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2016年8月12日 (金)

仏教と政治―史的総覧(連載第14回)

五 中国王朝と仏教

仏教の伝来と受容
 後代、東アジア全域への仏教伝来の拠点となる中国の仏教は、シルクロード経由で西域から伝来したものであることは確実であるが、伝来の正確な日付までは確定していない。考古学的な証拠によると、後漢時代の西暦1世紀代にはおそらくは交易に付随して仏像がもたらされていたと考えられている。
 より本格的な仏典に関しては、148年に後漢の首都洛陽に渡来した訳経僧の安世高が最初の漢訳者であったとされる。安世高は元来、イラン系の遊牧王朝パルティア王国の王子だったが、釈迦同様、その地位を捨てて出家、諸国歴訪の末、後漢に渡来したという。彼は多数の仏典を漢訳し、中国仏教に最初の礎石を置いた。
 続いて、少し遅れて渡来したクシャーナ出身の支婁迦讖は大乗仏教系の仏典を集中的に漢訳し、中国仏教の基本となる大乗仏教の普及に大きな役割を果たしたと見られる。その他、初期の訳経僧はほとんどが西アジア出身のイラン系民族に属する僧侶であった。
 時の後漢体制が仏教にどのような態度をとったかは必ずしも定かでないが、西方からの訳経僧が相次いだ時代の11代桓帝は、個人的に仏教に傾倒していたことが記録されている。おそらく、この時代の仏教は中国ではまだマイナーな外来信仰に過ぎず、一種のエキゾティシズムの観点から「青い目」をした渡来僧の活動を許容していたものであろう。
 一方、中国人最初の出家者として記録されるのは、三国時代は魏の朱士行とされる。彼は洛陽でパルティアからの渡来僧・曇柯迦羅の教えを受けて感化出家したが、仏典の理解を原典によって深めるべく、西域に旅立ち、仏教国ホータンに到達した。彼はそこで般若経典の原典を入手し、中国へ送り、漢訳させたが、自身は帰国しないまま、客死したという。
 三国時代の3世紀代には、やはり西方からの渡来僧によって仏教が江南地方にも広がりを見せたが、中国仏教の基礎が本格的に築かれるのは、五胡十六国時代を迎える4世紀代のことである。とりわけ、仏図澄と釈道安の師弟の働きが大きかった。
 仏図澄は西域の亀茲国出身とされ、310年に洛陽に渡来した。しかし、時は五胡十六国の内戦時代に突入していた。そうした中、彼は羯族の国・後趙を建てた石勒と後に3代皇帝となる石虎に軍師として仕えた。
 仏図澄は後趙皇室の庇護の下、実践的な教えで漢人の間にも信者を増やし、その中から釈道安が現れる。379年、氐族が建てた前秦によって拉致され、3代皇帝苻堅の顧問となった彼は苻堅の庇護の下、仏典研究に励むが、師と同じく亀茲国出身の高僧・鳩摩羅什の招聘は実現せず、前秦と運命を共にした。
 鳩摩羅什の渡来は、前秦に続いて台頭した後秦の時代に実現する。彼は2代皇帝姚興の国師として、その庇護の下、多数のサンスクリット経典の漢訳に当たり、最初の三蔵法師と称されている。
 このように、中国仏教は五胡十六国時代の混乱の中、主として有力な遊牧少数民族系国家に庇護される形で、最初の発展期を迎えたことが特徴的である。おそらく、儒教を確立していた漢人よりも少数民族のほうが仏教を受容しやすかったのであろう。この傾向は少数民族が築く南北朝時代の北朝にも継承されていく。

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