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2016年9月30日 (金)

仏教と政治―史的総覧(連載第20回)

七 日本仏教と政治

鎮護仏教から救済仏教へ
 6世紀に百済経由で日本に伝来した仏教は7世紀の飛鳥時代までに深く定着し、国家の保護を受けることに成功した。律令制の整備を経て、8世紀初頭に開かれた奈良朝では仏教は護国の精神的支柱となり、鎮護国家思想が確立された。
 鎮護国家体制の下では、仏教は国家の保護と引き換えに統制を受け、民衆への布教は禁じられたが、行基は禁を破って民間布教活動を行なった。彼の布教活動の足跡は全国に残され、仏教の民間浸透に寄与したと見られる。その点、行基は鎌倉時代に隆盛化する民衆仏教の遠い先駆者であった。
 奈良時代になると、大陸中国との文化交流も深まり、中国本土から鑑真のような高僧が渡来し、仏教戒律(律宗)を伝えた。鑑真に先立ち、インド人の菩提僊那もベトナム人の仏哲や唐人の道璿とともに渡来しており、日本仏教に国際色を与えている。他方、飛鳥時代以降、遣唐使に参加して入唐する留学僧も増加し、彼らが帰国して中国仏教を伝えた。
 こうした渡来僧や留学僧またはその弟子筋が日本における大乗系各宗派の創始者となった代表的なものが、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗のいわゆる南都六宗である。
 南都六宗は国家の庇護の下、次第に政治的な発言力を高めていく。その最大の弊害事例は、孝謙女帝の寵臣として政治介入した道鏡であった。彼は南都六宗の中でも最も勢力を誇った法相宗派僧侶であったが、一種の超能力を売りに宮廷の禅師となり、女帝の知遇を得たとされる。
 道鏡は、彼を皇位に就ければ天下泰平になる旨の虚偽の宇佐八幡神託に基づき女帝の後継者として即位するかの勢いであったが、職を賭した官人和気清麻呂の介入により、道鏡の野望は阻止された。
 後に桓武天皇が平城京からの遷都を断行した背景の一つとして、政治力を持ち過ぎた南都六宗の抑制もあるとされるほど、六宗の勢いは盛んであった。その桓武の新世には、最澄と空海という平安仏教の二大巨頭が出現し、日本仏教に新たな展開をもたらした。
 平安仏教と言えば二人が日本における開祖となった天台宗と真言宗を指すほどであるが、いずれも密教の性格を持ち、アカデミックだった奈良仏教に比べ、現世利益と結びつき、浄土教の分岐を経て、この時代の政治の主役となった藤原氏をはじめとする平安貴族層によって信奉されるようになる。
 同時に、荘園制の発達により有力寺院は自らも荘園領主として広大な寺領を経営するようになる。その過程で、雑務を行なう僧侶身分が武装化していわゆる僧兵となり、寺院の私兵集団として警護任務に当たるようになった。この独特の私兵集団はやがて一種の暴力団組織に成長し、寺社間の武力抗争や朝廷・摂関家への強訴などで猛威を振るうようになる。
 院政期の独裁者と呼んでもよい白河法皇が統制できないものとして、賀茂河の水、双六の賽と並べて山法師(比叡山延暦寺僧兵)を挙げたとされるように、平安時代末期の僧兵集団は時の権力者ですら統制できない実力を備えていた。
 こうして、日本仏教は護国から個人ないし一族を加護する現世的な救済仏教の性格を強くするとともに、寺院の封建領主化により寺院自身が一個の世俗的な政治主体として時の権力者とも渡り合う状況が生じてくる。

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