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2016年8月20日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第15回)

五 中国王朝と仏教

廃仏と崇仏の狭間で
 南北朝時代から五代十国時代にかけての中国仏教の特徴として、為政者による廃仏と崇仏の間を揺れ動いたことが挙げられる。この時期における大規模な廃仏は四度あるが、その初例は北朝北魏の3代皇帝太武帝による446年の廃仏である。
 鮮卑族が建てた北魏では建国以来、仏教が盛んであったが、太武帝の治世では、道士の寇謙之が巧みに皇帝に取り入り、道教を自ら体系化し直した新天師道を吹き込んでいた。
 皇帝は446年、反乱平定に際し、捜索した長安の寺院から大量の武器が発見・押収された一件を口実に、廃仏の詔を発布し、大々的な仏教弾圧に乗り出す。
 しかしこの廃仏政策は一時的のもので、太武帝の没後、曇曜が仏教の再興に尽くし、遷都された新王都洛陽は中国仏教の中心地となる。曇曜が建設を主導し、世界遺産にも指定されている雲崗石窟はその象徴である。
 仏教復興後の北魏の時代には、曇鸞を開祖とする浄土教や南インドからの渡来僧達磨が開いたとされる禅宗など中国仏教における有力宗派が誕生している。
 北魏に代表される北朝仏教は、「皇帝即如来」という皇帝崇拝と結びついた国家仏教であり、雲崗石窟に彫られた大仏にも北魏の初期五代の皇帝をイメージしたものが鎮座している。反面、仏教教団は国家による統制下に置かれ、権力の干渉を受けやすかった。
 これに対し、同時期に並び立った南朝でも仏教は保護されていたが、儒教を精神基盤とする漢人系の南朝では国家仏教は発展せず、「皇帝菩薩」と称されるほど仏教に帰依し、自ら仏典注釈書も著した梁の武帝のように、皇帝個人の信仰に左右される傾向があった。
 さて第二回の廃仏は、北魏の東西分裂後、西魏から出た北周武帝時代の574年である。武帝は儒・仏・道の主要三教の優劣論議を主宰するなど、宗教的には相対主義者と見られていたが、このうち仏・道を禁ずる詔を発する一方で、三教の国立研究機関として、通道観を設立した。
 この施策は、仏教弾圧というよりは、仏教を道教とともに学術化して国家統制を強化するとともに、仏教寺院・僧侶の財産没収・国庫収納を図るという財政目的が強いものであった。
 しかし北周を継承する形で統一王朝・隋を開いた文帝は一転して、仏教を国策の精神的な支柱に据える仏教治国策を展開する。その中核となるのが新都大興に開かれた大興善寺であり、後には全国各地への舎利塔建立へと発展していく。
 こうした国策に呼応する形で、隋の時代には天台宗に代表される中国的宗派が続々と誕生もしくは発展していく。しかし短命の隋に取って代わった唐の時代になると、道教を国教とする国策のため、「道先仏後」という形で仏教の位置づけは後退することになる。

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