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2016年10月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第6回)

第一部 誕生~歴史

(5)列強による「発見」と侵略
 
地球上では辺境地域とも言えるオセアニアであるが、地球上の他の部分と同様、西洋列強による侵略を免れることはできなかった。その発端は、やはり大航海時代のポルトガル・スペインによる「発見」である。
 その嚆矢となったのは、著名なマゼランの太平洋横断航海であった。しかし、マゼランの時代の列強はオセアニアを植民地化の対象とはせず、アジアから新大陸へ到達するための通過点とみなしていた。
 積極的な植民地化の嚆矢はスペインが17世紀以降、フィリピンを拠点とするスペイン領東インドの一環として、ミクロネシアのマリアナ諸島やカロリン諸島を領有するようになったことに発する。
 しかし、より本格的な植民地化は最強の海軍力を擁して海洋帝国としての力を増した大英帝国によって開始された。主たる標的は、オセアニア最大の大陸オーストラリア及び隣接するニュージーランドであった。
 その契機となったのは、著名なキャプテン・クックによる計三回に及ぶオセアニア踏査活動である。その詳細をここで縷々述べることはしないが、クックが最終的にハワイ島民との紛争で命を犠牲にして実行した踏査により、オセアニアの地理的全体像が把握されたのであった。
 オセアニアにおける英国の中心的植民地となるオーストラリアとニュージーランドに関しては改めて次回に触れるが、英国への対抗者として追いすがってきたのが、はたしてフランスであった。
 フランスは、クックほど知られていないものの、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアというオセアニアの地理的三区分を最初に提唱したことで名を残す海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルによる踏査で、オセアニアへの領土的関心を強めた。
 フランスのオセアニア侵出は英国より出遅れたが、19世紀に入って1842年、まずポリネシアのタヒチ島の王を圧迫してこれを保護領化したのに続き、第二帝政のナポレオン3世時代の53年にはメラネシアのニューカレドニアの領有を一方的に宣言し、ここをオーストラリアにならって流刑植民地化したのである。
 ちなみに、17世紀にニュージーランドやタスマニアを「発見」し、今もタスマニアに名を残す探検家アベル・タスマンを出したオランダのオセアニア侵出は完全に出遅れ、アジアにおけるオランダ植民地インドネシアの延長部として、ニューギニアの西半分を領有するにとどまった。
 一方、19世紀末に遅れて帝国主義に参入したドイツ帝国は、ある意味でオセアニアのような辺境地に植民地を求めるしかなく、ニューギニアを拠点とするドイツ領ニューギニアを成立させたのであった。
 かくして、19世紀末頃までに、オセアニアはトンガを除いて列強の植民地とされたが、最遠の地イースター島だけは例外的な運命をたどった。前回見たように、18世紀以降、イースター島社会は環境的な要因から解体過程にあり、クックが第二回航海中の1774年に到達した時には、すでにモアイ像が多数倒壊している状態であった。
 その後、イースター島住民はヨーロッパ人の上陸に排他的姿勢を取り続けるが、1862年にはペルーによる奴隷狩りが断行され、大首長も含む島民の半数が拉致された。その他、タヒチ島を支配するフランスによる奴隷狩りや、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘による大量死により、イースター島人口は1870年代の時点でわずか100人あまりに減少する実質的な社会崩壊に至る。
 1878年以降は、タヒチ島のプランテーション経営者サーモン・ジュニアの事実上の支配下に置かれた末、88年にチリに売却され、以後はチリ領としてラテンアメリカに切り取られていったのである。

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