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2016年10月

2016年10月29日 (土)

私家版琉球国王列伝(連載第3回)

三 尚金福王(1398年‐1453年)

 尚金福王は先代の甥尚思達王が継嗣を残さず没したために、王位に就くことになった。彼の四年ほどの在位中の事績としては、明使を迎えるために、港として整備した那覇と王城のある首里を結ぶ堤道として長紅堤を築造したことが挙げられる。
 この事業も尚巴志王時代からの明人国相懐機が指揮を執っており、第一尚氏王朝初期の国づくりにおいていかに彼の貢献が大きかったかがわかるが、そのことは同時に、初期の第一尚氏王朝が外国人頼みに陥っていたことをも示している。
 尚金福王は長生していれば、名君となった可能性があるが、不幸にして在位四年で没してしまう。その死は急だったようで、後継をめぐって王子志魯と王位を請求する王弟布里の間で紛争が起き、内戦にまで発展した。
 この志魯・布里の乱により王城首里城は焼失、志魯・布里両人ともに戦死という最悪の結果に終わった。この乱はいまだ不安定な第一尚氏王朝にとっては打撃であり、その命脈を自ら縮めたことは間違いない。

四 尚泰久王(1415年‐1460年)

 王位を争った志魯・布里両人の死により王位が回ってきたのが、尚巴志の存命中の七男尚泰久であった。彼は越来〔ごえく〕に領地を与えられた按司の立場にすぎなかったが、彼が抜擢し、後に第二尚氏王朝を建てる重臣の金丸らに擁立されたのである。
 そうした経緯もあって、尚泰久王は強力な王権を形成できず、金丸ら重臣の発言権の増大を抑え切れなかったようである。そうした王権の脆弱さが引き起こしたのが、有力按司間の争いである護佐丸・阿麻和利の乱である。
 乱の当事者のうち、護佐丸は尚巴志時代、第一尚氏王朝の成立に貢献した古参の功臣、阿麻和利は尚泰久王の擁立に寄与し、尚泰久王の娘婿でもある有力者であった。乱の発端は阿麻和利が護佐丸の謀反を王府に讒言し、王府の命により護佐丸を滅ぼしたことにあった。
 しかし、これは王位簒奪を狙う阿麻和利の策謀であったようで、護佐丸を滅ぼした阿麻和利は返す刀で首里を攻略するが、王府軍の反撃にあい、滅ぼされた。結果として、王権を脅かす二人の有力按司を両成敗的に排除することになり、王権はひとまず安定化に向かうはずであった。
 尚泰久王は乱から二年後の1460年に没したが、その後は息子の尚徳が円滑に継承した。第一尚氏王朝が名実共に統一王朝となったのは、この時期と言ってよいであろう。がしかし、尚徳王こそは、第一尚氏王朝最後の王となってしまうのである。

2016年10月26日 (水)

弥助とガンニバル(連載第4回)

三 大航海と奴隷貿易

 アッバース朝からオスマン帝国へと引き継がれ、確立されたアフリカ奴隷貿易システムに対する対抗者として現れたのが大航海時代を迎えた西欧である。ポルトガルが先陣を切った。アントン・ゴンサルベスなる15世紀のポルトガル人航海者が初めてアフリカ西海岸で奴隷狩りを行なった人物として記録されている。
 初期の時代はシステム化された奴隷貿易というよりも、こうした航海者や商人による私費での粗野な「奴隷狩り」が中心であったが、1452年に時のローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル国王アフォンソ5世に異教徒の恒久的な奴隷化を勅許したことが転換点となる。
 これが一種の宗教的なお墨付きとみなされて、以後、奴隷貿易がシステマティックに行なわれるようになる。ポルトガルのアフリカ大陸踏査はオスマン帝国の貿易ネットワークを避けて西海岸を南下する形で進められていったことから、西海岸地帯が西欧系奴隷貿易の中心地となっていく。
 奴隷貿易すべてに共通することであるが、地元勢力の協力なしにはシステマティックな奴隷貿易は構築できない。西アフリカ沿岸の奴隷貿易では、地元黒人部族勢力が同胞黒人を拘束し、奴隷としてポルトガル人に売り渡すという仕組みが形成された。
 これら部族勢力はそうして奴隷貿易で蓄積した富を基盤に、強力な王国を形成すらした。中でも最も著名なのが、今日のベナン共和国の前身となるダホメー王国である。ダホメーは、奴隷の給源となる征服地の捕虜と西洋人の銃火器を交換して軍備の近代化を進め、専制的軍事国家を作り上げたのである。
 ポルトガルに続きスペインが台頭すると、両国は1482年にポルトガルにより今日のガーナに築かれたエルミナ城を拠点に、奴隷貿易を本格化させていく。特に、新大陸を次々と侵略して植民地を拡大していったスペインは、酷使や疫病による現地先住民の激減に伴い、新たな奴隷労働力として黒人の移入を必要とした。
 他方、オスマン帝国系奴隷貿易ネットワークへの食い込みを図り、東アフリカ方面にも侵出していったポルトガルは15世紀末、今日のモザンビークを中心とするポルトガル領東アフリカを成立させ、ここを新大陸側植民地ブラジルへの奴隷供給基地とする。本連載主人公の一人弥助もモザンビーク出自と伝えられるのも、このことに関わっている。

2016年10月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第6回)

第一部 誕生~歴史

(5)列強による「発見」と侵略
 
地球上では辺境地域とも言えるオセアニアであるが、地球上の他の部分と同様、西洋列強による侵略を免れることはできなかった。その発端は、やはり大航海時代のポルトガル・スペインによる「発見」である。
 その嚆矢となったのは、著名なマゼランの太平洋横断航海であった。しかし、マゼランの時代の列強はオセアニアを植民地化の対象とはせず、アジアから新大陸へ到達するための通過点とみなしていた。
 積極的な植民地化の嚆矢はスペインが17世紀以降、フィリピンを拠点とするスペイン領東インドの一環として、ミクロネシアのマリアナ諸島やカロリン諸島を領有するようになったことに発する。
 しかし、より本格的な植民地化は最強の海軍力を擁して海洋帝国としての力を増した大英帝国によって開始された。主たる標的は、オセアニア最大の大陸オーストラリア及び隣接するニュージーランドであった。
 その契機となったのは、著名なキャプテン・クックによる計三回に及ぶオセアニア踏査活動である。その詳細をここで縷々述べることはしないが、クックが最終的にハワイ島民との紛争で命を犠牲にして実行した踏査により、オセアニアの地理的全体像が把握されたのであった。
 オセアニアにおける英国の中心的植民地となるオーストラリアとニュージーランドに関しては改めて次回に触れるが、英国への対抗者として追いすがってきたのが、はたしてフランスであった。
 フランスは、クックほど知られていないものの、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアというオセアニアの地理的三区分を最初に提唱したことで名を残す海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルによる踏査で、オセアニアへの領土的関心を強めた。
 フランスのオセアニア侵出は英国より出遅れたが、19世紀に入って1842年、まずポリネシアのタヒチ島の王を圧迫してこれを保護領化したのに続き、第二帝政のナポレオン3世時代の53年にはメラネシアのニューカレドニアの領有を一方的に宣言し、ここをオーストラリアにならって流刑植民地化したのである。
 ちなみに、17世紀にニュージーランドやタスマニアを「発見」し、今もタスマニアに名を残す探検家アベル・タスマンを出したオランダのオセアニア侵出は完全に出遅れ、アジアにおけるオランダ植民地インドネシアの延長部として、ニューギニアの西半分を領有するにとどまった。
 一方、19世紀末に遅れて帝国主義に参入したドイツ帝国は、ある意味でオセアニアのような辺境地に植民地を求めるしかなく、ニューギニアを拠点とするドイツ領ニューギニアを成立させたのであった。
 かくして、19世紀末頃までに、オセアニアはトンガを除いて列強の植民地とされたが、最遠の地イースター島だけは例外的な運命をたどった。前回見たように、18世紀以降、イースター島社会は環境的な要因から解体過程にあり、クックが第二回航海中の1774年に到達した時には、すでにモアイ像が多数倒壊している状態であった。
 その後、イースター島住民はヨーロッパ人の上陸に排他的姿勢を取り続けるが、1862年にはペルーによる奴隷狩りが断行され、大首長も含む島民の半数が拉致された。その他、タヒチ島を支配するフランスによる奴隷狩りや、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘による大量死により、イースター島人口は1870年代の時点でわずか100人あまりに減少する実質的な社会崩壊に至る。
 1878年以降は、タヒチ島のプランテーション経営者サーモン・ジュニアの事実上の支配下に置かれた末、88年にチリに売却され、以後はチリ領としてラテンアメリカに切り取られていったのである。

2016年10月20日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第21回)

七 日本仏教と政治

武家仏教と民衆仏教
 平安時代末期の平安ではなくなった時代、平安貴族らはこぞって浄土教に走り、来世での冥福を願ったが、現世での幸福はかなわず、かれらが権力保持のために依存するようになった武士層の増長を抑えることはできなかった。
 最初の武家政権を樹立した平氏は、興福寺を筆頭とする既成仏教勢力の抑圧に努め、特に東大寺・興福寺の弾圧を狙った南都焼き討ちは、後に戦国時代の織田氏の政策の先取りに近い寺社勢力への強硬策であった。
 平氏を打倒した源氏が本格的な武家政権を樹立すると、仏教と政治の関係も大きく変化する。従来の朝廷主導の鎮護国家思想は後退し、武家のニーズに合ったより実践的・現世的な仏教宗派が登場してくる。
 いわゆる鎌倉仏教はこうした新たな武家社会の実態に合った仏教の新潮流であり、とりわけ新たに中国からもたらされた禅宗系の臨済宗と曹洞宗が武家の信仰を集める二大宗派として台頭する。中でも臨済宗は事実上幕府の国教的地位を獲得し、南禅寺を頂点とする五山の制度が次第に整備されていく。
 もっとも、いわゆる鎌倉新仏教に属する六大宗派(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗)はいずれも天台宗に入門した僧侶が日本における開祖となっており、平安仏教の天台宗の教学的影響力は次代にも及んでいる。天台宗に代表される旧仏教と新仏教の対立関係は、室町時代に入って表面化し、政治問題化していく。
 一方、仏教は平安時代末期から、先の見えない不安感・閉塞感の中で民衆の間にも末法思想のような悲観的な形で浸透していたが、鎌倉時代になると、明確に民衆の側に立ち、民衆の教化を目指す民衆仏教も現れる。特に、六大宗派中の浄土真宗である。
 浄土真宗は、開祖の親鸞自身は政治的に穏健ながら、封建社会化の中で地頭に搾取される農民の救済に重点を置いた関係で、後世、真宗系本願寺教団は政治性の強い急進的宗派に成長し、いわゆる一向一揆のような革命的行動を各地で起こし、領主勢力との階級闘争を繰り広げることとなった。
 日蓮は他宗派とは様相を異にし、むしろ旧来の鎮護国家思想に基づき、法華経の信奉を主張する『立正安国論』を著し、あるべき政教関係を説いたが、時の北条氏政権からは敵視され、弾圧を受けた。以後、日蓮宗(法華宗)は反体制的性格を強めていく。
 こうして、鎌倉時代に発するいわゆる新仏教は、封建社会化の中で、様々な階級に広まっていった。しかし、その分、仏教諸宗派は諸階級の利益と結びつきつつ、応仁の乱以後、戦国時代へ向かう中で宗派間抗争も激化するようになる。

2016年10月15日 (土)

私家版琉球国王列伝(連載第2回)

一 尚思紹王(1354年‐1421年)/尚巴志王(1372年‐1439年)

 尚思紹・尚巴志父子は、琉球を初めて統一した第一尚氏王朝の創始者とされているが、厳密には父尚思紹王の代では統一は完成しておらず、統一は2代目尚巴志王の功績である。尚思紹王は尚巴志王によって追贈的に初代国王に位置づけられたものと思われる。
 統一前の尚一族は、いわゆる三山時代の一つ南山王国の有力地方領主である佐敷按司であった。伝説によれば、尚思紹王の父佐銘川大主は北部の伊平屋島から佐敷へ移住してきた漁師で、地元豪族の女婿となったことから、一族栄進の道が開かれた。
 南山は元来、承察度(大里)按司が統一した地方王国であり、たびたび明に朝貢、冊封を受けるなど最強勢力を誇ったが、王室の内紛・失政などに乗じて尚父子が実力をつけ、鼎立する中山王国及び北山王国を順次滅ぼしていった。
 すでに中山王となっていた尚思紹はしかし、全島統一の道半ばで1421年に没したため、後は息子の尚巴志に託された。彼は29年に南山王国最後の王他魯毎を打倒して、三山統一事業に成功したのだった。
 尚巴志王の実質在位は10年とさほど長くなかったが、この間、彼は明人の懐機を国相に起用し、元は中山王国の王城だった首里城の拡張や那覇港の整備など、王国の政治経済の基礎を築いたほか、前代からの明への朝貢政策を継承しつつ、日本や朝鮮、南方方面との貿易を進め、港市国家としての繁栄の道を開いた。
 とはいえ、三山時代の分裂が完全に止揚されたわけではなく、三山残党や地方に割拠する按司たちの勢力は残されており、真の意味での統一王国を確立するには在位期間が明らかに不足していた。

二 尚忠王(1391年‐1444年)/尚思達王(1408年‐1449年)

 第一尚氏王朝が安定を見るためには、尚巴志王の子孫が長生して建国事業を継承する必要があったが、不幸にしてそれはかなわなかった。
 尚巴志を継いだのは次男の尚忠だったが、彼は在位五年にして没している。尚忠王は祖父の代で北山王国を滅ぼした後、北山監守に任ぜられるなど早くから実力を認められていたようで、即位後も父の事業を継承し貿易を振興するなどの業績を見せ始めた矢先の死であった。
 次いで尚忠王の子尚思達が王位を継承するが、彼もまた在位四年で死去した。しかも継嗣を残さなかったため、後は叔父の尚金福が継いだ。尚思達王の事績は奄美大島の征服以外にほとんど伝わっていないところを見ると、さほど強力な王ではなかったと考えられる。
 こうして、第一尚氏王朝はその草創期に短命・弱体の王が続いた。このことは、王朝自体の命脈の短さを予想させるものであった。

2016年10月13日 (木)

弥助とガンニバル(連載第3回)

二 オスマン帝国と奴隷制

 イスラーム世界における奴隷制はやがてイスラーム世界の覇者となったオスマン帝国に継承され、より大々的かつ体系的に制度化される。
 帝国の奴隷制には、主としてコーカサス・東欧方面から調達される白人系奴隷と、従来のザンジュ奴隷を引き継いだ黒人系奴隷の二種があったが、ここでは、主題との関わりで後者の黒人奴隷のみを概観する。
 オスマン帝国の黒人奴隷の供給源は、アフリカの大湖沼地域から中央アフリカなど比較的奥地にまで拡大されており、本連載の主人公の一人であるガンニバルも近年の研究では中央アフリカ付近の出身とみなされている。
 かれら黒人奴隷の大半は男性であり、帝国領内に連行された後は、家事奴隷のほか、下級兵士などとして使役されるのが通例であり、その立場は白人奴隷よりも低く、奴隷間にも人種差別があった。
 ただし、黒人奴隷にはもう一つ宦官の調達という別ルートがあった。これにはエチオピアのコプト派キリスト教会が協力しており、教会が黒人の少年を拘束し、去勢を施したうえ、オスマン帝国に売りつけていたのだった。
 このルートで購入された黒人去勢者は宦官として育成され、後宮に配属された。その頂点の宦官長は元来、黒人に限られたものではなかったが、次第に黒人宦官の独占ポストとなる。この黒人宦官長はスルターン及び後宮の実力者であるスルターン妃双方の権威を背景に、時に首相格の大宰相をも凌ぐ隠然たる政治的実力を備えるまでになる。
 著名な例として、1716年から30年にわたり宦官長を務めたベシル・アガーがいる。彼は時の大宰相によって引退に追い込まれかけると、対抗的にスルターン妃の力を借りて大宰相を罷免に追い込むほどの力を発揮したのだった。
 しかし、このような宦官としての栄達は黒人奴隷のごく一部の「幸運な」例であって、大多数の黒人奴隷の境遇は過酷なものだった。これらオスマン帝国の黒人奴隷の末裔たちは、現在でも「アフリカ系トルコ人」としてトルコ国民化されている。
 とはいえ、本連載の主人公ガンニバルは、一度はオスマン帝国に売られながら、奴隷化を免れ、ロシア帝国に「救出」された幸運児であった。

2016年10月 8日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第5回)

第一部 誕生~歴史

(4)イースター島独自文化の盛衰
 
ポリネシア最東端に位置するイースター島に住民が定住したのはさほど古いことではなく、最も遅くて西暦1200年代と推定されている。この島は現在は南米チリ領に属するほど遠方の孤島であったため、住民の到来・定住はポリネシアでも最も遅かったのである。
 しかし、ひとたび定住すれば、周囲に大陸も大島も存在しない絶海のロケーションは外部からの侵略を受けず、安定した定常的社会を築くのに適していた。
 トンガ交易帝国の威令もイースター島には及ばなかった。一方で、トンガのように周辺島嶼に交易圏を拡張して、朝貢貿易ネットワークを築くという帝国化の道をたどることは必要でも可能でもなかった。
 そうした孤立した環境下で、イースター島社会は独自の文化を形成していった。イースター島を最も有名にしたのは、巨大な石造彫刻モアイである。これはポリネシアでも他には見られず、むしろ南米の先住民文化との関連性を指摘する見解も存在するほど独異なものである。
 その建造目的についてもいまだ定説はないが、近年は氏族墓碑説が有力化している。イースター島は閉鎖的な均質的部族社会として始まったが、次第に氏族が分化し、相互に拮抗するようになり、モアイ造りもそうした氏族分化の象徴と見ることは可能である。
 イースター島が注目されるもう一つの理由は、環境破壊による社会崩壊である。イースター島はかつて豊かな亜熱帯雨林の島だったと推定されているが、現在では見る影もない。その要因として乱伐が考えられている。
 絶海の平和的な理想状態で人口爆発が生じ、耕作地開拓のための森林伐採が進行したことが背景にあると言われるが、モアイの建造及び運搬に必需とされた木材の伐採も森林破壊を促進したようである。
 おそらくはその要因から、伝統的なモアイ造りも中止を余儀なくされ、18世紀以降は完全に終息、むしろモアイは倒されるようにさえなる。このモアイ倒壊の理由も諸説あるが、森林破壊から土壌流失が進んだことによる食糧不足と狭隘な耕作地をめぐる氏族間での抗争が想定されている。
 それによる自滅的な社会崩壊は、西洋列強による征服を容易にしたであろう。また、現代のオセアニア地域が直面する海面上昇問題とは性質が異なるものの、人口爆発に起因する環境破壊による亡国という地球的問題にも一定の参照軸を提供するものである。

2016年10月 5日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第1回)

 近年の沖縄県の話題と言えば「基地問題」が圧倒的であり、王国時代の琉球史が本土で顧みられることはほとんどない。当の沖縄でも王国時代は過去の歴史となり、日本領土の一部たる「沖縄県」であることは当然の前提となっているように見える。
 しかし、琉球王国は事実上の併合である「琉球処分」(1879年)まで存続していたのであり、さほど遠すぎる過去のことではない。しかも、それは徳川幕府以上に長い400年以上にわたり存続した。
 人口20万人にも満たない小さな南の王国がなぜそれほど長く続いたのか、またそれがなぜ併合という形で滅んだのか。そのような問題意識を持ちながら、琉球王国時代を振り返ることは「沖縄県」という固定された思考枠組みから自由になるうえでも、実益のあることと思われる。
 当連載は、「沖縄県」を離れ、琉球王国時代の歴史を紀伝体という古風なスタイルで叙述する試みである。その際、琉球王国とは1429年の尚巴志王による琉球統一に始まる所謂第一尚氏王朝と、それに続く1469年の尚円王の即位に始まる所謂第二尚氏王朝を合わせた全26代に及ぶ両尚氏王朝を指すものとする。
 知られているように、両尚氏王朝に血縁関係はなく、第二尚氏が尚氏を称したのは自称にすぎないが、両尚氏王朝はいちおう連続した琉球統一王朝として想定することができるので、合わせて琉球王国と呼ばれることが多く、ここでもそれに従う。
 一方、日本史上はしばしば過度に強調されるように、第二尚氏王朝時代の1609年以降、琉球王国は薩摩藩の侵攻を受け、同藩の付庸国となる。実際は、琉球王国が一貫した国策とした中国大陸王朝への統属と同様、一定の制約は受けながらも事実上の独立状態を維持した統属であった。
 従って、この間の琉球王国をことさらに日本の属国として描写することは避け、明治維新後に「琉球処分」が完了するまでは事実上の独立王国として把握していく。
 とはいえ、薩摩藩侵攻後は形式上薩摩藩主島津氏が宗主となり、以後の琉球王国史は薩摩藩史とも交錯してくる。そこで、この時代の第二尚氏王朝期に関しては、相応する薩摩歴代藩主と対照させるダブル叙述を試行してみたい。

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