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2016年11月 5日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第7回)

第一部 誕生~歴史

(6)オセアニアの英国植民地
 
オセアニアに侵出した列強の中で最も広い範囲を支配したのは、海洋帝国の英国であった。その最大拠点は、オーストラリア大陸である。英国によるオーストラリア入植は、1788年1月26日という明確な日付を伴って国策的に開始された。
 その日、後に初代総督となる海軍提督アーサー・フィリップに率いられた1500人ほどの第一船団がシドニー湾に入港したのである。その半数は受刑者であり、北米植民地を独立戦争で失った直後の英国はオーストラリアを新たな流刑植民地として開拓するつもりであった。
 しかし間もなく、流刑植民地の枠を超えた全大陸規模での開拓が進められていく。その過程は独立後のアメリカに似ており、非人道的な先住民の殲滅作戦、それが一段落した後は強制同化政策を伴っていた。結果、先住民族アボリジニの人口は激減し、タスマニア島では19世紀後半の段階で先住民は絶滅した。
 これに対し、ニュージーランド植民地の成立過程は異なる。ここでは、すでに欧州の民間会社による商業的な入植活動が先行して行なわれていたからである。また狩猟採集生活様式を維持しつつ多数の部族に分岐し、凝集性を欠いたオーストラリア先住民とは対照的に、まとまりがよい先住民マオリが土地取引の交渉相手として存在していた。
 同じくニュージーランドを付け狙うフランスとの対抗上も領有化を急ぐ英国は1840年、マオリ首長らとの間でワイタンギ条約を締結し、英国植民地とした。しかし、条約に基づくマオリ保有地の買収が大々的に進められていくことに危機感を抱いたマオリによる抵抗戦争が二度にわたり勃発するが、いずれも軍事力で勝る英国側が勝利を収め、かえって懲罰的な土地の没収が強行されたのだった。
 一方、メラネシア地域では比較的大きなフィジー諸島がプランテーション経営地として着目された。フィジーにはトンガのような統一的な王権も、マオリのような強力な部族社会も成立しておらず、比較的簡単に植民地化が完了した。
 1874年に正式に英国植民地となったフィジーには、79年以降20世紀初頭まで、当時の労働慣例だったインド人労働者(苦力)が移入させられ、プランテーション経営が営まれた。このインド人労働者の子孫はフィジーに土着し、やがて先住民と人口を二分するまでになり、フィジー特有の民族間対立の要因を形成することとなった。
 以上の国策的に建設された英国植民地とは異なり、数奇な経緯から自生的に成立したのがポリネシアのピトケアン諸島である。これは、後にオーストラリア総督にも就任するウィリアム・ブライ率いる海軍輸送船バウンティ号の乗組員らが船長に対して起こしたバウンティ号反乱事件(1789年)の反乱者らが漂着・入植した島である。
 彼らは島で先住民女性と通婚し、その子孫が土着した。その後、島はジョシュア・ヒルなるアメリカ人冒険家に乗っ取られ、その専制支配下に置かれるが、1838年に島民の要請を受けた英海軍によって解放され、同年以降英国領とされたのである。

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