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2016年12月24日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第25回)

八 チベット神権政治

ダライ・ラマとシャブドゥン
 チベットでは、モンゴル系オイラート族グーシ・ハーンが樹立した王朝(グーシ・ハーン朝)の下、ゲルク派最高指導者ダライ・ラマの地位が確立され、ダライ・ラマを事実上の君主として戴くガンデンポタンがチベットの新たな神権統治機関となる。
 ところで、ダライ・ラマとはゲルク派において観音菩薩の生まれ変わりたる化身僧とされ、世襲によらず、民間から該当する児童を発見・養成する転生継承という制度を採る。このような制度はカギュ派が創始したが、対立宗派であるゲルク派でも踏襲されたものである。
 ダライ・ラマの称号は元来、元朝崩壊後の16世紀にモンゴル勢力最高実力者となったアルタン・ハーンがチベット仏教に帰依するに際してゲルク派転生僧スーナム・ギャツォに贈った称号に由来する。スーナム・ギャツォは自らをダライ・ラマ3世とみなし、初代及び先代転生僧に1世と2世を追贈したことで、継承称号として確立した。
 グーシ・ハーン朝が成立した時のダライ・ラマは5世であった。彼は学僧として優れていたのみならず、統治者としても手腕を持ち、グーシ・ハーンの没後、王朝が弱体化する中、聖俗両面でのチベット支配を固めていった。
 しかし、5世の遺言により10年以上その死が秘匿された後に即位した次の6世が自堕落な人物として廃位されると、後継者をめぐりグーシ・ハーン朝内部で権力闘争が生じたことを契機に、王朝は急速に衰退し、1717年にはオイラト本国に当たるジュンガル帝国により攻められて実質上滅亡、最終的には中国大陸の支配者となっていた満州族系の清朝によって征服され、終焉した。
 時の清朝雍正帝はチベット分割という植民地支配的な政策を導入し、ダライ・ラマのガンデンポタンは西南部に限局された。ただし、清朝はダライ・ラマ5世の時代からチベットと交流があり、5世が時の順治帝に与えた「文殊皇帝」の称号が歴代継承されていた。
 こうしたチベット仏教尊重政策はチベット分割後も基本的に継承され、清朝皇帝は新たに支配下に入ったチベット民族に対しては「文殊皇帝」として君臨し、ガンデンポタン地域ではダライ・ラマの権威を承認する態度を採ったのである。
 一方、チベット南部の延長域ブータンの事情は相当に異なる。ここではカギュ派のガワン・ナムゲルを戴く政権が成立したことは前回見たが、ガワン・ナムゲルもゲルク派ダライ・ラマと同様に転生僧であり、初代シャブドゥンを称した。
 これ以降、ブータンではシャブドゥン制度が定着するのではあるが、1651年のガワン・ナムゲルの没後、次期シャブドゥンの選定を巡る争いを防ぐべく、ブータン有力者らは半世紀以上も初代の死を伏せたうえ、死亡事実公表後はシャブドゥンを身体・精神・言説の三者に分割するという策を敷いた。
 このうち、身体シャブドゥンは早くに絶え、精神と言説の二大シャブドゥンの系譜だけが残された。しかし、これはシャブドゥンの権威の低下につながり、ブータンではダライ・ラマのガンデンポタンに相当するような統一的神権体制は成立せず、20世紀初頭に今日まで続く世俗的なワンチュク朝が成立するまで、豪族の割拠状態が続いた。

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