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2016年12月

2016年12月31日 (土)

資本主義反動

 今年最大の政治的出来事はドナルド・トランプの米大統領当選だったが、経済的にみても同じ答えになるだろう。その意味で、彼の登場は政治経済的現象だった。
 トランプの当選は、新たな保護主義の波の到来を意味する。彼は現代のマンチェスター学派の産物たる大陸間自由貿易協定への一貫した反対者として立ち現れたからである。
 同時に見逃してはならない転換は、トランプが反エコロジズムの旗手になろうとしていることである。トランプ次期政権はパリ協定からの離脱を検討している。現時点では離脱を明言していないものの、温暖化懐疑論者の集まりである政権が事実上離脱したに等しい政策転換を見せることは間違いないだろう。
 予測不能という「予測」もある中、反環境的国内資本優先政策という反動的なトランプ経済政策の骨格が見えてくる。これは中国をはじめ、主要経済大国を同様の方向へ転換させる契機となるかもしれない。
 保護貿易抗争と地球環境の損傷が同時進行するのは、半世紀以上前への反動的後退である。来年が資本主義反動元年となるのか、注視していきたい。

2016年12月28日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第10回)

第一部 誕生~歴史

(9)独立の潮流
 
オセアニアは小さな島嶼地域が多いことから、先行して独立していた白人主導のオーストラリアとニュージーランドを別とすれば、第二次世界大戦後における旧植民地の独立潮流にも乗り遅れがちであったが、1970年から80年代にかけて、ようやく独立の潮流が生じてきた。
 もっとも、第一次大戦後ニュージーランド領領となっていた西サモアは、流血事態も含む長年の独立運動の末、1962年、オセアニアの島嶼国家として初の独立を果たした。60年代、これに続いたのは英国から独立したナウルであった。
 この二か国の独立が契機となり、70年代以降、80年のバヌアツまで独立の潮流が隆起したのである。ちなみに、英国の保護国とされながらも実質的な独立王国としての状態を唯一保持してきたトンガも、70年に完全な独立を回復している。
 しかし、他方で新たな植民地主義にさらされたのがニューギニアである。先述したように、英蘭分断統治を経験した同島では、英国からオーストラリアに譲渡された東部が75年にパプアニューギニアとして独立したが、旧蘭領の西部は自治権付与に動くオランダに対し、オランダから独立したインドネシアが領有権を主張し、係争化していた。
 61年にはオランダが独立を認めたことに対抗してインドネシアが西パプアに軍を侵攻させ、占領した。これに対し、冷戦時代のインドネシアを地政学上「反共の砦」として重視した米国が「調停」という形で事実上インドネシアの西パプア権益を黙認した。
 そうした中、インドネシアは69年、国軍管理下で住民投票を操作して西パプアを西イリアン州(現パプア州及び西パプア州)として併合し、今日まで未解決のパプア紛争が継続している。この紛争は、インドネシアのような列強植民地主義を脱した第三世界の新興独立国が植民地主義を模倣するかのような膨張主義的戦略を志向するという歴史の皮肉を示す事例と言える。
 そうした中、完全な独立よりも旧宗主国との自由連合という形態を採った緩やかな「独立」を選択する国も増加した。これは完全な独立を回避しつつ、内政自治や独自の外交権限も保持するという形で、半独立状態を確保しようとするもので、小島嶼国家が自立する上での困難を多々抱えていることに鑑みての現実的な妥協策と言えよう。
 その先駆けは、70年代にニュージーランドとの自由連合国となったクック諸島及びニウエであるが、いずれも国連に加盟することなく、住民はニュージーランド公民権も保持するため、真の意味での独立国とは言い難い。
 一方、80年代以降、米国との自由連合国となったのは、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、90年代のパラオである。この場合、防衛は米国が担い、外交権も一部米国が保持するが、独自に国連に加盟しており、独立国に準じて扱われている。

2016年12月24日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第25回)

八 チベット神権政治

ダライ・ラマとシャブドゥン
 チベットでは、モンゴル系オイラート族グーシ・ハーンが樹立した王朝(グーシ・ハーン朝)の下、ゲルク派最高指導者ダライ・ラマの地位が確立され、ダライ・ラマを事実上の君主として戴くガンデンポタンがチベットの新たな神権統治機関となる。
 ところで、ダライ・ラマとはゲルク派において観音菩薩の生まれ変わりたる化身僧とされ、世襲によらず、民間から該当する児童を発見・養成する転生継承という制度を採る。このような制度はカギュ派が創始したが、対立宗派であるゲルク派でも踏襲されたものである。
 ダライ・ラマの称号は元来、元朝崩壊後の16世紀にモンゴル勢力最高実力者となったアルタン・ハーンがチベット仏教に帰依するに際してゲルク派転生僧スーナム・ギャツォに贈った称号に由来する。スーナム・ギャツォは自らをダライ・ラマ3世とみなし、初代及び先代転生僧に1世と2世を追贈したことで、継承称号として確立した。
 グーシ・ハーン朝が成立した時のダライ・ラマは5世であった。彼は学僧として優れていたのみならず、統治者としても手腕を持ち、グーシ・ハーンの没後、王朝が弱体化する中、聖俗両面でのチベット支配を固めていった。
 しかし、5世の遺言により10年以上その死が秘匿された後に即位した次の6世が自堕落な人物として廃位されると、後継者をめぐりグーシ・ハーン朝内部で権力闘争が生じたことを契機に、王朝は急速に衰退し、1717年にはオイラト本国に当たるジュンガル帝国により攻められて実質上滅亡、最終的には中国大陸の支配者となっていた満州族系の清朝によって征服され、終焉した。
 時の清朝雍正帝はチベット分割という植民地支配的な政策を導入し、ダライ・ラマのガンデンポタンは西南部に限局された。ただし、清朝はダライ・ラマ5世の時代からチベットと交流があり、5世が時の順治帝に与えた「文殊皇帝」の称号が歴代継承されていた。
 こうしたチベット仏教尊重政策はチベット分割後も基本的に継承され、清朝皇帝は新たに支配下に入ったチベット民族に対しては「文殊皇帝」として君臨し、ガンデンポタン地域ではダライ・ラマの権威を承認する態度を採ったのである。
 一方、チベット南部の延長域ブータンの事情は相当に異なる。ここではカギュ派のガワン・ナムゲルを戴く政権が成立したことは前回見たが、ガワン・ナムゲルもゲルク派ダライ・ラマと同様に転生僧であり、初代シャブドゥンを称した。
 これ以降、ブータンではシャブドゥン制度が定着するのではあるが、1651年のガワン・ナムゲルの没後、次期シャブドゥンの選定を巡る争いを防ぐべく、ブータン有力者らは半世紀以上も初代の死を伏せたうえ、死亡事実公表後はシャブドゥンを身体・精神・言説の三者に分割するという策を敷いた。
 このうち、身体シャブドゥンは早くに絶え、精神と言説の二大シャブドゥンの系譜だけが残された。しかし、これはシャブドゥンの権威の低下につながり、ブータンではダライ・ラマのガンデンポタンに相当するような統一的神権体制は成立せず、20世紀初頭に今日まで続く世俗的なワンチュク朝が成立するまで、豪族の割拠状態が続いた。

2016年12月20日 (火)

私家版琉球国王列伝(連載第6回)

七 尚真王(1465年‐1527年)/尚清王(1497年‐1555年)

 前回の末尾で見たとおり、尚真王は生母宇喜也嘉の差配により、叔父を退けて12歳ほどで3代国王に就いた経緯から、治世初期には宇喜也嘉が実権を持ったと見られる。
 しかし、彼は若くして即位したうえ、比較的長生したため、在位50年に及び、この間に第二尚氏王朝の政治経済的な基礎が固められた。もっとも、宇喜也嘉も1505年の死去まで祭祀を通じて何らかの影響力を保持し続けた可能性があり、その意味では、宇喜也嘉存命中の時期は事実上尚真‐宇喜也嘉共治体制だったとも言える。
 そうした母に支えられ、尚真王は軍事面を担い、1500年には朝貢を懈怠した石垣島の豪族オヤケアカハチを討ち、琉球王府の支配がまだ手薄だったと見られる八重山諸島への支配を強化した。
 その翌年には、父尚円王の陵墓として玉陵を築造した。その際に刻まれた碑文によると、玉陵は宇喜也嘉や妹の初代聞得大君月清を含めた尚真王一族子孫の墓とされたため、玉陵は以後、尚氏王朝の墓域として定着した。
 こうした王統の保証に加え、政治面ではいまだ割拠していた地方按司の武器没収と首里集住義務付けにより、豪族の権勢を削ぎ、位階制度を備えた中央集権体制を整備した。また明との朝貢貿易を年次化し、宗主国明との関係強化を進めた。
 尚真王には七人の息子が確認されるが、このうち本来の世子である長男尚維衡は生母が事実上失権した2代国王尚宣威の娘だったためか、廃嫡とされ、浦添朝満として分家し、累代にわたり多数の重臣を輩出する大名小禄御殿の家祖となった。
 ちなみに、三男と四男も分家して御殿(ウドゥン)と呼ばれる大名家の家祖となっており、尚真王は以後の琉球王朝全体の血統的な起点となっている。その意味では、彼こそは第二尚氏王朝の実質的な開祖とも言える。
 さて、1526年の尚真王死去を受け、翌年4代国王に即位したのは、五男の尚清であった。尚清王は父王には及ばないものの、28年にわたり在位し、この間、首里城の防備強化や倭寇対策など軍事面で功績を上げている。
 こうして、尚真・尚清父子王の治世通算78年の間に琉球王朝の基盤が確固たるものとなり、以後、19世紀後半の大日本帝国による琉球併合まで存続していくこととなった。

2016年12月17日 (土)

弥助とガンニバル(連載第7回)

六 ピョートル1世とガンニバル

 ポルトガルが斜陽化していった17世紀には、北方でも変化が起きていた。ロシアにロマノフ朝が成立したのである。当初は中世的な性格を脱し切れなかったこの王朝を北方の新帝国に押し上げたのが、大帝を冠せられるピョートル1世である。彼の終生の課題はロシアの西洋化であった。
 そうした西洋化政策の付随的な結果として現れたのが、後にオスマントルコ黒人奴隷からロシア軍人となるアブラム・ガンニバルである。ガンニバルもまた奴隷の常として本名は不詳であり、ガンニバルは古代カルタゴの英雄ハンニバルにちなんだものである。
 ガンニバルの出身地については諸説あり、従来の通説ではエチオピアとされてきたが、近年はこれを否定し、より西のチャドないしカメルーンとする説も有力化している。当時、オスマン帝国の奴隷調達地が内陸アフリカにまで広がっていたことを考慮すると、彼はエチオピアのコプト派教会経由でオスマン帝国に売られた黒人奴隷だった可能性は高いだろう。
 ガンニバルの匿名の評伝によれば、彼は貴族家庭の子女を人質として差し出す当時の慣習に従ってオスマン宮廷に連行されたという。いずれにせよ、彼は7歳の頃にオスマン帝国のコンスタンティノープルに連行された。そのままであれば、宮廷で黒人宦官として栄進する道もあっただろう。
 ところが、どのような経緯か、ガンニバルは間もなく、ロシア外交官の手で拉致され、北のロシアへ再連行されるのである。この拉致はピョートル1世の命令に基づくものだったという。彼の意図は明確でないが、当時西洋宮廷でも黒人児童を珍重することが流行していたといい、西洋化を推進していたピョートルも模倣したのかもしれない。
 ピョートルは聡明なガンニバルが気に入り、洗礼を受けさせ、自ら名付け親となるほどの寵愛ぶりであった。この点、やはり黒人奴隷の弥助が気に入り、武士として登用した織田信長に似て、珍奇なものに並々ならぬ関心を示す革新的なピョートルの性格が現れている。
 成長したガンニバルは当時西洋における学術の中心地であったパリへの留学を命じられ、5年間にわたり多方面の高等教育を受けた。その間、当時のフランス啓蒙思想家らと交流し、中でもヴォルテールはガンニバルを「濃い肌の啓蒙の星」と称えたとされるが、これには異論もあるようである。
 いずれにせよ、ガンニバルが才覚を発揮したのは人文学よりも軍事科学であり、当時のフランス軍でも従軍経験を得た彼は職業軍人・工兵士官の道を歩むことになった。彼は1722年にパリ留学を終え、帰国したが、不運にもパトロンのピョートルは25年に死去してしまう。このような経緯も主君信長を失った弥助に似ている。
 27年、ピョートルの幼い孫ピョートル2世が即位すると、敵視されたガンニバルはこうした場合の慣例としてシベリア送りの憂き目を見るが、3年後に赦される。幸いにも41年にはピョートルの娘エリザベータが女帝に即位したことから、ガンニバルは女帝の宮廷で軍事顧問として重用された。
 彼は少将に昇格するとともに、レバル(今日のエストニアのタリン)総督にも任命され、52年まで務めた。そのうえ、プスコフに農奴付きの土地を安堵され、地主貴族にも叙せられたのだった。奴隷身分から貴族身分への階級上昇であった。
 最終的に大将まで昇進した彼はエリザベータ女帝が没した62年に公職を退き、エカチェリーナ2世女帝時代まで生きて85歳の長寿を全うした。彼のような存在は長い帝政ロシアの歴史の中でも唯一無二であり、ピョートル1世という「玉座の革命家」の存在なくしては、おそらくあり得なかったであろう。

2016年12月12日 (月)

オセアニア―世界の縮図(連載第9回)

第一部 誕生~歴史

(8)近代戦場から核実験場へ
 
近代オセアニアは、英国保護国とされながらも実質的な独立を維持したトンガ王国と、南米チリ領へと売却されていったイースター島を除けば、欧米列強―後には日本―の領土として分割された。それは、アフリカ分割と等しいものであった。
 ただし、英国植民地のうち、ヨーロッパ白人が主体となって形成されたオーストラリア及びニュージーランドについては、それぞれ1901年と1907年に内政自治権を持つ自治領として半独立した(完全な独立は、ともに1940年代まで持ち越される)。
 欧米によるオセアニア分割でも、アフリカ分割同様の不自然な分割線による伝統社会の分断現象を経験している。そのうち現代まで典型的な分断が生じている事例として、ニューギニアがある。
 ニューギニアでは東西が分断され、西はオランダ、東は英独分割統治を経て豪領に渡った。このうち西はオランダから独立したインドネシアにより強制的に併合されたが、東はパプアニューギニアとして独立したため、東西分断状況が固定化している。
 米独で分断統治されたサモアも、独領を継承したニュージーランド領から独立した西サモアと、なお米領にとどまる東サモアの分断も類似の例である。
 一方、バヌアツでは英仏共同統治という変則支配により、英語使用住民と仏語使用住民の言語分断が生じ、現代に至っても言語別政党の拮抗関係が続いている。
 アフリカ分割競争に乗り遅れ、南太平洋に侵出していたドイツが獲得した南洋諸島領土は、第一次世界大戦での敗戦後、委任統治領の形で日、豪、ニュージーランドの分割統治下に移行された。
 その結果、南洋諸島は太平洋戦争における日米戦争の主戦場となる。まさに「太平洋戦争」の名称由来である。ここでは住民を巻き込んだいくつもの有名な戦闘が展開されたが、中でも決死のゲリラ戦を展開した日本軍1万人余りが壊滅したパラオのペリリュー島の戦いは象徴的であった。
 太平洋戦争を含む第二次大戦は1945年に終結したが、オセアニアの「戦後」は先延ばしにされた。小さな島嶼地域の独立は容易でなかったうえ、間もなく始まった冷戦時代には核大国の核実験場とされたからである。
 とりわけアメリカはマーシャル諸島に太平洋核実験場を設定し、50年代にたびたび大気圏内核実験を実施、日本の第五福竜丸被曝事故を惹起した1954年のビキニ環礁での水爆実験(キャッスル作戦)は住民を意図的に被爆させた「核人体実験」の疑いすら持たれている。
 いずれにせよ、アメリカによる多数回に及ぶ核実験は、マーシャル諸島周辺域の放射能汚染と住民の強制移住・帰還不能を今日まで持続させている。
 イギリスも50年代を通じて、完全独立後のオーストラリア領内を借りての核実験をたびたび実施したほか、フランスは60年代から最終は96年に至るまで仏領ポリネシアで核実験を続けていたのである。

2016年12月10日 (土)

臨時御恵金の不合理

 税金でTV広告まで展開しての臨時給付金の支給が恒例化している。しかし、この制度の趣旨は不明確である。消費増税の代償という意義を想定しているらしいが、定期給付ならともかく、臨時にわずかな金額を一回的に給付しても、とうてい日々の消費増税分の補填になどならないことは明白である。
 わずかな金額の給付を受けるために申請書や所定証明書類をその都度郵送しなければならない手間に加え、給付実務を担う自治体の財政的・人的負担も軽くないことを考えると、合理的な制度とは言い難い。この制度は、結局のところ、経済合理性では説明のつかぬ納税者慰撫のための御恵金としか思えない。
 自治体ごとにばらつきはあるようだが、申請率も子育て世帯向けを除くと、おおむね低いようである。いっそ受給条件をより厳格に絞り込み、真に困窮している世帯にまとまった金額(例えば10万円)を支給するほうが臨時救貧対策としてまだ合理的なのではあるまいか。現行制度には経済的展望がない。

2016年12月 3日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第24回)

八 チベット神権政治

神権体制の創始
 チベットで確立される独特の神権体制の起源は、吐蕃王朝滅亡後、13世紀にモンゴルの侵攻を受けたことにあった。当時のチベットでは、分裂状況の中、有力氏族ごとの仏教系宗派集団が形成される傾向にあった。
 そうした中、中央チベットのツァンを本拠とするコン氏族系のサキャ派教団が有力化しており、同派4代座主サキャ・パンディタがモンゴルからチベット主要地域の政治的権限を付与されたことで、モンゴル帝国を後ろ盾とするサキャ派政権が成立した。
 続く5代座主のパクパはモンゴル皇帝クビライ・ハーンからチベットの政治的・宗教的権威とともに、初めてモンゴル帝国の最高宗教権威である帝師の称号を与えられた。これによって、モンゴルとチベットがチベット仏教を国教として共有する関係が形成された。
 この仏教を軸としたモンゴル‐チベット体制はモンゴル主導という点では属国関係であったが、宗教上はチベット側が守護者の立場に立つある種の神聖同盟であった。しかし14世紀以降、モンゴル帝国の衰退はチベットにも大きな余波を及ぼす。
 14世紀半ばには、密教的色彩の強いカギュ派分派のパクモドゥパ派が台頭、クーデターによりサキャ派政権を打倒して、中央チベットを掌握した。パクモドゥパ政権は元朝崩壊後、独立を回復するも、15世紀後半、座主家外戚のリンプン家が実権を掌握して、リンプン家体制が出現するが、これも長持ちせず、同家家宰ツェテン・ドルジェが政権を簒奪し、ツァントェ王を称して王国を樹立した。
 この歴代ツァントェ王による世襲のツァンパ政権はカギュ派分派カルマ派に依拠したが、神権体制というより、旧吐蕃王朝のような世俗王朝に近いものであったが、これも100年は持たなかった。17世紀前半、モンゴル高原西部を本拠とするモンゴル系オイラト族がグーシ・ハーンの下に台頭し、チベットに侵攻、ツァンパ政権を打倒したからである。
 この時代のチベットでは15世紀に学僧ツォンカパが開いた後発宗派ゲルク派が勢力を伸ばしており、グーシ・ハーンはゲルク派信者であったことから、彼は同派最高権威ダライ・ラマ5世を擁立し、新たな神権体制を立てたのである。
 一方、チベット南部の延長域とも言えるブータンでは、13世紀にチベットから伝わったカギュ派分派のドゥク派が普及していたところ、17世紀初頭、チベットのツァンパ政権が介入した内紛に敗れ、ドゥク派座主を追われたガワン・ナムゲルが現在のブータン地域に入り、亡命政権を立てた。
 これを認めないツァンパ政権、さらにその後のダライ・ラマ政権もガワン・ナムゲル政権をたびたび攻撃するが、ガワン・ナムゲルはこれらを撃退し、1651年に没するまで独自の神権体制の建設を進めた。

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