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2016年11月19日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第8回)

第一部 誕生~歴史

(7)オセアニア近代諸王国の明暗
 
前近代オセアニア社会の大部分は部族首長制を維持していたと見られるが、いくつかの島では首長制が君主制に展開し、ある程度内発的な近代化によって、近代的王国に発展した例がある。その最も早期かつ挫折例はタヒチであった。
 長く首長制が乱立していたタヒチでは1791年、一首長からのし上がったポマレがバウンティ号反乱事件を起こした反乱者たちの助力を得て、全島の武力統一に成功し、ポマレ朝を興した。
 ポマレ朝では初代ポマレ1世を継いだ息子ポマレ2世の時、キリスト教への改宗と西洋化が推進されるとともに、オーストラリアとの豚肉貿易などで経済的な発展も享受し、当時のオセアニアでは随一の豊かな王国となっていた。
 しかし、ポマレ2世の娘ポマレ4世女王の治世ではタヒチの権益をめぐる英仏の対立に巻き込まれ、混乱と衰退の時代となる。1842年に初めてフランスの保護国とされるが、これに反発した先住民勢力がポマレ4世を立てて、対仏戦争を起こした。しかし、これも46年には敗北、ポマレ4世は捕らえられてしまう。
 先住民の人気が高いポマレ4世の王位は保たれたものの、王権はなし崩しにフランスの傀儡化されていき、77年、在位50年にして女王が没した時には、独立国家としての主権はほぼ形骸化していた。当時、タヒチを給炭補給基地として確保する必要のあったフランスは80年、女王を継いだ息子ポマレ5世に対し、併合条約への署名を求めた。
 すでにフランスの傀儡と化していたポマレ5世に選択の余地はなく、タヒチ王国はここに消滅、フランス領ポリネシアに編入されたのである。結局、ポマレ朝は内発的な形で近代王国とはなり切れないまま、90年近い歴史を終えたことになる。

 次いで、タヒチより成功しながら、最終的に同様の経緯をたどったのはハワイである。ハワイでも長く島ごとの首長制が乱立していたところ、18世紀後半の西洋との初接触から間もない1795年、ハワイ島首長カメハメハが英国の支援を受けてハワイ諸島の武力統一に成功し、1810年までにハワイ王国を建国した。
 初代カメハメハ1世は、英米から軍事援助を受けて近代的軍備を伴った独立王国の確立に努め、彼の息子で3代国王となったカメハメハ3世時代の1840年には、近代憲法を制定し、立憲君主国となった。
 ここまでは順調だったハワイだが、実は、カメハメハ1世没後からアメリカ人によるプランテーションのための土地収奪が広がっていた。40年代には英仏が相次いで一方的にハワイ領有を宣言するなど、砂糖栽培の利権を付け狙う列強によるハワイ侵出が激化する。
 カメハメハ朝が断絶した後、1874年の選挙で国王に就いたカラカウアは増大するアメリカの勢力を抑え、明治維新直後の日本と移民条約を通じて連携しつつ、ハワイ中心のポリネシア連合の形成をもくろむが、かえってアメリカ人勢力によるクーデターに遭い、王権を制限される結果となった。
 カラカウア王を継いだ妹のリリウオカラニ女王は兄の遺志を受け継ぎ、王権を再強化する新憲法草案を提起するが、アメリカ人が支配する閣議により否決された。
 新憲法案を支持する先住ハワイ人勢力と共和制移行を主張するアメリカ人勢力の間の緊張が高まる中、アメリカ人勢力が海兵隊を動かしてクーデターに成功、94年にサンフォード・ドールを大統領とする共和国を樹立した。翌年にはリリウオカラニ女王も廃位され、ここにハワイ王国は滅亡した。
 アメリカ人勢力の最終的な狙いはハワイを本国アメリカに併合することにあったため、98年にはハワイ共和国とアメリカの間でハワイ併合条約が締結され、98年にハワイは準州としてアメリカに正式に併合されたのである。

 近代王国として最も成功を収めたと言えるのは、ハワイの後を追ったトンガであった。(3)でも見たとおり、トンガでは17世紀以来、俗権を握るトゥイ・カノクポル朝が優勢となったが、全島的王朝として確立されたのは、19世紀に出たタウファアハウ王の時である。
 彼は西洋列強の侵出という時流を巧みに利用した。手始めに、キリスト教プロテスタント(メソジスト派)に改宗し、洗礼名ジョージとし、ジョージ・トゥポウ1世を名乗った。しかし、まだ残存していた神権を握る伝統的なトゥイ・トンガ朝末裔のラウフィリトンガがカトリックに改宗したうえ、トゥポウ1世に挑戦したため、プロテスタント勢力の支援を受けたトゥポウ1世とカトリック勢力の支援を受けたラウフィリトンガの間で内戦となった。
 トゥポウ1世はこの難局を乗り切り、1875年には、英国人のメソジスト派牧師シャーリー・ベーカーを顧問(後に首相)に迎えて近代的憲法を制定し、立憲君主国として整備したのであった。この体制は今日までオセアニアで唯一、英国王を君主としない独自君主国トンガとして持続している。
 トゥポウ1世はフィジー併合を狙うなど、列強的手法を真似た帝国主義を志向したが、この野望は列強の妨害により挫折した。96歳まで長生したトゥポウ1世を継いだ曾孫ジョージ・トゥポウ2世は、1900年、英国との間で友好条約を締結し、トンガは英国の実質的な保護国となった。
 ジョージ・トゥポウ2世は結婚相手の選択をめぐる混乱から国を分裂させており、統治基盤を維持するため積極的に英国の庇護を求めたのであった。しかし、友好条約下では外交権の制限にとどまり、トンガはオセアニアで唯一主権を保持する国となった。

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