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2016年11月 2日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第22回)

七 日本仏教と政治

仏教統制から廃仏毀釈へ
 鎌倉新仏教はその後、室町時代にも引き継がれ、特に臨済宗は幕府の保護を受け、中国の制にならった禅宗五山の制度も整備された。政教の距離はより縮まり、臨済宗僧侶の夢窓疎石やその門弟たちの中には、将軍や鎌倉公方の事実上の政治顧問格として政治に関与する者も現れた。
 他方で、民衆の間に定着した浄土真宗は本願寺教団(一向宗)にまとまり、各地で一揆を起こすまでになる。その中でも、守護大名の追放と自治体制確立にまで発展したのが1488年の加賀一向一揆である。この祭政一致的な封建自治体制は100年近く続いたため、単なる一揆を越えた一種の民衆革命であった。
 加賀の例は同時代の北陸・中部・近畿地方で多発した一向一揆の中でも異例のものであったが、この時期には一向宗と敵対する法華宗による法華一揆も起きるなど、戦国へ向かう中で、仏教宗団自身の戦国的武装勢力化も進んだ。
 戦国時代に一定の秩序をもたらした織田信長は、これら武装仏教勢力の打倒に冷酷な手法で注力した。かねてより強力な僧兵集団を抱えていた延暦寺の焼き討ちが著名であるが、10年近くにわたり反信長陣営と一向宗が組んで信長と対峙した包囲網を打ち破った石山合戦は信長の天下取りの大きなステップとなった。
 以後、仏教勢力の抑圧統制は天下取りの要諦となり、豊臣、徳川と時の天下人に継承されていく。最後の総仕上げは徳川幕府による寺院諸法度―寺社奉行による寺院統制の制度化である。一向宗の弱体化策としての本願寺の東西分裂策動、民衆統制の手段としての寺請制度の整備も徳川的仏教政策の一環であった。
 ただし、江戸幕府は仏教を完全に抑圧することはせず、寺院には寺領を安堵して封建領主的地位を保証しつつ、寺院諸法度で法的に統制し、檀家制度を通じて民衆管理の最前線の役割も持たせるというのが徳川的仏教政策の妙味である。
 ちなみに、徳川家は伝説的な家祖・松平親氏が浄土教系の時宗托鉢僧だったとされる縁からか浄土宗派であり、江戸開府後は浄土宗を保護している。一方で、初代家康は臨済宗僧侶以心崇伝を実質的な宰相格とし、聖俗様々な政策に関与させたほか、天台宗僧侶天海からも宗教政策や江戸の都市計画まで助言を受けるなど、徳川幕府の仏教政策は相当に実用主義的である。
 こうした実用主義的な仏教利用政策の結果、江戸時代を通じて日本仏教の通俗化が独特の神仏混淆を伴って進行したと見られる。そうした状況で明治維新を迎えると、表向き王政復古を呼号する明治政府は神仏分離令を発し、神道重視策を打ち出した。
 これが結果として廃仏毀釈の風潮を作り出し、仏教は冬の時代を迎える。神道は明確に国教とされることはなかったとはいえ、「神道は宗教にあらず」という国策理念がかえって神道の宗教を越えた特権化を暗示していた。日本仏教の冬の時代はおおむね、明治憲法体制が崩壊するまで続くと言ってよい。

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