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2016年11月

2016年11月27日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第5回)

六 尚円王(1415年‐1476年)/尚宣威王(1430年‐1477年)

 第二尚氏を創始した尚円王は即位以前は金丸といい、伊是名島の農民の出とされる。しかし、若い頃、島を出て本島へ渡り、王子時代の尚泰久王の家臣となり、その即位にも貢献、以後は王府要職を経て、通商・外交を所管する御物城御鎖側官に昇進する。港市国家琉球にあって通商外交相は事実上の宰相格であった。
 農民から最終的に王に上り詰めた尚円王はさしずめ琉球の秀吉のような人物であったが、秀吉と異なり、持続的な王朝体制の樹立に成功した。その点で、第二尚氏王朝は世界史的にも多くはない農民出自王朝である。 
 もっとも、史書は一度引退していた金丸がクーデター勢力に請われて現役復帰・即位したように書かれているが、尚泰久王を継いだ尚徳王によって遠ざけられ、引退した経緯からしても、野心的で上昇志向の強い金丸がクーデターの糸を引いていた可能性は大いにある。即位後の尚円王は第一尚氏王家の王族を粛清し、根絶やしにしたことも、それを裏付ける。
 その一方で、彼が第一尚氏を継承して尚氏を称したのは、クーデターによる王位簒奪を正当化し、明朝から冊封を受けるための政治的な標榜であった。従って、第一尚氏と第二尚氏は実質上別個の王朝である。
 尚円王は1469年の即位時、当時としてはすでに50歳を越す「高齢」であり、治世7年ほどで没した。後を継いだのは世子ではなく、年の離れた弟・尚宣威王であった。理由として、世子・尚真が幼少のためとされている。ただ、尚宣威は尚円が伊是名島から連れ出し、養育した息子に近い存在であり、後継は尚円の遺志であった可能性もあろう。
 しかし、尚宣威王は尚真こそが王にふさわしいとの神託に基づいて半年で退位、その年のうちに死去している。この慌しい動きの背後には、尚円王妃宇喜也嘉〔おぎやか〕の策謀があったと考えられている。彼女は自身司祭でもあり、長男の尚真を3代国王に立てるとともに、長女は聞得大君〔きこえおおぎみ/チフィジン〕なる最高神官職に就けた。
 この聞得大君はこれ以降、琉球神道の司祭たる祝女(ノロ)の頂点に立つ第二尚氏王朝の守護神官として恒久的に制度化され、俗権を握る国王に対して、聖権を司る存在として確立される。聞得大君は政治的な発言権までは持たなかったとはいえ、このような琉球独自の女性参加型の聖俗二重王権は女性史的にも注目に値するだろう。
 こうして、初代没後の王位継承上の混乱を早期に収め、王国持続の礎を築いたのは王妃宇喜也嘉だったとも言える。そして、短命の王が続いた第一尚氏王朝と異なり、3代尚真王が半世紀にわたって王国の支配制度を整備していくことが、江戸幕府を超える400年以上にわたる王朝の持続を保証したのである。

2016年11月23日 (水)

弥助とガンニバル(連載第6回)

五 オマーン海洋帝国の台頭

 弥助が日本から姿を消した後、彼の出自した東アフリカ情勢も転換期を迎える。16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたアラビア半島南端のオマーンが台頭してくる。そのきっかけは17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立したことにある。
 王朝創始者ナースィル・イブン・ムルシドは、ポルトガル勢力の放逐を掲げて分裂していた部族の統一を図り、強力な軍隊を組織して、各個撃破的な戦略でポルトガルが陣取る沿岸部の要塞を順次落としていった。一方で、彼は西欧の新興列強であった英国の東インド会社と手を組み、通商条約を締結することで、ポルトガル貿易圏への割り込みを図るという巧みな通商政策も展開した。
 彼は目標達成寸前にして没したが、後を継いだ従兄弟のスルターン・イブン・サイフが1650年に中心都市マスカットを占領し、オマーンからのポルトガル勢力一掃は完了した。その勢いで、インド洋を越えて東アフリカやインド西部のポルトガル勢力圏への進出も図る。
 特に16世紀初頭以来、ポルトガルが占領してきたザンジバル島の奪取を目指して40年近くもポルトガルと攻防戦を繰り広げた末、ついに17世紀末、これを攻略した。以後、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ側拠点として確立されていく。
 弥助の故郷と目されるモザンビークは引き続き、ポルトガル領として維持されるが、王室のヤアルビー家の名をとってヤアーリバ朝と呼ばれたオマーンは斜陽化していくポルトガルを尻目に東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継交易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄した。
  しかし18世紀に入ると跡目相続から内乱に陥ったところをイランに軍事介入され、マスカットもイラン軍の手に落ちた。そのイランを駆逐して新たな支配者となったのが、やはりイバード派のブーサイード家であった。
 ブーサイード朝は当初は不安定であったが、19世紀に入り、5代君主サイイド・サイード(サイード大王)が内乱期にオマーンの支配から事実上独立していた東アフリカ沿岸部の征服を進め、1840年にはザンジバルに遷都した。
 50年間在位したサイード大王時代のオマーンは海洋貿易帝国オマーンの全盛期であり、東アフリカ沿岸部の貿易権益を英国と二分するほどであった。彼が建設したザンジバルの旧市街地ストーンタウンは世界遺産にも登録されている。
 ただ、オマーン海洋帝国の貿易手法は黒人奴隷ザンジュに由来するザンジバルを拠点とする奴隷貿易、しかも帆船を使った大船団交易という中世以来の伝統に沿った旧式のものであり、西欧に発する奴隷制廃止、さらには蒸気船の普及という技術革新の波を乗り切れず、間もなく消えゆく運命にあったのである。

2016年11月19日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第8回)

第一部 誕生~歴史

(7)オセアニア近代諸王国の明暗
 
前近代オセアニア社会の大部分は部族首長制を維持していたと見られるが、いくつかの島では首長制が君主制に展開し、ある程度内発的な近代化によって、近代的王国に発展した例がある。その最も早期かつ挫折例はタヒチであった。
 長く首長制が乱立していたタヒチでは1791年、一首長からのし上がったポマレがバウンティ号反乱事件を起こした反乱者たちの助力を得て、全島の武力統一に成功し、ポマレ朝を興した。
 ポマレ朝では初代ポマレ1世を継いだ息子ポマレ2世の時、キリスト教への改宗と西洋化が推進されるとともに、オーストラリアとの豚肉貿易などで経済的な発展も享受し、当時のオセアニアでは随一の豊かな王国となっていた。
 しかし、ポマレ2世の娘ポマレ4世女王の治世ではタヒチの権益をめぐる英仏の対立に巻き込まれ、混乱と衰退の時代となる。1842年に初めてフランスの保護国とされるが、これに反発した先住民勢力がポマレ4世を立てて、対仏戦争を起こした。しかし、これも46年には敗北、ポマレ4世は捕らえられてしまう。
 先住民の人気が高いポマレ4世の王位は保たれたものの、王権はなし崩しにフランスの傀儡化されていき、77年、在位50年にして女王が没した時には、独立国家としての主権はほぼ形骸化していた。当時、タヒチを給炭補給基地として確保する必要のあったフランスは80年、女王を継いだ息子ポマレ5世に対し、併合条約への署名を求めた。
 すでにフランスの傀儡と化していたポマレ5世に選択の余地はなく、タヒチ王国はここに消滅、フランス領ポリネシアに編入されたのである。結局、ポマレ朝は内発的な形で近代王国とはなり切れないまま、90年近い歴史を終えたことになる。

 次いで、タヒチより成功しながら、最終的に同様の経緯をたどったのはハワイである。ハワイでも長く島ごとの首長制が乱立していたところ、18世紀後半の西洋との初接触から間もない1795年、ハワイ島首長カメハメハが英国の支援を受けてハワイ諸島の武力統一に成功し、1810年までにハワイ王国を建国した。
 初代カメハメハ1世は、英米から軍事援助を受けて近代的軍備を伴った独立王国の確立に努め、彼の息子で3代国王となったカメハメハ3世時代の1840年には、近代憲法を制定し、立憲君主国となった。
 ここまでは順調だったハワイだが、実は、カメハメハ1世没後からアメリカ人によるプランテーションのための土地収奪が広がっていた。40年代には英仏が相次いで一方的にハワイ領有を宣言するなど、砂糖栽培の利権を付け狙う列強によるハワイ侵出が激化する。
 カメハメハ朝が断絶した後、1874年の選挙で国王に就いたカラカウアは増大するアメリカの勢力を抑え、明治維新直後の日本と移民条約を通じて連携しつつ、ハワイ中心のポリネシア連合の形成をもくろむが、かえってアメリカ人勢力によるクーデターに遭い、王権を制限される結果となった。
 カラカウア王を継いだ妹のリリウオカラニ女王は兄の遺志を受け継ぎ、王権を再強化する新憲法草案を提起するが、アメリカ人が支配する閣議により否決された。
 新憲法案を支持する先住ハワイ人勢力と共和制移行を主張するアメリカ人勢力の間の緊張が高まる中、アメリカ人勢力が海兵隊を動かしてクーデターに成功、94年にサンフォード・ドールを大統領とする共和国を樹立した。翌年にはリリウオカラニ女王も廃位され、ここにハワイ王国は滅亡した。
 アメリカ人勢力の最終的な狙いはハワイを本国アメリカに併合することにあったため、98年にはハワイ共和国とアメリカの間でハワイ併合条約が締結され、98年にハワイは準州としてアメリカに正式に併合されたのである。

 近代王国として最も成功を収めたと言えるのは、ハワイの後を追ったトンガであった。(3)でも見たとおり、トンガでは17世紀以来、俗権を握るトゥイ・カノクポル朝が優勢となったが、全島的王朝として確立されたのは、19世紀に出たタウファアハウ王の時である。
 彼は西洋列強の侵出という時流を巧みに利用した。手始めに、キリスト教プロテスタント(メソジスト派)に改宗し、洗礼名ジョージとし、ジョージ・トゥポウ1世を名乗った。しかし、まだ残存していた神権を握る伝統的なトゥイ・トンガ朝末裔のラウフィリトンガがカトリックに改宗したうえ、トゥポウ1世に挑戦したため、プロテスタント勢力の支援を受けたトゥポウ1世とカトリック勢力の支援を受けたラウフィリトンガの間で内戦となった。
 トゥポウ1世はこの難局を乗り切り、1875年には、英国人のメソジスト派牧師シャーリー・ベーカーを顧問(後に首相)に迎えて近代的憲法を制定し、立憲君主国として整備したのであった。この体制は今日までオセアニアで唯一、英国王を君主としない独自君主国トンガとして持続している。
 トゥポウ1世はフィジー併合を狙うなど、列強的手法を真似た帝国主義を志向したが、この野望は列強の妨害により挫折した。96歳まで長生したトゥポウ1世を継いだ曾孫ジョージ・トゥポウ2世は、1900年、英国との間で友好条約を締結し、トンガは英国の実質的な保護国となった。
 ジョージ・トゥポウ2世は結婚相手の選択をめぐる混乱から国を分裂させており、統治基盤を維持するため積極的に英国の庇護を求めたのであった。しかし、友好条約下では外交権の制限にとどまり、トンガはオセアニアで唯一主権を保持する国となった。

2016年11月16日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第23回)

八 チベット神権政治

吐蕃王朝と仏教
 今日大乗仏教系で中国経由の北伝仏教と二大系統を成すチベット仏教の始まりは7世紀の吐蕃王朝の成立を契機とする。初代国王ソンツェン・ガンポは当時の地政学上、南で接するネパール(リッチャヴィ朝)と東で接する唐の双方から王妃を娶ることで、新興王国の保証とした。
 この東西から嫁いだ二人の王妃がチベットに仏教を持ち込んだと言われる。それ以前のチベットにはアニミズムの一種であるボン教と呼ばれる伝統宗教があったが、チベット仏教は在来のボン教とも競合・混淆しながら発展していくことになる。
 実際のところ、チベットで仏教が正式に国教化されたのは、ソンツェン・ガンポの時代から100年以上経過した8世紀後半のティソン・デツェン王代のことである。10代で即位した彼の治世初期には仏教に反発するボン教徒による廃仏が発生したが、成長した王は改めて仏教を国教と定め、王国の精神的基盤とした。
 当時のチベット仏教はインド系仏教と敦煌占領に際して招聘された禅宗僧侶摩訶衍の影響から中国系禅宗の二大派閥に分裂していたが、ティソン・デツェン自身はインドのナーランダ僧院の高僧シャーンタラクシタをチベットに招聘して教えを受けていたことから、最終的にインド系仏教を正統仏教として承認した。
 これに先立って、シャーンタラクシタはチベット初の仏教教団を設け、彼も建立を主導したチベット初の僧院・サムイェー寺を拠点に、チベット大蔵経に結実する本格的な訳経事業も開始していた。ちなみに、サムイェー寺の建立には密教を伝えたインド人僧侶パドマサンバヴァも関わっている。
 チベット大蔵経の原典が完成した頃の王は、ソンツェン・ガンポ、ティソン・デツェンと並びチベット三大護教王とも称されるティツク・デツェンであったが、彼は宰相により暗殺され、王位は弟のラン・ダルマに遷った。
 吐蕃王朝最後の王となるラン・ダルマは兄王とは対照的に廃仏政策に転じた暴君として描かれることが多いが、その真偽は疑問視されている。いずれにせよ、彼もまた宰相により暗殺され、吐蕃王朝はここに滅亡するのである。
 以後、チベットは再び分裂の時代に戻り、仏教も衰微するが、そうした中、吐蕃王朝王族によって西部に建国された地方王朝グゲ王国が仏教再興の地となる。11世紀にはインドのヴィクラマシーラ僧院長も務めた高僧アティーシャを招聘し、布教に当たらせた。
 アティーシャはすでに高齢だったにもかかわらず、その精力的な活動により、チベット仏教中興の祖となり、ダライ・ラマも属する現代チベット仏教主流派であるゲルク派の確立につながる流れを築いたのである。

2016年11月12日 (土)

私家版琉球国王列伝(連載第4回)

五 尚徳王(1441年‐1469年)

 尚徳王が父尚泰久王から円滑に王位を継承した時は、まだ20歳そこそこであったが、彼は間もなく強い指導力を発揮し始める。彼の時代に東南アジアの当代有力な港市国家マラッカとの貿易を開始し、琉球を東アジアの港市国家へと発展させた。
 また父の代から仕えていた京都五山の臨済宗僧侶芥隠承琥を使者として、日本の室町幕府に派遣、時の将軍足利義政と謁見し、日本との関係も深めた。芥隠承琥は第二尚氏王朝時代にもまたがって琉球で仏教禅宗の布教にも注力し、現在では失われた琉球王家菩提寺円覚寺を建立するなどの事績を持つ。
 しかし尚徳王代における最大の事績は、1466年の喜界島征服である。この作戦は王自らが親征するほどの力の入れようであった。結果は成功であったが、遠征は重臣らの反対を押し切って行なわれたうえ、王国側の損害も相当なものであったらしく、尚徳王は次第に重臣の信頼を失ったとされる。
 元来、尚徳王には国王親政の意思が強かったと見られる。父王以来の重臣であった金丸がいったん引退したのも、年齢的な理由以上に尚徳王との衝突が原因と考えられる。
 第二尚氏王朝成立後に編纂された史書が尚徳王を暴君として描くのは、やがて第一尚氏王朝を倒す金丸が創始した第二尚氏王朝の正当性を根拠づけるためのプロパガンダであろう。しかし、尚徳王代は領土も最大に広がり、相対的には第一尚氏王朝の全盛期であった。
 尚徳王が長生していれば、第一尚氏王朝はさらに持続した可能性があるが、そうはならず、尚徳王は1469年、30歳を前にして早世してしまう。この死は自然死だったと見られるが、この後、重臣らが尚徳王の世子を後継に立てようとしたところ、群臣がこれを殺し、引退していた金丸を新国王に推戴したという。
 このクーデターの後、第一尚氏王朝の王族はほぼ皆殺しにされ、尚円王となった金丸が第二尚氏王朝を開始するのである。こうして、琉球最初の統一王朝であった第一尚氏王朝は、計7代60年ほどで、その最盛期にあっけなく滅亡したのであった。

2016年11月 9日 (水)

弥助とガンニバル(連載第5回)

四 信長と弥助

 ここで、ようやく本連載の主人公弥助の登場である。弥助は日本の歴史上、明確な活動記録の残る唯一の黒人武士である。出身は当時のポルトガル領東アフリカに属したモザンビーク、日本へ連行してきたのは、イタリア人のイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
 ヴァリニャーノは元来、イエズス会東インド管区の巡察師という地位にあり、ポルトガルのリスボンからモザンビークを経由して、ポルトガル領インドのゴアに渡航、そこからさらにポルトガル領マラッカ、さらにポルトガル居留地マカオを経て日本へ渡った。
 この来日ルートのどこで弥助を入手したかは不明であるが、弥助がモザンビーク出自とすれば、モザンビーク滞在中に弥助を入手して従者にしたと考えるのが最も自然だろう。いずれにせよ、司祭の従者になった弥助は、黒人奴隷としては幸運者だったと言える。
 さて、記録によれば、日本入りしたヴァリニャーノは1581年に時の最高執権者織田信長と会見し、この時に弥助も信長に引き合わされている。史書では「黒坊主」と表現されている弥助の本名は記録されていないが、名前の喪失は奴隷の宿命であった。
 好奇心が強く、新奇なものに飛びつく信長は「黒坊主」が気に入り、ヴァリニャーノに掛け合って譲渡を受け、弥助と命名して自身の家臣としたのであった。しかも、隷属的な奉公人ではなく、帯刀・扶持の武士として処遇したというから、信長の弥助に対する「愛情」は相当なものであった。
 しかし、このような破格の待遇は多分にして信長の個人的な性格によっており、当時の日本に差別的な意識がないわけではなかった。当時の記録では弥助を「黒坊主」とか「くろ男」などと表記しており、日本人が初めて見た肌の黒い人間に対する好奇の混じった蔑視的な視線も滲み出ている。
 本能寺の変後、弥助を捕らえた明智光秀が「無知な動物」であることを理由に弥助の処刑を免除し、教会(南蛮寺)預かりとしたのも、弥助に対する温情というよりは、黒人を人間とはみなさない当時の日本人の意識を反映した処遇であったと言える。
 信長は弥助をいずれは城持ちに昇格させる意向だったと言われるほど気に入っていたらしいが、弥助も体験した本能寺の変により、実現することはなかった。上述のように、弥助は明智方に囚われたが、処刑は免れて教会預かりとなる。
 以後の弥助の消息は記録に現れず、不明である。信長後継の豊臣秀吉が弥助の行方に関心を持った形跡もない。元主人のヴァリニャーノは変の前に天正遣欧使節に随行していったん日本を離れた後、1590年、98年と来日を重ねているが、彼も弥助の行方には関心を持たなかったようである。
 こうして、弥助はわずか1年余りの活動を残して、忽然と消えてしまうのである。黒人の存在は極めて珍しかった当時、どこかで存命していれば記録に残るはずである。それが全く残されていないのは、いずれかの時点で日本を離れた可能性が高い。
 その点、本能寺の変後の1584年、九州の戦国大名間の戦いである沖田畷の戦いでキリシタン大名有馬氏の軍中に黒人武士の存在が記録されており、弥助との同一性が問題となることもあるが、弥助が九州のキリシタン大名の下に移っていた可能性もゼロではなかろう。
 あるいは南蛮寺で身柄を保護されていたとしても、1587年の秀吉によるバテレン追放令後、京都の南蛮寺は破却され、宣教師たちも平戸周辺に潜伏した。目立つ黒人を連れているわけにもいかず、弥助のような黒人は真っ先に送還されたと考えられる。
 いずれにせよ、弥助の存在は二度と記録に現れず、また彼の子孫を称するような家系も実在しないので、彼は本能寺の変後、出国したと見るのが自然である。そして弥助を日本に登場させたポルトガルの奴隷貿易も、17世紀に入ると斜陽の時代を迎えるのである。

2016年11月 5日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第7回)

第一部 誕生~歴史

(6)オセアニアの英国植民地
 
オセアニアに侵出した列強の中で最も広い範囲を支配したのは、海洋帝国の英国であった。その最大拠点は、オーストラリア大陸である。英国によるオーストラリア入植は、1788年1月26日という明確な日付を伴って国策的に開始された。
 その日、後に初代総督となる海軍提督アーサー・フィリップに率いられた1500人ほどの第一船団がシドニー湾に入港したのである。その半数は受刑者であり、北米植民地を独立戦争で失った直後の英国はオーストラリアを新たな流刑植民地として開拓するつもりであった。
 しかし間もなく、流刑植民地の枠を超えた全大陸規模での開拓が進められていく。その過程は独立後のアメリカに似ており、非人道的な先住民の殲滅作戦、それが一段落した後は強制同化政策を伴っていた。結果、先住民族アボリジニの人口は激減し、タスマニア島では19世紀後半の段階で先住民は絶滅した。
 これに対し、ニュージーランド植民地の成立過程は異なる。ここでは、すでに欧州の民間会社による商業的な入植活動が先行して行なわれていたからである。また狩猟採集生活様式を維持しつつ多数の部族に分岐し、凝集性を欠いたオーストラリア先住民とは対照的に、まとまりがよい先住民マオリが土地取引の交渉相手として存在していた。
 同じくニュージーランドを付け狙うフランスとの対抗上も領有化を急ぐ英国は1840年、マオリ首長らとの間でワイタンギ条約を締結し、英国植民地とした。しかし、条約に基づくマオリ保有地の買収が大々的に進められていくことに危機感を抱いたマオリによる抵抗戦争が二度にわたり勃発するが、いずれも軍事力で勝る英国側が勝利を収め、かえって懲罰的な土地の没収が強行されたのだった。
 一方、メラネシア地域では比較的大きなフィジー諸島がプランテーション経営地として着目された。フィジーにはトンガのような統一的な王権も、マオリのような強力な部族社会も成立しておらず、比較的簡単に植民地化が完了した。
 1874年に正式に英国植民地となったフィジーには、79年以降20世紀初頭まで、当時の労働慣例だったインド人労働者(苦力)が移入させられ、プランテーション経営が営まれた。このインド人労働者の子孫はフィジーに土着し、やがて先住民と人口を二分するまでになり、フィジー特有の民族間対立の要因を形成することとなった。
 以上の国策的に建設された英国植民地とは異なり、数奇な経緯から自生的に成立したのがポリネシアのピトケアン諸島である。これは、後にオーストラリア総督にも就任するウィリアム・ブライ率いる海軍輸送船バウンティ号の乗組員らが船長に対して起こしたバウンティ号反乱事件(1789年)の反乱者らが漂着・入植した島である。
 彼らは島で先住民女性と通婚し、その子孫が土着した。その後、島はジョシュア・ヒルなるアメリカ人冒険家に乗っ取られ、その専制支配下に置かれるが、1838年に島民の要請を受けた英海軍によって解放され、同年以降英国領とされたのである。

2016年11月 2日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第22回)

七 日本仏教と政治

仏教統制から廃仏毀釈へ
 鎌倉新仏教はその後、室町時代にも引き継がれ、特に臨済宗は幕府の保護を受け、中国の制にならった禅宗五山の制度も整備された。政教の距離はより縮まり、臨済宗僧侶の夢窓疎石やその門弟たちの中には、将軍や鎌倉公方の事実上の政治顧問格として政治に関与する者も現れた。
 他方で、民衆の間に定着した浄土真宗は本願寺教団(一向宗)にまとまり、各地で一揆を起こすまでになる。その中でも、守護大名の追放と自治体制確立にまで発展したのが1488年の加賀一向一揆である。この祭政一致的な封建自治体制は100年近く続いたため、単なる一揆を越えた一種の民衆革命であった。
 加賀の例は同時代の北陸・中部・近畿地方で多発した一向一揆の中でも異例のものであったが、この時期には一向宗と敵対する法華宗による法華一揆も起きるなど、戦国へ向かう中で、仏教宗団自身の戦国的武装勢力化も進んだ。
 戦国時代に一定の秩序をもたらした織田信長は、これら武装仏教勢力の打倒に冷酷な手法で注力した。かねてより強力な僧兵集団を抱えていた延暦寺の焼き討ちが著名であるが、10年近くにわたり反信長陣営と一向宗が組んで信長と対峙した包囲網を打ち破った石山合戦は信長の天下取りの大きなステップとなった。
 以後、仏教勢力の抑圧統制は天下取りの要諦となり、豊臣、徳川と時の天下人に継承されていく。最後の総仕上げは徳川幕府による寺院諸法度―寺社奉行による寺院統制の制度化である。一向宗の弱体化策としての本願寺の東西分裂策動、民衆統制の手段としての寺請制度の整備も徳川的仏教政策の一環であった。
 ただし、江戸幕府は仏教を完全に抑圧することはせず、寺院には寺領を安堵して封建領主的地位を保証しつつ、寺院諸法度で法的に統制し、檀家制度を通じて民衆管理の最前線の役割も持たせるというのが徳川的仏教政策の妙味である。
 ちなみに、徳川家は伝説的な家祖・松平親氏が浄土教系の時宗托鉢僧だったとされる縁からか浄土宗派であり、江戸開府後は浄土宗を保護している。一方で、初代家康は臨済宗僧侶以心崇伝を実質的な宰相格とし、聖俗様々な政策に関与させたほか、天台宗僧侶天海からも宗教政策や江戸の都市計画まで助言を受けるなど、徳川幕府の仏教政策は相当に実用主義的である。
 こうした実用主義的な仏教利用政策の結果、江戸時代を通じて日本仏教の通俗化が独特の神仏混淆を伴って進行したと見られる。そうした状況で明治維新を迎えると、表向き王政復古を呼号する明治政府は神仏分離令を発し、神道重視策を打ち出した。
 これが結果として廃仏毀釈の風潮を作り出し、仏教は冬の時代を迎える。神道は明確に国教とされることはなかったとはいえ、「神道は宗教にあらず」という国策理念がかえって神道の宗教を越えた特権化を暗示していた。日本仏教の冬の時代はおおむね、明治憲法体制が崩壊するまで続くと言ってよい。

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