« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月

2016年9月30日 (金)

仏教と政治―史的総覧(連載第20回)

七 日本仏教と政治

鎮護仏教から救済仏教へ
 6世紀に百済経由で日本に伝来した仏教は7世紀の飛鳥時代までに深く定着し、国家の保護を受けることに成功した。律令制の整備を経て、8世紀初頭に開かれた奈良朝では仏教は護国の精神的支柱となり、鎮護国家思想が確立された。
 鎮護国家体制の下では、仏教は国家の保護と引き換えに統制を受け、民衆への布教は禁じられたが、行基は禁を破って民間布教活動を行なった。彼の布教活動の足跡は全国に残され、仏教の民間浸透に寄与したと見られる。その点、行基は鎌倉時代に隆盛化する民衆仏教の遠い先駆者であった。
 奈良時代になると、大陸中国との文化交流も深まり、中国本土から鑑真のような高僧が渡来し、仏教戒律(律宗)を伝えた。鑑真に先立ち、インド人の菩提僊那もベトナム人の仏哲や唐人の道璿とともに渡来しており、日本仏教に国際色を与えている。他方、飛鳥時代以降、遣唐使に参加して入唐する留学僧も増加し、彼らが帰国して中国仏教を伝えた。
 こうした渡来僧や留学僧またはその弟子筋が日本における大乗系各宗派の創始者となった代表的なものが、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗のいわゆる南都六宗である。
 南都六宗は国家の庇護の下、次第に政治的な発言力を高めていく。その最大の弊害事例は、孝謙女帝の寵臣として政治介入した道鏡であった。彼は南都六宗の中でも最も勢力を誇った法相宗派僧侶であったが、一種の超能力を売りに宮廷の禅師となり、女帝の知遇を得たとされる。
 道鏡は、彼を皇位に就ければ天下泰平になる旨の虚偽の宇佐八幡神託に基づき女帝の後継者として即位するかの勢いであったが、職を賭した官人和気清麻呂の介入により、道鏡の野望は阻止された。
 後に桓武天皇が平城京からの遷都を断行した背景の一つとして、政治力を持ち過ぎた南都六宗の抑制もあるとされるほど、六宗の勢いは盛んであった。その桓武の新世には、最澄と空海という平安仏教の二大巨頭が出現し、日本仏教に新たな展開をもたらした。
 平安仏教と言えば二人が日本における開祖となった天台宗と真言宗を指すほどであるが、いずれも密教の性格を持ち、アカデミックだった奈良仏教に比べ、現世利益と結びつき、浄土教の分岐を経て、この時代の政治の主役となった藤原氏をはじめとする平安貴族層によって信奉されるようになる。
 同時に、荘園制の発達により有力寺院は自らも荘園領主として広大な寺領を経営するようになる。その過程で、雑務を行なう僧侶身分が武装化していわゆる僧兵となり、寺院の私兵集団として警護任務に当たるようになった。この独特の私兵集団はやがて一種の暴力団組織に成長し、寺社間の武力抗争や朝廷・摂関家への強訴などで猛威を振るうようになる。
 院政期の独裁者と呼んでもよい白河法皇が統制できないものとして、賀茂河の水、双六の賽と並べて山法師(比叡山延暦寺僧兵)を挙げたとされるように、平安時代末期の僧兵集団は時の権力者ですら統制できない実力を備えていた。
 こうして、日本仏教は護国から個人ないし一族を加護する現世的な救済仏教の性格を強くするとともに、寺院の封建領主化により寺院自身が一個の世俗的な政治主体として時の権力者とも渡り合う状況が生じてくる。

2016年9月28日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第4回)

第一部 誕生~歴史

(3)トンガ交易帝国の盛衰
 
オセアニアのオーストラロイド系集団が形成した海洋交易圏は当初は複数並存していたと見られるが、やがてより包括的な大帝国が現れる。トンガ大首長国の名で呼ばれるトンガ交易圏である。
 トンガはラピタ文化の中心地の一つであり、交易圏ネットワークにおいても重要な役割を果たしていたと見られるが、当初はサモア及びフィジーの大首長国の支配下に置かれた属国だったと考えられている。
 それが10世紀末頃に独立を果たした契機は、サモアとフィジーの大首長国の勢力が後退したことにあったようである。おそらく拮抗する両勢力の潰し合いにより、緩衝的に中間に位置するトンガの独立性が確保されたのかもしれない。
 とはいえ、歴代トンガ支配層はいずれもサモア系の色濃く、サモア的な制度・慣習が現在に至るまで、トンガに定着している所以とされる。トゥイ・トンガの称号を持つ大首長の初代もサモア系だったとされることからも、サモアの影響がいかに強かったかがわかる。
 大首長トゥイ・トンガは聖権と俗権とを兼ね備えた超越的存在となり、トンガ大首長国は神権制の性格を強く持った。このトゥイ・トンガ朝の全盛期は、13世紀から15世紀後半にかけての長い時代にわたった。この時期、王朝の勢力圏はポリネシアからミクロネシアにまたがる最大域まで拡張されたと見られ、直接の支配下にない島嶼にも貢納を強制する朝貢貿易帝国が築かれていく。
 トンガがこのように長期間帝国を維持できたのは、一つにはポリネシア中央部に位置し、ポリネシアはもちろん、ミクロネシアやメラネシア方面にも睨みを利かせやすい位置関係、第二に軍艦と呼んで差し支えないほどの大型カヌーを駆使した航海術のおかげであった。もう一つは、西洋が大航海時代を迎える前という時代的な助力である。
 しかし、膨張し過ぎた帝国には必ず終わりが来る。トンガの場合は、内紛・内戦による王朝交代が契機であった。15世紀後半、専制化したトゥイ・トンガ朝が事実上打倒され、宗教的権威に限局された大首長の下で俗権を掌握するトゥイ・ハアタカラウ朝が形成されると、以後、集権化が進められる一方、対外的な支配力は弱化し、帝国は単なる王国へと縮退していくのである。
 17世紀初頭にはトゥイ・ハアタカラウ朝からさらにトゥイ・カノクポル朝が分岐する。両王朝は並存してトンガを分割支配したが、次第にトゥイ・カノクポル優位となり、今日のトンガ王室につながる。

2016年9月21日 (水)

弥助とガンニバル(連載第2回)

一 プロローグ
 :アフリカ奴隷貿易の始まり

 アフリカ人を捕縛して連行、奴隷として市場で売買するアフリカ奴隷貿易の始まりを正確に捉えることは難しいようだが、少なくともこれをシステマティックに始めたのは、アラブ人商人であったことは間違いない。アラブ人による奴隷貿易は預言者ムハンマドによるイスラームの創唱以前から存在していたと見られる。
 ムハンマドは教理上、人種差別に否定的であり、彼の言行録ハディースでは「アラブ人の非アラブ人への優越、非アラブ人のアラブ人への優越、そして白人の黒人への優越、そして黒人の白人への優越も敬虔さによるもの以外は存在しない」と述べられている。
 しかしながら、預言者も奴隷制には反対せず、自身も奴隷所有者であった。同時に、ムハンマドは奴隷への温情を説き、奴隷主による奴隷解放を善行として奨励した。実際、ムハンマドの黒人奴隷ビラール・ビン‐ラバーフは預言者から大切にされ、最初期のイスラーム入信者となった。
 ムハンマドの没後、イスラーム教団が征服活動により帝国化していくのに伴い、奴隷貿易も次第に拡大していくが、アフリカ大陸ではアラビア半島からも近い東アフリカ沿岸部が中心地として開拓されていく。
 東アフリカ沿岸部からの黒人奴隷は、ザンジュと呼ばれた。この人々は今日のバントゥー系諸部族と見られるが、かれら自身、商人としてアラブ人やペルシャ人とも交易していた。そうしたバントゥー‐アラブの融合の結果、今日この地域における共通語であるスワヒリ語とスワヒリ文化が形成される。
 しかし、東アフリカ沿岸部のスワヒリ諸都市の支配層は移住してきたアラブ人商人層が占めており、ザンジュは被支配層にして奴隷供給源に貶められていく。特にイスラーム帝国としてのアッバース朝時代、ザンジュは兵士や農業労働力として使役させられた。
 そうした状況下、9世紀後半のアッバース朝下に発生した大規模な奴隷反乱がザンジュの乱である。もっとも、反乱首謀者はアリー・ブン・ムハンマドなる素性不詳のアラブ人であったが、反乱は彼に煽動されたメソポタミア南部のザンジュ農業奴隷が主体となって引き起こされた。かれらは、その過酷な待遇に不満を募らせていたのだった。
 ザンジュの乱は一過性にとどまらず、弱体化しつつあったアッバース朝の隙をついて10年以上に及ぶ一種の革命政権の樹立にまで至るが、最終的にはアッバース軍に敗北した。
 このような大規模な反乱はあったものの、それが奴隷制廃止に結びつくことはなく、ザンジュ奴隷の供給は何世紀も続いた。かれらは遠く中国にまで「輸出」され、ザンジュは中国語でも「僧祇」の漢字を当てられた。
 こうしたザンジュに対する扱いの根底には、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダスィーの言葉「ザンジュは黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々である」に象徴される、ムハンマドの教えからも外れた人種差別的価値観があった。

2016年9月17日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第19回)

六 中国周辺国家と仏教

日本への伝来
 日本への仏教伝来は、中国から直接ではなしに、百済を通じた間接的な伝来であった。当時、日本は大陸中国への朝貢が途絶えた状態であり、中国からの直接の伝来ルートがなかった一方で、百済とは極めて親密な関係にあった。
 もっとも、正確な伝来年度については公式史書『日本書紀』が記す552年説と聖徳太子伝である『上宮聖徳法王帝説』が記す538年説とがあるが、両説は必ずしも矛盾しない。伝来を一回きりと考える必要はないからである。どちらにせよ、当時の百済王は自身も熱心な仏教徒として崇仏政策を主導した聖王であった。
 ちなみに538年は百済が遷都し、国号を「南扶余」に改めた記念年であることから、仏教公伝年としてはよりふさわしく見える。少なくとも、数次にわたる百済経由の仏教伝来の初年度を538年と見る余地は十分にあろう。
 いずれにせよ、日本では、仏教の受容をめぐり、廃仏派と崇仏派の豪族間で他国では例を見ないほど激しい政争が発生し、歴史を変える動乱に発展する。このことは、それだけ当時の倭国では王権が弱く、豪族の割拠体制であったこと、また伝統的な神道の力が大きかったことを意味している。こうした神道の排撃力は再び神道が政治の前面に持ち出された近代の王政復古期にもう一度発現する。
 ともあれ、古代の仏教動乱は崇仏派筆頭格の蘇我氏の勝利と専制支配の確立に終わる。そして蘇我氏が氏寺として日本最初の仏教寺院法興寺を建立したことが、日本仏教の最初の礎石となった。
 ちなみに、近年の研究で、法興寺は百済後期の代表的な寺院である王興寺と瓦の文様や塔の構造といった主要な点で一致しており、同一の建築技術者によって建立された可能性が高いことがわかった。これは、百済が蘇我氏を通じていかに初期日本仏教において強い影響力を持ったかを示している(その理由に関する管見は拙稿参照)。
 その後、蘇我氏の専横体制の下、法隆寺をはじめとする複数の寺院の建立プロジェクトが強力に推進され、仏教は国家公認の宗教としての地位を高めていった。
 こうした仏教政策は蘇我氏支配が打破されたいわゆる大化の改新クーデターを経ても基本的に維持され、7世紀後半、律令的天皇制国家の建設に乗り出す天武‐持統両天皇の時代に、朝廷の保護・監督を受ける官寺の制度にまとめられていく。これは奈良時代以降のいわゆる鎮護国家体制の土台となった。
 ただ、飛鳥時代の仏教教理はおおむね百済・高句麗・新羅を中心とした朝鮮半島からの渡来僧によって担われており、中国からの渡来僧、あるいは中国への留学僧によって日本仏教が教理面でも発展していくのは、奈良・平安時代以後のことである。

2016年9月15日 (木)

オセアニア―世界の縮図(連載第3回)

第一部 誕生~歴史

(2)閉鎖文化圏と交易文化圏
 
先史オセアニアへの二つの移住波を形成した集団のその後の状況は、大きく分かれていく。第一波を成したオーストラロイド系集団は、前回見たように、ニューギニアとオーストラリアの大陸的な大島に定住し、多数の部族集団に分岐していく。
 ニューギニアの場合は主に山岳民族、オーストラリアの場合は平原民族という相違はあるものの、かれらは外部からはほぼ遮断された生活圏を獲得し得た結果、近代に現れた西欧人によって「発見」されるまで、極めて長きにわたり原初の生活様式を維持することができた。
 もっとも、平原民族であるオーストラリア先住民の場合は外部との接触がある程度存在した証拠も見られるが、深い密林に覆われた山岳がそびえるニューギニア島内陸部ではその地形から閉鎖型社会が形成され、今日でもニューギニアを構成する東部のパプアニューギニア独立国と西部のインドネシア領地域には文明未接触部族が相当数残存していると推定されている。

 一方、第二のモンゴロイド系集団はオセアニアの広い範囲の島嶼に定着し、その優れた航海技術をさらに発達させ、海洋交易圏を形成するようになったと見られる。
 かれらは文字を残さなかったため、今日その実態を確実に証明するような同時代的文字史料は存在しないが、最初期の交易圏の中心はサモアとフィジーにあったと見られる。それぞれトゥイと呼ばれる大首長が支配する一種の部族国家が形成されており、とりわけサモア大首長国は後に大交易帝国を形成するトンガを含むポリネシアの広大な領域を勢力圏に収めていたようである。
 他方、ミクロネシアでもやや遅れて、今日のミクロネシア連邦の首都があるポンペイ島にシャーウテール王朝と呼ばれる比較的整備された王朝が形成された。また石貨で知られるヤップ島にも強大な首長国が形成され、カロリン諸島全域を一種の朝貢貿易圏に収めていたと考えられる。

 なお、これら閉鎖文化圏と交易文化圏の間での相互交渉は基本的に存在しなかったと見られるが、オーストラリア先住民に関しては、一部にポリネシア人との混血も認められるなど、正確な時期や程度は不明ながら、ポリネシア系集団との部分的な接触がなされた可能性はある。

2016年9月12日 (月)

弥助とガンニバル(連載第1回)

 本連載のタイトルに表れる弥助とガンニバルは、歴史上の人物として全く無名というわけではないが、頻繁に話題になるような人物ではない。共通するのは、どちらもアフリカ人であること、そして奴隷身分から解放され、縁もゆかりもない東の国で武人として活動したことである。
 弥助は17世紀後半、戦国日本の最高執権者・織田信長の家臣となったアフリカ人であり、記録に残る限り、おそらく唯一の黒人武士である。その生没年は一切不詳で、子孫と思しき家系も残されていない。
 一方のガンニバル(生年不詳‐ 1781年)は、正式にはアブラム・ペトロヴィッチ・ガンニバルといい、18世紀、帝政ロシアで軍人となり、最終的には地方総督・貴族にまで叙せられたアフリカ人である。彼はロシアに帰化・定着し、近代ロシアの文豪プーシキンは母方からガンニバルの曾孫に当たる。
 このように、異なる時代と場所で活動した二人のアフリカ武人は、いずれもアフリカ奴隷貿易の数奇な副産物であった。歴史上アフリカ奴隷貿易には大きく分けて、イスラーム‐オスマン系の奴隷貿易と西欧系の奴隷貿易とがあり、弥助は後者の、ガンニバルは前者の系統から出た奴隷の出身であった。
 奴隷は通常、商品として市場で売買されてそれぞれの主人の下で労役に従事させられる運命にあるが、弥助とガンニバルは日本やロシアの最高権力者との奇遇により解放され、武人として働くことになった「幸運」な者たちであった。
 彼らはもちろん奴隷貿易のシステムから生じた例外中の例外であり、他に記録の残る類例は見当たらない。その意味では、一般化できない当該時代限定の特殊例として扱うべき人物なのであるが、本連載ではそうした際物的な列伝を回避し、特殊例の二人を通して、二人を生み出した二系統のアフリカ奴隷貿易を史的に通覧してみたい。
 その際、弥助とガンニバルが組み入れられた中近世日本と近世ロシアという二つの辺境的な東方国家を奴隷貿易システムの中に位置づけ直すという稀少な試みにも出てみたいと思っている。また前面に押し出すことはあえてしないが、通奏低音的には人種差別の根源に触れることにもなるであろう。

2016年9月11日 (日)

STAP再評価

 不正問題で揺れ、自殺者まで出し、日本では否定されたSTAP細胞だが、海外では近時、再評価の動きがあるようだ。例えば、米国のセントルイス・ワシントン大学が酸性浴で癌細胞を初期化する実験に成功し、報告論文の中で、問題となった理研論文も引用しているという。
 ただし、これは理研論文とは異なる手法による実験であり、理研と同じ手法で再現実験したドイツのハイデルベルク大学は失敗しているとのことで、STAP理論そのものが認められたわけではない。
 とはいえ、セントルイス・ワシントン大学の研究は「物理的刺激による体細胞の初期化」というSTAP理論のユニークな「発想」自体は、生物学上荒唐無稽なものではなかったことを示すものである。
 筆者自身、以前の記事で、「門外漢にとってなお気になるのは、STAP細胞なるものは生物学の理論上あり得ないものなのか、それとも理論上はあり得るが、実験室で作成する技術がいまだ開発されていないのか、という点である。」と記したところだが、これへの回答は海外から出始めているようである。
 海外研究者は不正問題の部外者であり、局外中立的に改めてSTAP理論を再評価し、そのコンセプトを自由に検証しやすいのかもしれない。しかし科学の余白を埋める探求は不正問題と切り離して行なわれるべきものであることは、国内外を問わない。日本の研究者も、後に続くことを期待したい。

2016年9月 9日 (金)

仏教と政治―史的総覧(連載第18回)

六 中国周辺国家と仏教

朝鮮への伝来
 中国の東で接する朝鮮半島への仏教の伝播も比較的早くに起こっている。中でも今日の中国東北部までまたがる広域な領土を持った高句麗である。高句麗には、小獣林王時代の372年、当時五胡十六国中最有力だった前秦の皇帝苻堅が僧の順道とともに仏像・経文を送ったのが初の仏教伝来とされている。
 これに続いて、わずか2年後の374年には南朝の東晋からも僧阿道が派遣されてきたという。前秦と東晋からの相次ぐ仏教伝来は、当時大陸の覇権を争っていた両強国による高句麗取り込みのための政治工作の一環もあったと考えられるところである。
 高句麗では、小獣林王から故国壌王、広開土王と領土拡大が続いた全盛時代に仏教が奨励され、王の主導で多くの寺院が建立された。こうして法制面での律令制度とともに、仏教が古代国家建設の精神的支柱となったのである。
 高句麗に遅れること10年、384年には高句麗と同系とされる南の百済にも東晋から仏教が伝来する。ただ、高句麗に比べて王権が弱く、国家の整備も遅れていた百済では、仏教の隆盛は6世紀前半、自身も篤い仏教信者であったらしい聖王の治世のことであり、この時代には百済から同盟国日本へも仏教が伝えられている。
 朝鮮のいわゆる三国時代で最も後発の新羅への正式な仏教伝来年は不詳であるが、528年、当時の法興王が仏教を公認して以後、新羅では護国仏教が隆盛化する。最終的に半島を統一することとなった新羅は唐の時代とほぼ並行したため、唐からの仏教僧の渡来が相次ぎ、特に禅宗がもたらされた。
 統一新羅滅亡後の混乱を収拾した高麗王朝は、新羅仏教を継承しつつ、鎮護国家思想の下、仏教を篤く保護したため、体制と強く結びついた朝鮮仏教はこの時代に最盛期を迎える。13世紀、モンゴルの侵攻に際して護国祈願のため製作された浩瀚な木版経典高麗八萬大蔵経はその象徴とも言える。
 こうした状況を一変させたのは、14世紀末に北方軍閥から出た李氏朝鮮王朝の廃仏政策である。高麗支配層の解体を目指した朝鮮王朝は、儒教を統一的な国学・国教と位置づけ、16世紀初頭にかけて、数次に及ぶ系統的な寺院の閉鎖を通じた仏教弾圧策により、朝鮮仏教を著しい衰退状況に追い込んだ。それは政治的・思想的な弾圧にとどまらず、仏教僧を最下層の被差別民にまで落とすほど社会経済的な構造にも踏み込んだ徹底的な廃仏策であった。
 とはいえ、高麗時代に知訥が創始し、民衆仏教として民間に浸透した禅宗系の曹渓宗は閉塞しながらも地下で生き続け、朝鮮王朝末期には、仏教復興の中心的な存在となった。その後、大日本帝国の支配と独立をくぐり抜け、曹渓宗は今日の韓国仏教界における最大勢力を占めるに至っている。

2016年9月 7日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第2回)

第一部 誕生~歴史

(1)先住者たち
 かつては無人地帯だった先史オセアニアへの人類の移住波は、大きく二つあると見られている。その第一波は、人類学上オーストラロイドと総称される人種に属する集団の移住である。この集団は、しばしばネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドに続く第四の人種と呼ばれることもある。
 かれらの原郷は南インドと見られ、紀元前5万年前後の旧石器時代に、今日のスリランカ、スンダ列島を経由し、当時は包括的な大陸(サフル大陸)を構成したと推定される今日のニューギニア、オーストラリア方面に移住してきたと考えられる。
 肌が浅黒く彫りの深い容貌を特徴とするこの集団の代表的な子孫は、オーストラリア先住民(アボリジニ)とニューギニアの主要民族であるパプア人である。かれらは小さな部族ごと多岐に分かれ、言語的にも多様性が高い。特にパプア諸語においてこの傾向は著しく、相互の系統関係の立証が不能なほどである。
 このうちオーストラリア先住民は広大なオーストラリア大陸中央の平原部に定着し、多数の部族に分かれて、巡回型の狩猟採集生活を営む民族として固定されていった。パプア人はニューギニア島の熱帯雨林、山岳地帯の定住民となった。
 そのニューギニア島を中心とするメラネシアとはギリシャ語で「黒い島々」を意味するように、肌の色の黒い住民を特徴とする。このことは、メラネシアは当初、パプア系集団の周辺島嶼への移住によって形成された地域であったことを意味する。

 こうしたオーストラロイド系集団に続く移住第二波は、モンゴロイド集団によるものであった。時期的にははるかに遅く、紀元前4000年は下らない。かれらはラピタ文化と呼ばれる共通の土器文化を発達させた。
 かれらの原郷は台湾と見られ、その点では、台湾先住民や東南アジアのマレー系諸民族などとも共通祖先を持つ集団である。その痕跡は言語にも残されており、今日、オセアニアにおいて大言語集団を成す大洋州諸語は包括してオーストロネシア語族マレー・ポリネシア語派に分類されている。
 かれらは遠洋航海術に優れた海洋民族であり、そのことがかれらの太平洋地域全域への拡散を可能にした。その拡散の軌跡はラピタ土器の分布に示されており、メラネシアに属するビスマルク島(現パプアニューギニア領)を起点に東方へ拡散していき、今日のポリネシア人になったと推定される。また起点となったメラネシアでも先住のパプア系民族と混血し、メラネシアを一部ラピタ化している。 
 ポリネシア人の東方拡散はさらに続き、ハワイやニュージーランド、イースター島、さらに一部は遠く南米にまで及んだものと見られる。「多くの島々」を意味するポリネシアがオセアニア海洋部では最大域を持つゆえんである。
 なお、オセアニア北部、「小さな島々」を意味するミクロネシアの形成過程については不明な点が多いとされるが、この地域は東南アジアとの境界域でもあることから、フィリピン、インドネシア方面からのマレー系住民の移住があった可能性は高い。他方、この地域の住民はポリネシア系やメラネシア系が混淆しており、オセアニア域内からの移住も含めた多様な形成過程を持つと見られる。

2016年9月 4日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第1回)

 世界を大地域ごとに見渡した場合、南太平洋地域とほぼ重なるオセアニアは、相対的に世界で最も平和な地域と言える。風光明媚なビーチ・リゾートでくくられがちなイメージもあながち誤りでない。しかし、オセアニアは地球上の他地域から隔絶された地上の楽園ではない。
 オセアニアは今日でも、旧帝国主義列強の仏・米・英の海外領土を多数残しているし、太平洋戦争に名を残すとおり、近代世界戦争の戦場にもされた。戦後は、米・英・仏の核実験場として利用されたことを教訓としつつ、非核地帯条約により、アフリカ大陸と並び、地球上で核兵器を持たない地域としての名誉に浴している。
 一方で、オセアニアに広がる低海抜の小島嶼国家の中には、海面上昇現象のために将来的な水没・滅亡の可能性が予測される国も存在するなど、現代的な地球環境問題の最前線ともなっている。
 ちなみに、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』の舞台となる独裁帝国は「オセアニア」であるが、これは第三次世界大戦の結果、世界に出現した三大帝国(残り二つはユーラシアとイースタシア)の一つという想定である。 
 それはアメリカを主軸に、イギリスや南アフリカなども含み込み、オーストラリアを中心とした地理的概念としてのオセアニアにまで広がった超帝国であって、所謂オセアニアと同義ではない。
 ただ、今日のオセアニアは、地域の実質的な盟主格であるオーストラリアに加え、この地域になお多くの領土を持つ米・仏、発展した中国も含めた経済列強の触手が競争的に伸びる草刈場となってきており、オセアニアを勢力圏に含み込んだオーウェル的超帝国が将来出現しないという保証はない。
 オセアニアの誕生から歴史、現況から未来を通覧すれば、そこに世界の縮図を見ることになる。本連載は、域内人口4000万人弱、世界人口の0.5パーセント程度という小さな地域でありながら、世界の縮図として様々なパースペクティブを提供するオセアニアの私家版地誌である。

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30