沢山でもあったことで不安定さを補強し、藩の存続を確保したのであった。嫡男には先立たれたが、貞享四年(1687年)には孫の綱貴に無事家督を譲り、隠居している。

プログラミング必修化の謎

 小学校からの英語に加え、プログラミングも必修化。現代の小学生でなくて良かったとつくづく思う。それにしてもなぜ全員一律にプログラミングなのか。現代のコンピューターはプログラミング知識ゼロでも基本的な操作はできるように単純化という進化を遂げている。よってプログラミングは、プログラマーという専門職の専門技能に委ねられる。
 小学生の全員がプログラマーになるわけでもあるまいに、なぜ必修なのか理解に苦しむ。その苦しみ度は英語必修化以上である。下手にプログラミングの表面的な技能だけを早期から教え込めば、その技能を悪用する青少年ハッカーを増やすだけではないかという懸念もある。
 むしろ必修とすべきは、情報倫理とか情報リテラシーのように、小手先の技能ではない、情報そのものとの向き合い方ではあるまいか。これこそ、今後ますます進展するであろう高度情報社会で生きていく小学生世代が共通して必修すべき事柄である。

2017年2月12日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第13回)

第二部 現況~未来

(2)オーストラリアの地域覇権
 地球を全体として概観した場合にその島嶼部に相当するオセアニアにあって、オーストラリアは最大の「島」にして、最大人口を要する準大陸国家である。そのため、その規模のゆえにオセアニア地域では盟主的地位にある。
 英国植民地からの独立に始まり、先住民族を殺戮/強制同化する民族浄化によって白人中心国家を築いていったその歴史的歩みはアメリカ合衆国に類似しているが、1970年代まではアメリカ以上に明確に白人優先主義―白豪主義―を採り、非白人移民の制限と先住民差別を公然と行なっていた。
 しかし、独立後も後ろ盾であり続けた英国の欧州共同体(EC→現EU)加盟を契機に、70年代半ばに白豪主義政策を多文化主義政策に転換して以降、オセアニアにおける独自の地位を確立し、政治経済的な盟主として国際関係上も重みを増していった。
 軍事的にも6万人近い現役兵力を有する国防軍はオセアニア地域最大であり、域内紛争やオセアニアに連なる東ティモール紛争の解決にも介入関与してきた。一方、2000年代以降はアメリカに協力し、アフガニスタンやイラクにおける軍事作戦にも派兵するなど、域外派兵も増発している。
 後に改めて見るように、アメリカはハワイ州を拠点にオセアニアにおいても領土を有し、「オセア二アン・アメリカ」と呼ぶべきオセアニアの構成国でもあることから、オーストラリアとしても歴史や価値観の近似性が高いアメリカとは協調・同盟関係を取りつつ、オセアニアにおける盟主的地位を維持する戦略である。
 一方で、1980年代には労働党政権の下、非核地帯設定を主導し、85年の南太平洋非核地帯条約の締結に結実させ、核政策ではアメリカと一線を画す姿勢を見せている。ただし、アメリカは同条約を批准していないため、域内のアメリカ領土に条約の適用はなく、アメリカと自由連合を締結している準独立諸国も批准していない。
 加えて、オーストラリア自身もアメリカとの太平洋安全保障条約を通じてアメリカの「核の傘」に依存する政策を事実上採用していると見られ、国際社会での核兵器禁止に反対するなどの両義的態度が見られる。
 経済面では近年オセアニアへの進出を活発化させている中国との結びつきを強め、中国が最大貿易相手国となっている。国際金融分野でも中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加するなど、中国との結びつきは加速している。
 こうして、オーストラリアは政治・軍事⇔アメリカ、経済・通商⇔中国という形で、米中両大国を機能的に両天秤にかけるバランス政策を通じてオセアニアにおける地域覇権を保持していかんとしているように見える。
 なお、2016年の国民投票によりEU脱退を決めた英国が欧州を離れ、再び独自的な地位を回復する見込みとなったことで、現在も英連邦加盟を通じて友好を維持する豪英関係が新たな展開を見せるかどうかが注目される。

2017年2月 8日 (水)

弥助とガンニバル(連載最終回)

九 エピローグ
 :アフリカ奴隷貿易のその後

 弥助とガンニバルは、奴隷貿易システムが生み出した東方のアフリカ黒人武人であり、その後、両者の再来と言えるような例は記録されていない。その意味では、奴隷貿易システムの国際的な広がりを象徴する特異な事例だったとも言える。
 弥助を日本にもたらしたポルトガル主導の奴隷貿易は、ポルトガルがオマーン海洋帝国の台頭に伴い後退していった後、後発の英国が主導するようになり、カリブ海の西インド諸島のプランテーション労働者として黒人奴隷を送り込む銃器‐奴隷‐砂糖の三角交換貿易に発展する。
 三角貿易による利益は産業革命の物質的土台となったとも理解されているが、17世紀以降鎖国による自足体制に入る日本がこのシステムに参画することはなかったし、広大なシベリア開拓に注力するロシアも海外プランテーションに利害関心を示さなかったため、やはり奴隷貿易システムの当事者とはならなかった。
 しかし、三角貿易は奴隷対象者の減少による奴隷価格高騰という経済的変化によってメリットが少なくなったところへ、次第に芽生えてきたキリスト教的人道主義の精神にも後押しされ、当の英国自身による提起により、19世紀前半期には廃止の潮流が起きる。これは奴隷貿易システムを新たな帝国主義植民地支配に置換する契機となった。
 ちなみに、東アフリカでポルトガルを駆逐して台頭していたオマーンは、1856年に全盛期を演出したサイード大王が没した後、跡目争いから分裂し、アフリカ側のザンジバルがブーサイード分家の下に分離独立していった。
 こうして新生されたザンジバル・スルターン国も1870年には英国との間で奴隷貿易禁止を協定するが、その陰では通称ティップー・ティプのようなアラブ系の血を引くスワヒリ豪商が丁子等のプランテーションを目的とした私的な奴隷取引を展開し、アフリカ本土内陸部まで勢力圏を広げた。
 一方、ロシアに拉致される以前のガンニバルが捕捉されていたオスマン帝国は1890年、ロシアを含む欧米列強にザンジバルも加えた17か国が集まったブリュッセル会議でアフリカ黒人奴隷貿易の禁止協定に調印したにもかかわらず、非公式の奴隷調達慣習は手放せず、帝国が終焉する20世紀前半まで温存されていたのである。

2017年2月 6日 (月)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第5回)

四 世宗・李祹(1397年‐1450年)

 前回太宗の項でも触れたように、世宗は先代太宗の三男であったが、世子だった兄が素行不良のため廃嫡されたことにより、入れ替わりで世子となり、太宗から生前譲位を受けて1418年、4代国王に即位した。
 世宗は上王として院政を敷いた父が死去した22年以降、親政を開始する。世宗の治績として最も著名なのは現代まで使用されているハングル文字の開発指導に代表される文教政策であるが、彼の治績はそれだけにとどまらず、多岐にわたっている。
 内政面では父が推進していた中央集権制の確立に努め、父の時代に作られた議政府(内閣)‐六曹(官庁)体制をいっそう集権化し、王が直接六曹に指揮命令できる直啓制を導入した(病弱化した晩年に撤回)。
 財政経済政策面では、銅銭・朝鮮通宝を発行して貨幣経済の普及を促進したが、銅銭1枚=米1升という高貨だったため、普及には至らなかった。また鉱業を統制し、明との朝貢貿易における貢納品である金・銀を朝鮮人参に改めるなど鉱山資源の管理に努めた。
 対外的には、太宗院政時代の対馬戦役の失敗を踏まえ、倭寇対策を対日友好関係の構築に求めた。その一環として在位中三度にわたる通信使を日本に派遣し、同時代の室町幕府と修好した。晩年には対馬領主の宗氏と通商協定を締結し、宗氏を被官に取り込むことで、日本側との仲介役とした。
 こうした平和外交の一方で、武力を用いた北方領土の拡張も積極的に行い、女真族支配地域への侵略戦争と占領地の入植・開拓による農地の拡大を推進した。
 こうした内政外交面の強化策を知的な面で支えたのが、積極的な文教政策であった。元来、世宗は王子時代から両親に心配されるほどの本の虫で、自身好学の君主であったことも文教政策への傾倒を促進したのであろう。
 ただ、このようなインテリ君主にありがちなこととして、世宗はイデオロギー統制にも熱心であった。すでに父の時代に始まっていた廃仏政策をいっそう強化し、寺院の閉鎖を強力に進めた。
 一方で、儒教・儒学を国教・国学として教化するべく、形骸化していた王立学問所・集賢殿を再編し、多くの儒学者を集めて多方面の研究活動に当たらせた。かのハングルを開発したのも、集賢殿の学者たちであった。
 世宗時代以降、朱子学が体制教義として確立される点では徳川幕藩時代の日本とも類似するが、徳川体制では正統朱子学が林羅山を祖とする林家が奉ずる林派に統一されたのに対し、朝鮮ではある種の思想的自由が保持され、林家に相当する世襲の御用儒家が存在しなかったため、朱子学の流派とも絡み、宮中を揺るがす党争がしばしば発生するようになった。ただ、世宗在位中はさしあたり大きな党争は発生せず、世宗時代は平穏無事であった。
 その30年余りの治世で李朝体制は強固に確立された。そのため、世宗はその業績をたたえて「大王」を冠されることが多いが、実のところ、その政策の多くは父太宗時代の継承発展であり、世宗を後継指名した決断を含め、太宗の存在なくして世宗は「大王」たり得なかったであろう。


§3 宗貞盛(1385年‐1452年)

 宗貞盛は対馬領主宗氏の支配の基礎を固めた先代貞茂の子として、家督を継いだ。奇しくも朝鮮の英君世宗即位の同年であり、在職期間も世宗とほぼ重なっていた。
 彼がまず直面したのが継承翌年の応永の外寇であった。この時、襲来した朝鮮軍は軍船227隻、兵員17285人と記録される大部隊で、倭寇取締りのベテラン李従茂将軍に率いられていた。これに対し、明らかに劣勢の対馬武士団であったが、貞盛は奮戦するとともに、台風の接近を匂わせて撤収させる情報戦も駆使して撃退した。
 朝鮮側も宗氏を討つ意図はなく、結局、再征論も沙汰止みとなった。貞盛は朝鮮側と戦後交渉に当たり、朝鮮側の要請に答えて倭寇対策を講じつつ、日本と朝鮮との通交に際して宗氏発行の渡航許可証を要する文引制を導入させ、朝鮮との通交権の独占を図った。
 これにより、宗氏は狭小な農地ではなく、対朝鮮通交権を知行として家臣団に分配することで領国支配を強化することができたのであった。総仕上げとして、1443年(嘉吉三年)に正式な通商協定を締結し(嘉吉条約)、朝鮮との通交関係を定めた。
 この条約により対馬‐朝鮮間の通交は宗氏の独占が認められるとともに、宗氏は朝鮮国王の被官という立場も保障され、室町幕府と朝鮮王朝への二重統属体制の基礎が築かれた。ただし、この条約では対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とされたため、宗氏の朝鮮通交は制限されたが、その後も偽使を含めた種々の手段で朝鮮への通交を活発に行なった。
 とはいえ、この時点では宗氏の朝鮮貿易独占はまだ確立されておらず、博多商人というライバルを擁したほか、百済王子の末裔を称し、独自に朝鮮との通交を行っていた周防の守護大名大内氏と対立するなど、なお不安定であった。
 そうした中にあっても、貞盛は相当なタフ・ネゴシエーターとして世宗の朝鮮王朝と渡り合い、後世対朝鮮申次役としての宗氏の土台を固めた人物と言える。

2017年2月 2日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第27回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

オイラト王朝とチベット仏教
 元朝撤退後のモンゴルにあって、最も熱心なチベット仏教徒となったのはモンゴル族の亜族とも言えるオイラト族だった。かれらはモンゴル西部を本拠地とし、元はテュルク系とも言われるが、チンギス・ハーンに服属して以来、チンギス家の姻族として定着し、実質上はモンゴル族と変わらなくなった。
 オイラト族は15世紀以降、いくつかの部族に分かれてモンゴル本族に対抗する大連合を組むようになったが、モンゴルのハーンはチンギス末裔に限るという継承原理に阻まれ、15世紀に初めてオイラト族から出たエセン・ハーンも一代限りで滅ぼされた。
 そうした中、17世紀にはオイラト族ホシュート部が有力化し、部族長トゥルバイフ(グーシ・ハーン)が帰依していたゲルク派のダライ・ラマを擁してチベットを征服、グーシ・ハーン王朝を立てたことは以前にも触れたところである。このオイラト系チベット王朝は5代80年ほど存続した。
 一方、グーシ・ハーンはチベット遠征に同行させていたオイラト族ジュンガル部族長ホトゴチンに娘を嫁がせたうえ、バートル・ホンタイジの称号を与えてオイラト本拠地の統治を委ねた。ここに、ジュンガル部が治める強力なオイラト系遊牧国家ジュンガル帝国が発足した。
 ジュンガル帝国ではバートル・ホンタイジの没後、内乱に陥り、1672年にはバートルの子センゲが異母兄らに殺害されたが、弟のガルダンが決起し、敵を討伐して新たなジュンガル部族長に就任した。これが母方からグーシ・ハーンの孫に当たるガルダン・ハーンである。
 ちなみに、グーシ・ハーンにせよ、ガルダン・ハーンにせよ、本来チンギス末裔のみが名乗れるハーン称号をいずれもダライ・ラマ5世から授与されており、オイラト族とチベット仏教ゲルク派との結合の強さが窺える。
 ガルダン・ハーンは少年時代、さる高僧の転生と認定されたことから、チベットに留学し、ダライ・ラマ5世の下で学んだが、その後帰国・還俗したのであった。こうした緊密な師弟関係から、後にガルダン・ハーンが対立したホシュート部を討伐すると、ダライ・ラマ5世はガルダンに「持教受命王」の称号を授与した。
 これ以降、オイラト族ではジュンガル部が盟主格となり、ガルダン・ハーンは周辺勢力の征服を精力的に進め、中央アジア全域に及ぶ大帝国を一代にして築き上げた。しかし、その権勢は長く続かなかった。清と結ぶモンゴル族ハルハ部に介入して清朝とも対立したことがあだとなり、1696年、清軍に攻め込まれて敗北、敗走・潜伏中に病死してしまう。
 ガルダンの死後は兄センゲの子孫が部族長を継いでいき、1717年にはグーシ・ハーン王朝を一時征服するが、間もなく衰退し、最終的に1755年、清によって滅ぼされ、清の支配下に入った。以後、モンゴル系遊牧帝国は二度と再生することはなかったが、モンゴルとチベット仏教の結びつきは恒久的なものとなったのである。

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