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2016年11月27日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第5回)

六 尚円王(1415年‐1476年)/尚宣威王(1430年‐1477年)

 第二尚氏を創始した尚円王は即位以前は金丸といい、伊是名島の農民の出とされる。しかし、若い頃、島を出て本島へ渡り、王子時代の尚泰久王の家臣となり、その即位にも貢献、以後は王府要職を経て、通商・外交を所管する御物城御鎖側官に昇進する。港市国家琉球にあって通商外交相は事実上の宰相格であった。
 農民から最終的に王に上り詰めた尚円王はさしずめ琉球の秀吉のような人物であったが、秀吉と異なり、持続的な王朝体制の樹立に成功した。その点で、第二尚氏王朝は世界史的にも多くはない農民出自王朝である。 
 もっとも、史書は一度引退していた金丸がクーデター勢力に請われて現役復帰・即位したように書かれているが、尚泰久王を継いだ尚徳王によって遠ざけられ、引退した経緯からしても、野心的で上昇志向の強い金丸がクーデターの糸を引いていた可能性は大いにある。即位後の尚円王は第一尚氏王家の王族を粛清し、根絶やしにしたことも、それを裏付ける。
 その一方で、彼が第一尚氏を継承して尚氏を称したのは、クーデターによる王位簒奪を正当化し、明朝から冊封を受けるための政治的な標榜であった。従って、第一尚氏と第二尚氏は実質上別個の王朝である。
 尚円王は1469年の即位時、当時としてはすでに50歳を越す「高齢」であり、治世7年ほどで没した。後を継いだのは世子ではなく、年の離れた弟・尚宣威王であった。理由として、世子・尚真が幼少のためとされている。ただ、尚宣威は尚円が伊是名島から連れ出し、養育した息子に近い存在であり、後継は尚円の遺志であった可能性もあろう。
 しかし、尚宣威王は尚真こそが王にふさわしいとの神託に基づいて半年で退位、その年のうちに死去している。この慌しい動きの背後には、尚円王妃宇喜也嘉〔おぎやか〕の策謀があったと考えられている。彼女は自身司祭でもあり、長男の尚真を3代国王に立てるとともに、長女は聞得大君〔きこえおおぎみ/チフィジン〕なる最高神官職に就けた。
 この聞得大君はこれ以降、琉球神道の司祭たる祝女(ノロ)の頂点に立つ第二尚氏王朝の守護神官として恒久的に制度化され、俗権を握る国王に対して、聖権を司る存在として確立される。聞得大君は政治的な発言権までは持たなかったとはいえ、このような琉球独自の女性参加型の聖俗二重王権は女性史的にも注目に値するだろう。
 こうして、初代没後の王位継承上の混乱を早期に収め、王国持続の礎を築いたのは王妃宇喜也嘉だったとも言える。そして、短命の王が続いた第一尚氏王朝と異なり、3代尚真王が半世紀にわたって王国の支配制度を整備していくことが、江戸幕府を超える400年以上にわたる王朝の持続を保証したのである。

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