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2016年8月 4日 (木)

私家版朝鮮国王列伝(連載最終回)

二十二 高宗・李熙(1852年‐1919年)/純宗・李坧(1874年‐1926年)

 李昰応・興宣大院君(大院君)の項でも先取りしたように、26代高宗は大院君の次男であり、先代哲宗との血縁の遠さからすれば、実質上高宗をもって王朝交代があったとみなしてもよいほどの断絶がある。
 それを裏書きするように、高宗治世の前半期はまず実父大院君、続いて正室閔妃に実権を握られ、国王は名目的な存在であった。実際、高宗は年少で即位したうえ、長じてからも政治的に無関心で、放蕩に興じていたとされる。
 従って、高宗治世の前半期は大院君及び閔妃の項で述べたことがほぼそのままあてはまることになる。高宗が図らずも親政に転じなければならなかったのは1895年、閔妃が殺害された乙未事変以降のことである。
 乙未事変の直後、親露派が巻き返しの対抗クーデター(春生門事件)で高宗を奪還しようとするも失敗、しかし親露派は翌年、再び民衆暴動を煽動する形で決起し、高宗をロシア公使館に逃げ込ませることに成功した。
 こうして親露派は高宗をロシアの庇護下に置きつつ、反露・親日派を粛清排除し、実権を掌握した。この親露政策は晩年の閔妃の路線でもあり、当面これが踏襲された形となった。そのことが、どの程度高宗自身の意思によるものかは定かでない。
 ともあれ、一国の王が外国公館内にあって執務を行なうことは、もはや独立性を喪失したに等しく、この親露期の朝鮮王朝は事実上帝政ロシアの属国であった。この状況に対し、立憲君主制への移行を目指す開化派が独立協会を結成して対抗した。
 その結果、高宗は97年、ロシア公使館を出て王宮に帰還、同年には国号を大韓帝国と改称し、自身が改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位した。高宗光武帝は立憲君主制こそ受け入れなかったが、一定の近代化改革に乗り出す積極姿勢を見せるも、改革をやりぬくための財政基盤と手腕が欠けていた。
 そうした中、朝鮮に対する支配力の奪回を虎視眈々と狙う大日本帝国は帝政ロシアに対する攻勢を強め、領国の緊張関係はついに開戦につながる。この戦争は大方の予想に反し、日本の勝利に終わった。
 この間、日本は戦時中の1904年には第一次日韓協約をもって大韓の内政外交に関与する権限を獲得し、これを米国にも認めさせることに成功していた(桂‐タフト密約)。その延長上で、日露講和条約(ポーツマス条約)をもって日本の大韓に対する優越権を承認させた。
 この第二次日韓協約は大韓を事実上日本の保護国とするもので、もはや完全な併合まであと一歩であった。こうした日本の攻勢に対し、高宗側も抵抗を示し、07年には第二次協約の無効性を主張する密書を万国平和会議に送ったが、当時の帝国主義的な国際法常識に照らし、高宗側の主張は容れられず、この密使事件はかえって日本側の不興を買い、高宗は親露派から親日派に転じていた李完用総理の画策により退位に追い込まれることになった。
 こうして、最後まで優柔な高宗はその40年以上に及ぶ長い治世を通じてほとんど主体性を発揮することはなかった。高宗に代わって2代皇帝に即位したのは、閔妃との間の長男純宗であった。
 純宗はすでに30代に達していたが、何の実権も与えられず、日本とその代理である親日勢力の傀儡皇帝にすぎなかった。そうした中、日本は第三次日韓協約をもって大韓の国政全般の干渉権を手中にし、軍の解散にまで及んだ。
 これに対する大韓義勇軍人による抗日闘争(義兵闘争)が激化する中、日本は完全な併合を急ぎ、1910年、条約をもってついに正式の併合を実現させた。皮肉にも、自主独立への決意を込めて大韓帝国に再編してわずか13年での亡国であった。
 併合後、旧李王家は法的には日本の王公族として、皇族に準じた地位を与えられ、高宗は徳寿宮李太王の称号で19年まで、純宗も徳寿宮李王の称号で26年まで存命したが、もはや形ばかりの存在であった。
 純宗には子がなく、最後の皇太子となった高宗七男李垠は日本皇族梨本宮方子と婚姻し、その間に生まれた次男李玖が次代当主となるも、子はなく、この韓日混血王統は2005年の玖の死去により断絶した。なお、現在の李家は一般公民化したうえ、高宗五男の庶流系統が継承している。

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