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2017年1月

2017年1月29日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第8回)

九 尚寧王(1564年‐1620年)

 先代尚永王は嫡男がないまま没したため、後継には甥(妹の子)の尚寧が就くこととなった。尚寧は第二尚氏王朝3代尚真王の長男尚維衡を祖とする大名小禄御殿の4世に当たる王族である。ここで王統が切り替わることになるが、特に動乱は記録されておらず、尚寧への継承は王朝総意であったと見られる。
 即位した尚寧が最初に直面したのは、日本との外交問題であった。1591年、時の天下人豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、糧食の提供を求める協力要請が薩摩の島津氏を通じてあったが、秀吉が最終的に狙う明の冊封国でもあった琉球王朝内では中国系渡来人を祖とする重臣謝名利山(親方)の強硬な反対もあり、協力は秘密裏の最小限とするほかなかった。
 実は九州征伐後の秀吉は琉球に服属をたびたび迫っていたが、秀吉存命中は実現しなかった。しかし徳川幕府が樹立されると、状況が変化する。仙台に漂着した琉球船の送還に家康が便宜を図ったことを理由に、薩摩藩を通じて謝恩使の派遣を求められるようになったのだ。
 1609年には初代薩摩藩主・島津家久が幕府への服属を要求してきたのに対し、かの謝名親方が反対し、使者を侮辱したとされる。これに激怒した島津藩は幕府の許可の下、琉球に侵攻、琉球はあっさり降伏した。島津藩の軍勢は3000人ほどであったが、太平が続き軍備を重視していなかった琉球側はこれに対抗し切れなかった。
 尚寧王は一時捕虜となり、江戸に連行され、時の将軍徳川秀忠と謁見させられた。最終的には琉球帰還を許されたものの、以後の琉球は奄美大島を割譲させられたうえ、薩摩藩の附庸国という地位に置かれ、「掟十五条」なる一方的な不平等条約に基づき、薩摩藩の在番奉行を通じて支配されることになった。
 同時に、琉球は国王の代替りごとに謝恩使を、徳川将軍の代替りごとに慶賀使を江戸上りで派遣する義務を負わされ、薩摩藩を介して幕府の陪臣的な関係にも置かれたのである。
 尚寧王の在位は約30年に及んだが、彼の治世は薩摩藩の琉球征服という屈辱的な史実とともに記憶されることとなってしまった。非主流派から即位した尚寧王は権力基盤が不十分なため、謝名親方のような親明・対日強硬派の重臣を抑え切れず、結果として軍事的征服という事態を招いてしまったように見える。


二´ 島津家久(1576年‐1638年)

 島津家久(旧名・忠恒)は島津氏全体では18代目だが、徳川幕藩体制下の薩摩藩主としては初代に当たる。先代で父の義弘は「個人的な判断」により関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後の島津氏は改易の危機にあったところ、事実上の当主として講和交渉役を務めていた先々代で家久の伯父義久の反対を押し切って家久自ら上洛して家康に謝罪・服属し、本領安堵を得た。
 こうしたエピソードからも、家久は直情的な人物で、激しい気性の持ち主でもあったようである。とはいえ、義久も藩内では大御所として権勢を保っていたため、1611年に義久が没するまでは家久の権力には制約があったと考えられる。
 琉球征服も義久存命中の出来事であり、義久は琉球との関係を重視し、出兵に反対していたとされるが、ここでも家久が反対を押し切って強行した。このように、琉球出兵は島津家中でも統一された方針ではなかったようである。
 そもそも日本側では「琉球征伐」(琉球側では「己酉の乱」)と呼ばれる琉球侵攻の要因については、確固たる定説がない。論点は幕府と薩摩藩のいずれが主導したかであるが、家久が出兵を決めたのが幕府自ら琉球に水軍を派兵するとの情報を得た後であることや、最終的に琉球は幕府直轄地でなく、薩摩藩附庸国として幕末まで確定したことなどからも、薩摩藩の主導性が強かったと言える。
 土壌的に稲作に適さないため農民が少なく、中世的な半農半士体制が持続していた独特の構造を持つ薩摩藩は、台風・火山噴火などの災害の頻発とも合わせ、恒常的な財政難にあったことから、琉球の貿易利権を自ら管理統制し、密輸を含めた貿易で藩財政を補う狙いがあったと見られる。
 薩摩藩が琉球に介入しようとする動きはすでに16世紀後半の戦国時代から起きていたが、一介の南端辺境領主から徳川幕府を後ろ盾とする近世大名の地位を確保した島津氏としては、幕府の権威を借りつつ満を持して琉球を手中にしたということだったのかもしれない。それには、家久の武断主義的な傾向も寄与しただろう。

2017年1月25日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第12回)

第二部 現況~未来

(1)オセアニアの地政情勢
 第一部でも述べたように、現在オセアニアの地理的区分として教科書的・事典的に引き継がれているポリネシア・メラネシア・ミクロネシアの三分類は、19世紀にフランスの海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルが提唱した古典的な分類である。
 しかし、この分類ではオセアニアの海洋島嶼部しかカバーされず、大陸的なオーストラリアは埒外となるし、メラネシアのように住民の肌色にのみ着目した分類も学問的とは言い難いものであった。
 現在のオセアニアの地政情勢を考慮に入れて、再分類し直すならば、独立国・準独立国・残留海外領土の三つ(環礁を付加すれば四つ)に分類する方が妥当であろう。このような三区分に従って、個々に見ていくと次のようになる。

○独立国
最大国オーストラリアを筆頭に、パプアニューギニア、フィジー、キリバス、ニュージーランド、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツ、サモア(以上、すべて英連邦加盟)

○準独立国
クック諸島、ニウエ(以上、ニュージーランドとの自由連合)、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ(以上、アメリカとの自由連合)

○残留海外領土
米領サモア、グアム、北マリアナ諸島、ハワイ(以上、アメリカ領土)、ニューカレドニア、仏領ポリネシア、ウォリス‐フツナ(以上、フランス領土)、ピトケアン諸島(イギリス領土)、ココス諸島、クリスマス島、ノーフォーク島(以上、オーストラリア領土)、トケラウ諸島(ニュージーランド領土)、イースター島(チリ領土)、パプア及び西パプア(インドネシア領土)

△環礁
ウェーク環礁、ジョンストン環礁、ミッドウェー環礁(以上、いずれもアメリカ領土)

 こうしてみると、独立国は現在、儀礼的・名目的な連合体ながら英連邦にそろって加盟し親英路線を採っている。準独立国はニュージーランドまたはアメリカとの自由連合の形で両国の傘下にある。
 残留海外領土では米・仏領土が大半を占め、中でもアメリカが環礁を含め圧倒的であるが、オセアニア盟主格のオーストラリアとそれに次ぐニュージーランドも部分的に域内海外領土を保持するほか、東からインドネシアが、西からはチリもせり出している形である。

2017年1月22日 (日)

弥助とガンニバル(連載第9回)

八 ガンニバルの子孫Ⅱ

 ガンニバルの後裔として最も著名なのは、ロシア近代文学者アレクサンドル・プーシキンである。おそらく、彼の存在のおかげでガンニバルの名も後世に記憶されたと言えるかもしれない。プーシキンはガンニバルの息子オシップの娘ナジェージダの息子であり、従って母方からガンニバルの曾孫に当たる。
 プーシキンの父方プーシキン家もロシア人貴族であり、プーシキンは両親ともに貴族という名門家系に生まれている。文学者プーシキンの業績はここでの主題から外れるので論及しないが、曽祖父との関わりでは、最晩年にガンニバルをモデルとする人物を主人公とする歴史小説『ピョートル大帝の黒人』(未完)を著した。
 この小説は主人公をエチオピア人とする設定になっているが、これはガンニバルの女婿によるガンニバルの評伝の説を下敷きにしており、その根拠は疑われている。おそらく数奇な経歴の家祖をアフリカでも長い歴史を持つ古王国であるエチオピアに結びつけたいという親族の念慮が働いたのだろう。
 プーシキンは政治的には改革派に与し、当時の専制的な帝政ロシアには批判的な立場を採ったために当局からは迫害・監視の対象とされるなど、波乱の多い人生を送ったが、こうした批判的知識人としての生き方には、彼のアフリカ・ルーツのアウトサイダー的な自覚が投影されていたかもしれない。
 プーシキンは決闘による負傷がもとで38歳にして早世したが、四人の子を残した。このうち、末娘ナターリアは当初ロシアの軍人に嫁いだが、ドイツのナッサウ公国公子ニコラウス・ヴィルヘルム・フォン・ナッサウと不倫関係となった末に貴賎結婚するというこれまた波乱の生涯を送った。この結婚の結果として、二人の子孫はメーレンベルク伯爵の称号を与えられた。
 現在ドイツの貴族称号は形式的なものに過ぎないが、ガンニバルの血統はナターリアを通じてメーレンベルク伯一族に続いている。またフォン・ナッサウとナターリア夫妻の長女でロシア皇族と貴賎結婚したゾフィーの二人の娘の子孫は英国貴族である。
 中でもゾフィーの次女ナジェージダはヴィクトリア女王の曾孫に当たる英国貴族ジョージ・マウントバッテン(第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵)と結婚したため、英王室の縁戚でもあるミルフォード・ヘイヴン侯爵家にもガンニバルの血統が流れている。
 このようにして、ガンニバルの血脈はプーシキンを経由しつつ、女系で欧州貴族家系に継続されているのである。アフリカ黒人奴隷としては、これほどの“栄進”は歴史上なかったであろう。奴隷制がアフリカとヨーロッパを数奇に結合させたのであった。

2017年1月18日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第4回)

三 定宗・李芳果(1357年‐1419年)/太宗・李芳遠(1367年‐1422年)

 太祖・李成桂の晩年を悩ませたのは、後継者問題であった。王子は8人いたが、本来なら後継者となるはずだった第一夫人神懿王后との間の長男芳雨が隠遁、早世したことから、太祖は寵愛する第二夫人神徳王后との間の八男(末男)芳碩を王后の推挙により後継指名した。
 言わば末子相続の形を選択したわけだが、この決定の裏には当時宰相格として宮中で絶大な権勢を持った鄭道伝の策があったと見られる。しかし芳碩はまだ年少であり、しかも、建国に当たっては神懿王后との間の五男芳遠の功績が特に大きかったため、彼の不満が爆発した。
 芳遠は98年、同母兄弟らを動員してクーデターを起こし、鄭道伝のほか、芳碩とその同母兄も殺害するという挙に出た。この事件を機に成桂は退位し、芳遠の同母兄で二男の芳果が2代国王(定宗)に即位する。しかし、定宗は名目的な王にすぎず、政治の実権は芳遠が掌握した。
 おそらくは時機を見て自らが即位する野望を抱いていた芳遠は、自身の権力固めのため、各王子が配下に持つことを許されていた私兵制度の廃止を推進した。これに不満と警戒を抱いた四男芳幹が1400年に武装反乱を起こすが、芳遠はこれを鎮圧した。
 最大のライバルだった芳幹を退けた芳遠は、定宗からの譲位を受けて、3代国王(太宗)として即位する。しかし、02年には故・神徳王后の親類趙思義が復讐を大義名分に東北地方で反乱を起こし、すでに引退していた父の太祖もこれを当初は支持したとされる。
 この反乱を鎮圧し、太祖とも和解を果たして、ようやく太宗の政権は安定し始める。その後も彼は王朝基盤の強化のため、しばしば功臣や外戚にも非情な粛清を行なったが、単なる暴君ではなく、行政制度や法令の整備なども進める有能な統治者でもあった。対外関係では明朝から冊封を受け、大陸関係を安定化させた。
 そして一応内政外交の基礎が固まったのを見届けると、18年に三男の李祹(忠寧大君)に譲位し、上王となる。太宗には李褆(譲寧大君)という長男がいたが、彼は不行跡のため後継者から外されたのであった。この判断の正しさは、譲寧大君が後に李朝最高の英主世宗となったことで証明された。
 太宗は太祖とは異なり、譲位後も22年の死去まで実権を保持し続けた。失敗に終わったものの、再び活発化していた倭寇征伐のため、19年に対馬攻撃を実行したのも、上王太宗の指揮によるものであった。
 こうして王朝初期の不安定な時期を時に強権を発動して乗り切り、王朝を軌道に乗せた事績の点では室町幕府3代将軍足利義満を思わせるところもある太宗が、父の意向に反してでも力づくで自ら実質的な後継者となったことは、李朝の存続にとっては明らかにプラスだったようである。


§2 宗貞茂〈続〉

 貞茂時代の宗氏は形式上は主家少弐氏の下で筑前守護代の地位にあったが、対馬にあっては守護職として実質的な領主の地位にあった。朝鮮半島に最も近い辺境領主として朝鮮における王朝交代の情報は把握しており、貞茂は当主の座に就くと、早速李氏朝鮮王朝との通交を開始している。
 それは1399年(応永六年)のこととされるから、朝鮮側では太祖が生前譲位した翌年、2代定宗の時代である。つまり、宗氏は太祖存命中の李氏王朝発足最初期から朝鮮との通交を開始していたことになる。
 宗氏がこれほどに朝鮮王朝との通交を重視したのは、元来山がちで耕作地が少なく、農業生産力に限界のある対馬にあって、貿易を主要財源とする必要に迫られていたからと考えられている。その点、同じく農産に限界があり、アイヌ交易を財政基盤とした北方の松前氏と類似する政略であった。そのためにも、九州本土での戦役動員が多い筑前守護代職は弟に譲り、自身は対馬経営に専心した。
 ちなみに、近代の大正時代になって、朝鮮が対馬を攻撃してきた1419年の応永の外寇における撃退の功績により貞茂が従四位を追贈されたのは史実誤認であり、彼は外寇前年の1418年(応永二十五年)にはすでに没しており、実際に撃退を指揮したのは嫡男の貞盛であったとされる。

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第3回)

二 太祖・李成桂(1335年‐1408年)

 李朝創始者となる太祖・李成桂の生涯は大きく四期に分けることができる。第一期は、父の子春が死去した後、後を継いで北方軍閥となり、さしあたり高麗の武将として活動する時期である。実は、彼にとってはこの時期が最も長く、30年近くに及ぶ。
 この時期は高麗王朝末期であり、様々な国難に襲われていた。最初に成桂が直面したのは、元の反撃である。前回述べたように、元の高麗支配の拠点・双城総管府は子春の協力もあって壊滅していたが、まだ勢力を保っていた元は双城奪還を目指して大軍をもって反攻してきた。成桂はこれを迎撃・撃滅して、その武勇を天下に知らしめた。
 元の大規模な侵攻はもう一度起こるが、成桂はまたしてもこれを退け、最終的に高麗を元から完全に自立させることに成功した。さらに、隙を突いて北辺を占領していた女真族を駆逐して、占領地を解放した。
 以上は1360年代の事績であるが、70年代以降になると、今度は倭寇による寇略が課題となった。倭寇は国の組織された軍隊ではなく、私的な武装集団であるだけにかえって厄介な敵であったが、成桂は倭寇撃退作戦でも手腕を発揮し、幾度も勝利を収め、武将としての名声をいっそう高めた。
 80年代になると、中国大陸で元に取って代わり新たな王朝を樹立した明との関係がこじれた。明の一方的な旧元領土の割譲要求に対し、心情的に親元派だった時の高麗王・王禑は遼東地域の占領という無謀な作戦計画を立て、成桂に実行させようとした。
 これに対し、実戦経験豊富な成桂は軍事的合理性の見地から反対するも、却下され、やむなく出撃する。しかし遠征軍は梅雨による増水のため、鴨緑江の中洲にある威化島で立ち往生、窮地に陥ったことから、成桂は撤退を要請するが、またも却下されたことから、無断で撤退を決めた。これが有名な1388年の「威化島回軍」である。
 ところが、この無断撤退を反逆とみなした王禑は成桂の粛清を企てたことから、成桂は先制的に軍事クーデターを敢行し、宮廷の実権を掌握する。その後、成桂は自身に従順な恭譲王を傀儡の王に立て、事実上の最高執権者にのし上がった。この時から、自ら王位に就く92年までが彼の人生第二期である。
 実のところ、為政者としての彼の事績のほとんどはこの時期に集中している。為政者としての成桂は、従来の高麗王朝では傍流に置かれていた地方地主層や新興儒臣層を支持基盤にしていたため、李成桂政権は当然にもかれらの天下であった。
 特に重要な改革は、両班制の再構築である。簡単に言えば、高麗王朝時代の支配官僚層を自らの支持層である地方地主層や新興儒臣層と入れ替えたのであった。その手段として、科田制を導入した。
 科田制とは高麗末期に広がっていた荘園的大土地所有を否定し、土地を国有化したうえ、官等に応じて官僚らに田地(科田)を支給し、一律に十分の一の田税の収奪を認めるもので、それは実のところ、高麗王朝初期の旧田柴科制への回帰という反動政策であった。これは明らかに先の新興エリート層の利益に適う保守的「改革」であり、彼らの階級的勝利を意味していた。
 ただ、これにより従来は文班(文官)登用試験であった科挙制度が武班(武官)も含めた統一的な官吏登用試験として整理統合され、両班は科挙試験の受験資格を持つ家柄を指すことになった。
 これは一見すると、試験を通じた「能力主義」社会の到来に見え、事実、受験資格は農民以上の「良民」全般に開かれていながら、実際上は財力を持つ家系の子弟しか受験できず、両班身分の固定化が進行する。
 このように成桂の「改革」は、革新的というより保守的なものであったが、出発点においては、成桂を含め、従来の高麗王朝では傍流の階層が新たな支配層に上った点では、日本の戦国時代の下克上社会に似ていなくはない。
 しかし、成桂は武将のままではおらず、92年、周囲に推される形で自ら王位に就き、新王朝を樹立した。この点では、世襲制の幕府という特異な形で皇室と並存した日本の武家政権とは本質的に異なっている。
 実際、高麗王朝時代にも一時、軍閥が世襲的に政権を握る武臣政権時代があったが、長続きせず、成桂もこれを踏襲しようとはしなかった。朝鮮では中国的な一元的王朝政治の伝統が強く、日本のように公武二元政治の仕組みが根付くことはなかったのである。
 新王朝樹立後、将来の禍根を絶つため、旧高麗王族に対しては苛烈な粛清が加えられ、94年には成桂自身の傀儡として擁立され、王位を禅譲もした恭譲王を含む存命中の王族が皆殺しにされた。
 しかし、即位時すでに当時としては老齢の60歳近くに達していた太祖は王位に執着がなく、在位わずか6年にして生前譲位し、隠居してしまうのである。王位に就いてからは、旧高麗王族粛清と最初の基本法典「経済六典」の発布以外にこれといった事績も見当たらず、頂点を極めたこの第三期の人生は生前譲位という策も含め、王朝の基礎固めに終始したと言えよう。
 このような老齢での天下取り、旧体制根絶そして早期引退という軌跡はどこか徳川家康にも似ている。決して恣意的な独裁者ではないが、権力固めのためには冷酷な決断も辞さないという性格の点でも両者には共通性があり、ともに歴史的な長期安定支配体制を築いた始祖としての秘訣であるのかもしれない。
 太祖は譲位後もなお10年以上存命したが、この人生第四期は息子たちの間での熾烈な後継者争いが展開され、それに付随する反乱も発生した動乱の時期であった。これは、太祖の意に反して直面した国難であるため、稿を改めて見ることにする。


§2 宗貞茂(生年不詳‐1418年)

 李氏朝鮮王朝の太祖李成桂に相当する宗氏側人物は、おおむね同時代の宗貞茂であっただろう。貞茂は半ば伝承的な家祖重尚から数えて8代当主に当たるとされているが、一族では傍流にあり、先代から家督を奪取した簒奪者とみなされている。
 彼の当主簒奪は1398年(応永5年)のこととされる。李朝太祖はこの年、生前譲位し、2代目定宗が立っているので、太祖とは入れ替わりの形になっている。宗氏系図上では、貞茂は先代の刑部少輔経国(頼茂)の孫とされ、伯父盛真も右馬頭の官職を持っていたことからすると、伯父との家督継承争いに勝利したということも考えられる。
 いずれにせよ、貞茂は家内クーデターにより当主の座に就いたという限りで、同様にクーデターで王朝創始者となった李朝太祖と共通項を持っている。以後も家督継承争いはしばしば発生するも、基本的に宗氏当主は貞茂の後裔に継承されていく。

2017年1月15日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第26回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

モンゴル帝国と仏教
 モンゴル人の原宗教はアニミズムだったが、強大化し、中国大陸を支配するうえで、中国的宗教を利用する実益を認識したようである。そこで、初めは先行のモンゴル系大国・金の治下で隆盛化した道教を実質的な国教としたが、結果として華北を中心に栄えていた仏教との宗教対立をもたらした。
 そこで、モンケ・ハーンの治世以降たびたび道教・仏教間での問答会が開催された結果、道教は敗れ、仏教に軍配が上がった。当初は中国で盛んな禅宗が保護を受けたが、この流れを変えたのは、前章でも触れたように、チベット仏教サキャ派高僧パクパ(パスパ:モンゴル読み)がクビライ・ハーンにより帝師の称号と権限を付与されたことを契機とする。
 元来、パクパは1240年に時のオゴデイ・ハーンが王子コデンを派遣して行なったチベット征服戦を食い止めるため、おじの座主サキャ・パンディタに随行してモンゴル帝国との交渉に赴いた人物である。その時、まだハーンに即位する前のクビライの知己を得てその側近となり、そのままモンゴルにとどまったのであった。
 帝師となったパクパにはおじを継承するチベットにおける政治宗教的権威とともに、モンゴル帝国全体の仏教統制権も付与された。同時に、クビライを古代インドの理想王たる転輪聖王に擬してその個人崇拝的な支配の強化にも寄与した。
 これにより、チベット仏教はモンゴル帝国・元朝全体の実質的な国教の地位を占めた。とはいえ、モンゴル帝国の宗教政策は開放的であり、敗退した道教も弾圧は受けず、儒教も保護されたし、イスラーム教・キリスト教も流入を阻止されることはなかった。
 しかしモンゴル皇室はチベット仏教に染まり、歴代皇帝や皇族が傾倒し、信仰に濫費するなどの失策により財政難をきたすようになり、元朝衰微の一因となったとされる。
 実際のところ、14世紀に入ると、モンゴルのチベット仏教はパクパを祀る帝師殿の建立やパクパの塑像の製作などの偶像崇拝的なものへ変質していた。やがて14世紀末に元朝が中国大陸を撤退し、本拠地モンゴル高原で北元として縮小されると、隆盛を誇ったチベット仏教も一時衰退していったと見られる。
 モンゴルで再びチベット仏教が再生されたのは、16世紀、時のモンゴル最高実力者アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派高僧であったスーナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を贈った時以降である。
 アルタン・ハーンはモンゴル再興の立役者であったダヤン・ハーンの孫に当たり、自身は正式のハーンではなかったが、祖父の死後、再分裂していたモンゴル勢力を束ねた。彼がチベット仏教に帰依したことで、モンゴル有力者の間で再びチベット仏教信仰が浸透したとされる。
 ちなみにダライ・ラマ3世のスーナム・ギャツォを継いだダライ・ラマ4世ユンテン・ギャツォはアルタン・ハーンの曾孫に当たり、歴代ダライ・ラマ中で唯一のモンゴル人として、ゲルク派とモンゴルの結びつきを強化したが、チベット仏教政治の混乱に巻き込まれ、若くして不審死を遂げている。

2017年1月11日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第11回)

第一部 誕生~歴史

(10)継起する独立運動
 
分割されたアフリカ大陸に遅れて1970年代から80年代にかけて独立の潮流が生じたオセアニアであったが、潮流に乗れなかったいくつかの島嶼地域でも独立運動は継起した。とりわけ、フランス領である仏領ポリネシアとニューカレドニアである。
 仏領ポリネシアの中心島であるタヒチの独立運動は第二次世界大戦直後、ポウヴァナア・オオパによって開始された。彼はデンマーク人の父とポリネシア人の母を持つ混血であったが、ナショナリストとしてタヒチ人民民主大会議を設立してフランスの植民地支配に抵抗した。
 しかし、58年にフランス主導で行なわれた独立是非を問う住民投票で敗れた後、仏当局によって起訴、投獄され、独立運動も解散に追い込まれた。こうしてタヒチ独立運度は力で抑え込まれ、60年代以降、仏領ポリネシアはフランスの核実験場として利用されることになる。
 しかし90年代前半、タヒチ民衆の怒りは反核実験運動の形で噴出し、95年には大規模な抗議デモが一部暴動化する事態となった。結果、フランスの核実験は96年を最後に事実上中止されている。
 後発ながらより激しい独立運動が巻き起こったのは、ニューカレドニアであった。ここでは、60年代にメラネシア系少数先住民族カナクによる社会主義的な独立運動政党が結成されていたが、80年代になると、ジャン‐マリー・チバウを中心に、より急進的なカナク社会主義民族解放戦線が結成され、独立国家の樹立宣言に至ったため、非常事態宣言が布告される騒乱状態となった。
 結果、87年に住民投票が行なわれ、翌年には自治権拡大で合意したが、これに反対する過激派による人質立てこもり事件が発生、フランスは軍特殊部隊を投入して武断解決した。翌89年には合意に賛成したチバウも強硬派の手で暗殺された。それからおよそ10年を経た98年にニューカレドニア自治の拡大が合意され、独自の旗や市民権、さらに大幅な内政自治権が付与されるに至った。
 他方、前回も言及したように、インドネシアの支配下に置かれたニューギニア島西部の西パプアでは、60年代に結成された自由パプア運動が71年に西パプア共和国の樹立を一方的に宣言したが、国際的には承認されず、インドネシア軍による掃討作戦とインドネシアからの大量植民政策が展開された。
 運動は80年代以降、テロ活動に転じた。そうした中、2000年に住民大会が再びパプアの独立を宣言するも、インドネシア当局は対抗的に西パプアを東西二つの州に分割し、住民の分断を図った。
 なお、アメリカの州として定着したかに見えるハワイでも、90年代以降、先住ハワイアンによる民族回復運動が隆起したが、すでに少数派に転じて久しい先住民主体の独立は事実上困難で、ここでは先住民に自治的な政策決定権を付与する09年の先住ハワイアン政府再編成法に結実した。

2017年1月 9日 (月)

私家版琉球国王列伝(連載第7回)

八 尚元王(1528年‐1572年)/尚永王(1559年‐1589年)

 通算78年に及んだ尚真・尚清父子王の治世が1555年の尚清王の死をもって終焉すると、大勢いた王子たちの間での王位継承抗争が起きるも、翌年、先代から後継指名を受けていた次男の尚元が王位に就くことで終息した。
 尚元王時代には、九州薩摩の戦国大名として実力をつけていた島津氏との外交関係が密になった。しかし、薩摩外交使節の接遇をめぐって摩擦も起こした。その意味で、この時代は次の世紀に起こる薩摩藩による侵攻・占領の予兆を感じさせる時代であったと言える。
 軍事的には倭寇撃退や奄美大島親征の事績が記録されるが、これが身体にたたったか、尚元王は奄美戦役の翌年に病没した。後を継いだのは、庶子の長男を飛び越え、まだ15歳ほどの嫡次男尚永だった。
 尚永王の時代、明からの冊封使が琉球国の忠義ぶりを「守礼之邦」と称賛したのを記念して首里城の大手門に「守礼之邦」の額が掲げられたことから、守礼門と通称されるようになったという。
 しかし、尚永王はこうした儀典以外にさしたる事績も残さないまま、30歳で死去してしまう。しかも子は女子のみで、世子がなかったため、後継者は王の異母弟尚久が順当であったが、彼が固辞したことから、尚真王長男を祖とする王族小禄御殿4世の尚寧が就くこととなった。


一´ 島津氏の台頭

 17世紀以降、琉球国の宗主となる薩摩島津氏は源氏流を称したが、本来は平安貴族惟宗氏を出自とし、元は藤原氏筆頭近衛家の所領であった九州の島津荘荘官に任じられ、九州に下向したことに始まるという。その点では、対馬領主として台頭していく宗氏とも同祖関係にある氏族である。
 鎌倉幕府樹立後、源氏により地頭に取り立てられ、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大級の荘園であった島津荘を継承する強大な守護職に就いた島津氏だが、1209年の比企能員の変に連座して薩摩一国の守護へと縮減され、薩摩領主としての地位が確立する。
 島津氏の所領薩摩は本州最南端の辺境地であったためか、以後の島津氏は浮沈を繰り返しながらも薩摩の地にとどまり続ける一種の辺境領主として定着した点では、対馬の宗氏や北方の辺境領主であった松前氏とも類似するところがある。
 戦国時代の島津氏は周辺国人勢力の蠕動や一族内紛などにより弱体化を見せるが、この状況を転換し、島津氏を戦国大名として確立したのが島津忠良・貴久父子であった。父子は島津氏分家伊作〔いざく〕家の出自であり、本来は傍流であったが、宗家との武力闘争に打ち勝ち、島津氏統一に成功したのだった。
 忠良・貴久父子の時代の島津氏は鹿児島の城下町の整備に加え、琉球を通じた対明貿易を盛んにして財力もつけ、九州統一へ向けた基礎を固めたが、貴久の息子義久は悲願の九州統一目前にして、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、豊臣氏の軍門に下ったのであった。

2017年1月 5日 (木)

弥助とガンニバル(連載第8回)

七 ガンニバルの子孫Ⅰ

 黒人将軍ガンニバルは、信長の弥助とは異なり、ロシア帝国軍人・貴族としてロシアに定着したため、ロシアに子孫を残すこととなった。しかし、最初の結婚は不幸な失敗に終わっている。その相手はギリシャ人女性であったが、経緯は不明ながら、妻にとっては強いられた結婚だったため、妻は夫を嫌い、夫婦仲は不調であった。
 ガンニバルは肌の色の白い娘を生んだ妻の不貞を疑い―遺伝上は子の肌が白い可能性もあり得たが、18世紀の知識の範疇ではなかったろう―、妻を10年以上も監獄に閉じ込めるという過酷な挙に出た。この時期、彼はすでに一個の権勢家だったのだ。
 ガンニバルは、最初の妻と法的な婚姻が続いている間に、今度は北欧とドイツにルーツを持つ貴族女性と同居し始めた。これは重婚に当たるため、ガンニバルは処罰され、離婚後も再婚は非合法なままであったが、この事実婚はうまくいったようで、二人の間には長男イワンを筆頭に10人もの子が生まれた。
 イワンの肖像画を見ると、父と同様明らかに黒人系の風貌をしており、父も今度は満足だっただろう。彼は父と同様、職業軍人となり、海軍士官として栄進する。特に露土戦争では黒海艦隊を率いてトルコ要塞の占領で軍功を上げた。その後もいくつかの海戦で戦果を上げ、1777年には時のエカチェリーナ2世により、海軍トップである海軍総監に任命された。
 翌年には現ウクライナ領に属するヘルソンの要塞司令官となり、エカチェリーナ女帝の事実上の夫でもあったグリゴリー・ポチョムキン公爵の指揮の下、ヘルソンの都市建設にも関与した。その功績で、イワンは女帝から叙勲された。ヘルソンは後に、重要な軍港都市として発展する。
 しかし、イワンは84年、上司に当たるポチョムキンと衝突して引退に追い込まれた。引退後は3年前に没した父の領地で余生を送り、1801年に死去している。最終階級は、父と同じ大将だった。
 こうしてイワン・ガンニバルは軍人として父にもひけをとらない成功を収めたが、父とは異なり生涯独身を通し、子孫を残さなかった。その理由は不明だが―弟のオシップは子孫を残している―、比較的人種差別が少ないと言われるロシアにあっても、18世紀当時は肌の色による通婚障壁がなかったとは言い切れないだろう。

2017年1月 2日 (月)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第2回)

一 桓祖・李子春(1315年‐1360年)

 李朝の王家となった李氏の出自民族については韓族とみなすのが通説だが、遠祖を漢族とする史料もあるほか、異説として女真族説も提出されている。
 女真族説は李氏の本拠は朝鮮半島でも最北部であり、14世紀初頭頃の同地域には女真族が多数居住していたことから提起される。しかし、女真族は韓族からは蛮族視されており、明らかに女真の出自で韓族を束ねる王家に就く可能性は乏しく、女真族説には無理があるだろう。仮に女真系としても、相当に韓族に同化していたものと考えられる。
 役職的には、李一族は元朝の千戸長・ダルガチの地位を世襲して、女真族の統制を担当してきた軍閥であることから、在地の女真系有力者と通婚し混血していた可能性はあるかもしれない。
 正史上は、元来全州を本拠とする全州李氏の一派が北部へ移住し、現地で元朝から認められて千戸長・ダルガチに任命されたことになっている。ただ、千戸長やダルガチは元朝に忠実なモンゴル族を充てることが通例であったため、このような韓族功臣説にも難点がないわけではない。
 いずれにせよ、北方軍閥として台頭してきた王朝創始者の太祖・李成桂自身には異民族風の性格は特に見られず、韓族からも異論なく政治的実力者として認められているところからすれば、出自はともあれ、実質上は韓族と変わりなかったと考えられる。
 ただ、彼の王朝樹立への道程は一代限りのものではなく、第3代国王太宗が後に桓祖の廟号を追贈した成桂の父(太宗の祖父)李子春の活躍にも負う面があった。吾魯思不花(ウルス・ブカ)の蒙古名を持った子春の代ではまだ表向きは元に仕える身であったが、当時の高麗は元の間接支配下に置かれていたから、李一族は高麗の上位支配層側にいたことになる。
 しかし、時の恭愍王は元朝の衰退を見て、元からの自立政策を主導した。当時元が高麗支配の拠点としていたのが今日の北朝鮮咸鏡南道に属する地域に設置した出先機関の双城総管府だったため、元を撃退するには戦略上ここを叩く必要があった。
 そこで、王は当時北方の半独立的軍閥として実力をつけていた李子春に役職を与えて取り込み、双城総管府攻撃に協力させた。作戦は成功し、1356年、総管府は陥落する。その軍功から、子春は従二品・東北面兵馬使という地方軍区司令官に任命された。
 その後、子春はさらに栄進するも、中央政官界には進出できないまま、1360年に死去した。その後を継いだのが1335年生まれの次男成桂であった。


§1 宗氏の台頭

 中近世の日本側で朝鮮との窓口役を担った宗氏は本姓惟宗氏といい、平安時代には大宰府の在庁官人にすぎなかった。宗氏は大名化してからは、平氏流を称するようになるが、本来の惟宗氏は渡来系豪族秦氏―『日本書紀』によれば、朝鮮古代王国百済の出自―を祖とする平安貴族である。
 宗氏の家伝では、鎌倉時代の13世紀前半、幕府の許可を得ずに国交のない朝鮮の高麗と交易をしていた当時の対馬の支配者阿比留〔あびる〕氏を大宰府が咎めたのに対し、阿比留氏がこれを無視したことが反乱とみなされ、討伐のため対馬に送り込まれた宗重尚が阿比留氏を討って対馬国主となったとされてきた。
 今日でも対馬に子孫が多く分布する阿比留氏とは、関東の上総畔蒜〔あひる〕郡を出自とすると言われる氏族で、9世紀初頭に対馬に入り、在庁官人となり、11世紀には刀伊(女真族)の入寇に際して活躍するなどし、事実上の島主として豪族化していた。
 阿比留氏が鎌倉時代に勢力を失ったことはたしかだが、宗重尚の実在性や阿比留氏討伐譚は史実としては疑われており、確実に実在が証明できる宗氏の最も古い当主は第一回元寇(文永の役)で高齢を押して参戦・戦死した宗助国(1207年?‐1274年)である。
 助国の後の宗氏系図には生没年不詳者が多く、不明点が少なくないが、宗氏が当時北九州の有力御家人・地頭・守護であった少弐氏の配下で武家として実力をつけ、少弐氏の衰退とともに、次第に対馬守護として取って代わっていったこと自体は間違いない。
 しかし李朝樹立以前の宗氏はまだ対馬領主としての支配権を確立しておらず、朝鮮との交易も九州の諸大名、北九州や対馬の有力商人らがばらばらに行なっている状況であった。そうした中、14世紀末の李朝の樹立は独自の通交を始めた宗氏にとっても大きな転機となったのである。

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第1回)

 李朝(朝鮮王朝)は、14世紀末から20世紀初頭に至るまで、日本では室町・江戸時代から明治時代末に至る極めて長い時期に並立した隣国王朝である。同時代にこれほど長きにわたって存続した王朝といえば、西アジアのオスマン朝くらいしか見当たらないほど異例の長期王朝体制であった。
 その間、宮廷では国家教義であった儒学(朱子学)の流派と絡む党争とそれとも連動した王位継承抗争が頻発し、政情不安が常態化していたが、それにもかかわらず王朝自体は滅亡することなく、500年以上も持続したのであった。
 日本では室町・戦国の軍閥封建制から江戸の準集権的な幕藩体制を経由して近代的中央集権制に変貌していく中、李朝では近代化に向けておずおずと舵を切り始めた終末期を除けば、体制枠内での制度変更などはあっても、両班制を基盤とした封建的官僚制という基本枠組みは一貫して不変であった。大日本帝国が朝鮮支配を強めていく過程で「朝鮮社会停滞論」を名分としたことにも一定の理由があった。
 とはいえ、これほど長きにわたって体制が持続したのは、それだけ李朝には揺るぎない基盤が築かれていたことを意味する。それがいったい何であったのかを探ることは、逆に同時代の日本の歴史の特色を対照的に浮き彫りにすることにもなるだろう。
 他方で、李朝時代は帝国主義化した近代日本による植民地支配を経由して現代の南北朝鮮に接続する時代でもあるので、とかく相互理解に困難を生じがちな現代南北朝鮮と日本を対照理解するうえで、李朝時代の再考は決して無益ではないはずである。
 本連載は、日本に隣接しつつ、日本とは相当に異なる歴史を演出した李朝の歴史を通覧する試みである。その際、歴代国王の紀伝というあえて古典的な手法による。これは、すでに日本の江戸時代及び室町時代に関して試みているのと同様である。ここでは、それら先行連載とも対照させながら、比較史的な叙述を試みてみたいと思う。
 なお、本連載では、王位に就いていないため正史上は国王に数えられないが、太祖・李成桂の父で、桓祖の廟号を追贈され、王朝始祖の位置にある李子春と王朝晩期に国王高宗の若年期、摂政として最高実力者となった王父の興宣大院君・李昰応の二人も独立して取り上げることとする。

 ところで、李朝との関わりで無視できないのは、朝鮮との「国境」の島・対馬の島主として長く続いた封建領主宗氏の存在である。在庁官人として鎌倉時代に対馬に入った宗氏はやがて朝鮮王朝の被官となり、朝鮮との貿易特権を与えられ、中世を通じて対馬の島主としての支配権を確立した。
 こうした朝鮮半島との窓口としての宗氏の役割は近世にも引き継がれ、徳川幕藩体制下では対馬府中藩を安堵され、鎖国体制下でも外交関係を持った数少ない国である朝鮮との外交通商窓口として幕末まで機能し続けた。また不幸な結果に終わったものの、明治維新後の宗氏は大日本帝国による朝鮮併合という新状況下で日本皇族に準じた地位を与えられた旧王室李氏と一時的に姻族関係を持つことにもなった。
 当連載の初版では李朝歴代国王にだけ焦点を当てて記述していたが、新版では朝鮮王朝と日本の幕府体制の双方に統属して朝鮮半島との窓口機能を担った独異な封建領主である宗氏歴代の列伝を付加する。ただし、歴代すべてを扱うのではなく、時の李朝国王と同時代に対応する宗氏当主を列記する形を原則とする。

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