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2017年1月15日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第26回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

モンゴル帝国と仏教
 モンゴル人の原宗教はアニミズムだったが、強大化し、中国大陸を支配するうえで、中国的宗教を利用する実益を認識したようである。そこで、初めは先行のモンゴル系大国・金の治下で隆盛化した道教を実質的な国教としたが、結果として華北を中心に栄えていた仏教との宗教対立をもたらした。
 そこで、モンケ・ハーンの治世以降たびたび道教・仏教間での問答会が開催された結果、道教は敗れ、仏教に軍配が上がった。当初は中国で盛んな禅宗が保護を受けたが、この流れを変えたのは、前章でも触れたように、チベット仏教サキャ派高僧パクパ(パスパ:モンゴル読み)がクビライ・ハーンにより帝師の称号と権限を付与されたことを契機とする。
 元来、パクパは1240年に時のオゴデイ・ハーンが王子コデンを派遣して行なったチベット征服戦を食い止めるため、おじの座主サキャ・パンディタに随行してモンゴル帝国との交渉に赴いた人物である。その時、まだハーンに即位する前のクビライの知己を得てその側近となり、そのままモンゴルにとどまったのであった。
 帝師となったパクパにはおじを継承するチベットにおける政治宗教的権威とともに、モンゴル帝国全体の仏教統制権も付与された。同時に、クビライを古代インドの理想王たる転輪聖王に擬してその個人崇拝的な支配の強化にも寄与した。
 これにより、チベット仏教はモンゴル帝国・元朝全体の実質的な国教の地位を占めた。とはいえ、モンゴル帝国の宗教政策は開放的であり、敗退した道教も弾圧は受けず、儒教も保護されたし、イスラーム教・キリスト教も流入を阻止されることはなかった。
 しかしモンゴル皇室はチベット仏教に染まり、歴代皇帝や皇族が傾倒し、信仰に濫費するなどの失策により財政難をきたすようになり、元朝衰微の一因となったとされる。
 実際のところ、14世紀に入ると、モンゴルのチベット仏教はパクパを祀る帝師殿の建立やパクパの塑像の製作などの偶像崇拝的なものへ変質していた。やがて14世紀末に元朝が中国大陸を撤退し、本拠地モンゴル高原で北元として縮小されると、隆盛を誇ったチベット仏教も一時衰退していったと見られる。
 モンゴルで再びチベット仏教が再生されたのは、16世紀、時のモンゴル最高実力者アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派高僧であったスーナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を贈った時以降である。
 アルタン・ハーンはモンゴル再興の立役者であったダヤン・ハーンの孫に当たり、自身は正式のハーンではなかったが、祖父の死後、再分裂していたモンゴル勢力を束ねた。彼がチベット仏教に帰依したことで、モンゴル有力者の間で再びチベット仏教信仰が浸透したとされる。
 ちなみにダライ・ラマ3世のスーナム・ギャツォを継いだダライ・ラマ4世ユンテン・ギャツォはアルタン・ハーンの曾孫に当たり、歴代ダライ・ラマ中で唯一のモンゴル人として、ゲルク派とモンゴルの結びつきを強化したが、チベット仏教政治の混乱に巻き込まれ、若くして不審死を遂げている。

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