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2016年8月

2016年8月31日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第17回)

六 中国周辺国家と仏教

ベトナム諸王朝と仏教
 中国で独自の発展を遂げた仏教―中国仏教―は、中国を新たな起点として周辺国へ伝播していくが、その最初の地は南部で接するベトナム(ただし、カンボジアとの結びつきが強い中・南部は除く)であった。
 もっとも、ベトナムへの仏教伝来に関しては、インド方面から直接に伝来したという説と、中国経由で伝来したという説の二つがあるが、ベトナムの地政学的位置からして、両説は必ずしも矛盾するものではない。
 2世紀末のベトナムでは、中国諸王朝がベトナム支配の拠点とした交趾の都ルイラウはベトナムにおける仏教中心地として栄えていた。この地は海のシルクロードの中継地であると同時に、インドから中国へ渡る僧の中継地点ともなっていた。
 ただし、結果から見ると、中国王朝に長く従属したベトナムの仏教には禅宗や浄土教など中国仏教の特徴が濃厚に認められることから、少なくとも最も有力な伝来ルートは中国経由と見てよいであろう。
 ベトナムは、中断をはさんで紀元前111年から紀元後939年までという長期にわたり中国諸王朝に従属したが、このいわゆる北属期に、仏教のみならず、儒教、道教など中国的宗教がベトナムにも流入し、土着宗教とも混淆しながら、ベトナム仏教が醸成されていったと考えられる。
 そして独立後の10世紀後半以降、丁朝と前黎朝の時代に仏教が王朝により公認され、国作りの支柱となったことで、仏教の地位が飛躍的に向上し、大衆にも浸透していった。さらに、11世紀から13世紀にかけての長期に及んだ李朝の下、仏教は国教としてその全盛期を迎える。
 李朝は前黎朝の将軍だった李公蘊が創始したが、父親知らずの彼は寺院で仏教僧に養育されたため、個人的にも篤い仏教徒であったことが王朝の仏教傾倒を特徴付けることとなった。李朝では仏教僧が封建領主となり、寺院は富者からの布施によって大いに潤った。
 こうした仏教国教策は李朝を継いだ陳朝にも継承されたものの、この頃から儒教の台頭が起き、儒教官僚の中からは仏教批判者も現れた。儒教の隆盛は、明朝による占領支配を経て15世紀から18世紀末まで続く後黎朝の時代に決定的となり、以後、仏教は閉塞期を迎える。
 ベトナム全土を初めて統一した最後の王朝阮朝は、フランスとカトリックの攻勢への対抗上、仏教にもある程度の保護を与えたが、基本的には中国的儒教国家であり、仏教の大々的な復興は成らなかった。

2016年8月28日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第16回)

五 中国王朝と仏教

仏教の完成と衰退
 道教を国教としたため、仏教の地位が後退した唐の時代ではあったが、末期を除いて仏教が弾圧されることはなく、唐の時代は中国仏教の完成期と言ってよい時代であった。ただし、南北朝時代に芽生えた末法思想の系譜を引く三階教だけは体制を脅かす危険宗派として弾圧された。
 皇后から出て、クーデターにより唐朝を一時中断し、独自の周(武周)を建てて中国史上唯一の女帝となった武則天は個人的にも熱心な仏教徒であり、女帝に寵愛された僧侶の薛懐義は側近として権勢を誇った。武則天は隋の文帝にならい、全国に大雲経寺を建立させるなど、「道先仏後」を「仏先道後」に改める一種の仏教治国策を展開した。
 唐朝が復活した後、仏教は実力を持ち始めた宦官勢力や晩期に割拠するようになった地方の節度使らによって信奉されることになるが、18代皇帝武宗は熱烈な道教信者であったため、大規模な仏教弾圧に出た。史上三度目となる久方ぶりの廃仏であり、4か月ほどの間に寺院の閉鎖や僧侶の強制還俗などが大々的に断行され、中国仏教は一挙に冬の時代を迎えた。
 この会昌の廃仏は、唐の国際性を反映して当時隆盛化していたマニ教・ゾロアスター教・キリスト教(ネストリウス派)のいわゆる唐代三夷教の排斥と同時に断行された宗教統制策であり、本来の国教である道教への統一を狙った体制引き締め策であった。
 しかし、この時代の唐朝体制はすでに衰亡の色濃く、唐は間もなく滅亡、中国大陸は五代十国の分裂状態に陥るが、五代後周の世宗が第四回目の廃仏を断行し、中国仏教の衰退はさらに進んだ。
 五代十国の分裂を止揚した宋の時代は、仏教が効果的な国家統制下に置かれた時代であった。元来、中国仏教は北朝の時代以来、国家統制下に置かれてきたが、宋では国家公認得度制度としての度牒が売買され、国家の財源とされるなど、財政的観点からの統制が公然と行なわれていた。
 宋が金に追われて南遷した南宋の時代になると、特に4代寧宗の時代に主要な禅宗寺院を国家が公認・管理する五山十刹制度を確立した。このように禅宗は国家の庇護を獲得したこともあり、宋代には禅宗が全盛期を迎える。
 しかし南宋はやがて北方から勢力を拡大してきたモンゴルによって打倒され、モンゴル王朝である元に取って代わる。元は後に述べる歴史的な経緯からチベット仏教を国教としており、元の時代にはチベット仏教が隆盛化する。
 他方、浄土教からは、南宋時代に創始された新興宗教結社・白蓮教が元末以降反体制結社として勢力を強め、元朝駆逐・明朝樹立の原動力となる。明建国者の朱元璋(洪武帝)自身も托鉢僧出身で、白蓮教徒でもあったにもかかわらず、彼は即位後、白蓮教を離れ、これを弾圧するなど、明朝時代は廃仏策とはいかないまでも、仏教は振るわず、儒教が再び前面に出てきていた。
 明を打倒した清はモンゴルの影響が強く、皇帝はじめ満州族支配層はチベット仏教徒であったため、禅宗と浄土教に代表されるような中国大陸仏教は衰退・閉塞した状態で、近代を迎えることになるのである。

2016年8月25日 (木)

日本語史異説―史的総覧(連載最終回)

十二 悲しき言語―日本語

 現存言語で、1億人を超える使用者を持ちながら、一国でしか公用語として用いられていない言語は日本語くらいしかない。*インドネシア語も類例に属するが、使用者の多くは第二言語としてのものである。その意味で、日本語は世界最大級のローカル言語と言えるかもしれない。
 そのうえ、海外の諸言語の中にも、通訳をほとんど必要としないレベルで近縁的な言語が存在せず、明白に同系と証明される仲間の言語を見出すこともできない。*その中で、コリア語は相対的に最も近く、広域分類すれば同系にくくることもできるが、語彙的な差異は大きく、通訳なしには通じ合わない。

 こうした事情から、日本語使用者の外語学習も、また外語使用者の日本語学習もともに容易でない状況に置かれている。このことは、日本語を母語として成長した人にとっては、国際的コミュニケーションを困難にし、世界から孤立してしまいやすいという重大な不利益をもたらす。少なくとも、現状、日本語を母語とすることには、国際コミュニケーション上全くメリットはないと言ってよい。1億超の使用者を持つ大言語でありながら、なんとも悲しい位置づけにあるのが日本語である。当連載の副題を「悲しき言語」とした所以である。

 しかし、共通語としての日本語は日本列島内で極めて強固に定着しており、かつそれは新たな時代を迎えて変容し続けている。そこで、日本語が持つ特に不利な特徴のいくつかが今後どのように変容するか、最後に簡単な展望を示してみよう。

三種文字:
 基本的に漢字・平仮名・片仮名の三種文字を併用する稀有の文字体系は、変容する気配がない。おそらく、全文仮名だけで表記するという最も簡明な書記法は、仮名が「女文字」と考えられていた時代からの影響で、いささか稚拙とみなされるため、普及しまい。
 他方、明治時代以来のローマ字表記論も現在では下火であるうえ、ローマ字表記は同音異字の多さという難点をクリアすることが難しく、これをクリアできる漢字の使用は廃止されないだろう。
 もっとも、漢字はパソコンの普及により、記憶しておらずとも、自動変換による表示が可能となり、漢字は書く以上に読む文字となりつつある。このことは、漢字学習の困難を少なからず軽減するだろう。

敬語体系:
 敬語体系も基本的には不変であろう。ただ、今日、敬語使用場面が慣習上減少し、若年者の間では「ため口」のような言語慣習も生まれてきている。現時点ではまだ非礼とみなされがちなこうした敬語の省略現象がどこまで進行するかは微妙だが、全般に、複雑な敬語体系の簡素化が進む可能性はある。このことをもって従来、敬語体系が規律してきた上下の垂直的な人間関係が変容し、より水平な社会編成へ移行しつつある兆候とみなし得るなら、必ずしも悪しき現象ではないだろう。

ジェンダー分割:
 他の言語では類例を見ない「男言葉」「女言葉」の峻別も、日本社会におけるジェンダー差別の解消を阻害してきた一面があるが、近年は女性が「女言葉」から脱却し、よりユニバーサルな言語使用をし始めているように見える。*他方で、あえて「女言葉」を使うことを売りにする男性芸能人も存在するが、これはあくまでも芸能的な言葉遣いであり、一般化しているとは言えない。このことは両性平等の一定の進展を示すとともに、言語のジェンダー分割の相対化は両性平等を促進するだろう。

情感性:
 従来、「日本語は論理的でなく、情感的である」といった評価もなされてきたが、元来、これには疑問もある。少なくとも、多くの漢語と外来語とを取り込んだ現代日本語はむしろ、かなり厳格に論理的な文章表記ないし発話を可能にする条件を備えている。
 それを阻むものがあるとすれば、明治以来の言文一致改革が行き過ぎて、文章語が口語化し過ぎたせいかもしれない。これを改革するには、言文峻別に戻すところまではいかないが、口語体とはいちおう区別された正統的な文章体を確立することである。当ブログが、そのささやか過ぎる実験となることを願って、連載を終える。(了)

2016年8月20日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第15回)

五 中国王朝と仏教

廃仏と崇仏の狭間で
 南北朝時代から五代十国時代にかけての中国仏教の特徴として、為政者による廃仏と崇仏の間を揺れ動いたことが挙げられる。この時期における大規模な廃仏は四度あるが、その初例は北朝北魏の3代皇帝太武帝による446年の廃仏である。
 鮮卑族が建てた北魏では建国以来、仏教が盛んであったが、太武帝の治世では、道士の寇謙之が巧みに皇帝に取り入り、道教を自ら体系化し直した新天師道を吹き込んでいた。
 皇帝は446年、反乱平定に際し、捜索した長安の寺院から大量の武器が発見・押収された一件を口実に、廃仏の詔を発布し、大々的な仏教弾圧に乗り出す。
 しかしこの廃仏政策は一時的のもので、太武帝の没後、曇曜が仏教の再興に尽くし、遷都された新王都洛陽は中国仏教の中心地となる。曇曜が建設を主導し、世界遺産にも指定されている雲崗石窟はその象徴である。
 仏教復興後の北魏の時代には、曇鸞を開祖とする浄土教や南インドからの渡来僧達磨が開いたとされる禅宗など中国仏教における有力宗派が誕生している。
 北魏に代表される北朝仏教は、「皇帝即如来」という皇帝崇拝と結びついた国家仏教であり、雲崗石窟に彫られた大仏にも北魏の初期五代の皇帝をイメージしたものが鎮座している。反面、仏教教団は国家による統制下に置かれ、権力の干渉を受けやすかった。
 これに対し、同時期に並び立った南朝でも仏教は保護されていたが、儒教を精神基盤とする漢人系の南朝では国家仏教は発展せず、「皇帝菩薩」と称されるほど仏教に帰依し、自ら仏典注釈書も著した梁の武帝のように、皇帝個人の信仰に左右される傾向があった。
 さて第二回の廃仏は、北魏の東西分裂後、西魏から出た北周武帝時代の574年である。武帝は儒・仏・道の主要三教の優劣論議を主宰するなど、宗教的には相対主義者と見られていたが、このうち仏・道を禁ずる詔を発する一方で、三教の国立研究機関として、通道観を設立した。
 この施策は、仏教弾圧というよりは、仏教を道教とともに学術化して国家統制を強化するとともに、仏教寺院・僧侶の財産没収・国庫収納を図るという財政目的が強いものであった。
 しかし北周を継承する形で統一王朝・隋を開いた文帝は一転して、仏教を国策の精神的な支柱に据える仏教治国策を展開する。その中核となるのが新都大興に開かれた大興善寺であり、後には全国各地への舎利塔建立へと発展していく。
 こうした国策に呼応する形で、隋の時代には天台宗に代表される中国的宗派が続々と誕生もしくは発展していく。しかし短命の隋に取って代わった唐の時代になると、道教を国教とする国策のため、「道先仏後」という形で仏教の位置づけは後退することになる。

2016年8月18日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第22回)

十一 情報社会と通俗日本語

 敗戦により帝国言語の時代が終焉すると、日本語は再び日本列島の「島言葉」の地位に戻っていったが、標準語としての日本語の骨格はすでに完成されており、戦前と戦後でラングとしての日本語に根本的な相違があるわけではない。しかし文字言語・音声言語両面において、戦後日本語は日本語史の新たな段階を画している。

 戦後日本語の目に見える最も大きな変化は、漢字に否定的な占領軍の国語政策を契機とする漢字の字体改革である。従来はおおむね康熙字典に搭載された字体に従っていたものを、慣習的に使われていた略字や誤字の類を正式に採用し、簡略な漢字に置換したのである。これにより、識字の妨げとなっていた画数の多い複雑な漢字が排除され、来る情報社会に不可欠な識字率の向上にも寄与したであろう。
 漢字の字体改革と同時に、仮名遣いの改革もなされ、従来の仮名遣い(歴史的仮名遣い)よりも実際の発音に即した表音主義的な仮名遣いに改訂された。この現代仮名遣いは、ローマ字表記論を退けつつ、ローマ字のように発音と文字を極力一致させることで表記を明快に整理したものであり、保守的な文学者たちからの批判を受けながらも、今日に至り、確実に定着を見た。

 また語彙における大きな変化として、英語・英語情報の流入による外来語の急増がある。戦後の占領を経て米国の文化的・学術的な影響が著しく強まると、専門的な術語を中心に、米国経由で英語起源の外来語が一挙に増加していった。同時に、日本独自の和製英語も加わる。この傾向は現在に至るまで続いており、おそらく年々、新規の外来語が累積していっているであろう。

 一方、話し言葉のレベルでも、テレビ放送の開始が日本語史に新たなページを開いた。明治維新とともに政策的に導入された標準語は、教育言語・公用言語として規範性を持たされていたが、ラジオ、続いてテレビの普及は、話し言葉のレベルで標準語の普及を促進し、慣習的な共通語としての日本語を確立させたのである。
 そうした標準語の共通語化過程において、ラジオの時代から音声メディアの中心を担っていた日本放送協会(NHK)の果たした役割は小さくなかったであろう。NHKの話し手であるアナウンサーの話す日本語が共通語の正統的な範例とみなされ、模倣されたからである。もっとも、NHKが日本語史において果たしてきた役割については未解明の点も多く、今後の検証が待たれる。
 NHKに続いて設立が相次いだ民間テレビ局は次第に娯楽性を強め、アナウンサー以上に番組に出演する芸能人と呼ばれる話術者の語りが大衆にも影響を及ぼすようになる。時に品格を欠くこともあるかれらの語り口や口癖がそのまま流行語となることも少なくなく、かれらの影響力はおそらく語りのプロであるアナウンサー以上である。

 さらに1990年代半ば以降、インターネットという新たなメディアが普及すると、従来はマスメディアの受動的な消費者であった大衆が自ら情報発信をするようになってきた。インターネットは基本的に文字情報の集積であるが、近年は動画を通じた音声情報の発信も容易になっている。
 インターネットを通じた発信は個別性が強いため、個人の語り口としてのパロールが前面に出てきやすい。その結果、ラングのレベルでの文法的規範が型崩れし、国語学者が「日本語の乱れ」を慨嘆するような言葉の誤用も増加してきている。学者の警告にもかかわらず、そうした誤用が模倣され、普及すれば、共通語としての日本語はさらに変容していくであろう。

 こうして、共通語としての日本語が定着し、通俗的に変容していくにつれ、かつての標準語はもはや規範的な言語ではなくなり、大衆化された言語手段となっている。それはある種の格調の喪失という犠牲も伴っているが、そうした通俗化は、英語なども含め、共通語として定着を見た言語全般に不可避的に訪れる言語発展段階である。

2016年8月12日 (金)

仏教と政治―史的総覧(連載第14回)

五 中国王朝と仏教

仏教の伝来と受容
 後代、東アジア全域への仏教伝来の拠点となる中国の仏教は、シルクロード経由で西域から伝来したものであることは確実であるが、伝来の正確な日付までは確定していない。考古学的な証拠によると、後漢時代の西暦1世紀代にはおそらくは交易に付随して仏像がもたらされていたと考えられている。
 より本格的な仏典に関しては、148年に後漢の首都洛陽に渡来した訳経僧の安世高が最初の漢訳者であったとされる。安世高は元来、イラン系の遊牧王朝パルティア王国の王子だったが、釈迦同様、その地位を捨てて出家、諸国歴訪の末、後漢に渡来したという。彼は多数の仏典を漢訳し、中国仏教に最初の礎石を置いた。
 続いて、少し遅れて渡来したクシャーナ出身の支婁迦讖は大乗仏教系の仏典を集中的に漢訳し、中国仏教の基本となる大乗仏教の普及に大きな役割を果たしたと見られる。その他、初期の訳経僧はほとんどが西アジア出身のイラン系民族に属する僧侶であった。
 時の後漢体制が仏教にどのような態度をとったかは必ずしも定かでないが、西方からの訳経僧が相次いだ時代の11代桓帝は、個人的に仏教に傾倒していたことが記録されている。おそらく、この時代の仏教は中国ではまだマイナーな外来信仰に過ぎず、一種のエキゾティシズムの観点から「青い目」をした渡来僧の活動を許容していたものであろう。
 一方、中国人最初の出家者として記録されるのは、三国時代は魏の朱士行とされる。彼は洛陽でパルティアからの渡来僧・曇柯迦羅の教えを受けて感化出家したが、仏典の理解を原典によって深めるべく、西域に旅立ち、仏教国ホータンに到達した。彼はそこで般若経典の原典を入手し、中国へ送り、漢訳させたが、自身は帰国しないまま、客死したという。
 三国時代の3世紀代には、やはり西方からの渡来僧によって仏教が江南地方にも広がりを見せたが、中国仏教の基礎が本格的に築かれるのは、五胡十六国時代を迎える4世紀代のことである。とりわけ、仏図澄と釈道安の師弟の働きが大きかった。
 仏図澄は西域の亀茲国出身とされ、310年に洛陽に渡来した。しかし、時は五胡十六国の内戦時代に突入していた。そうした中、彼は羯族の国・後趙を建てた石勒と後に3代皇帝となる石虎に軍師として仕えた。
 仏図澄は後趙皇室の庇護の下、実践的な教えで漢人の間にも信者を増やし、その中から釈道安が現れる。379年、氐族が建てた前秦によって拉致され、3代皇帝苻堅の顧問となった彼は苻堅の庇護の下、仏典研究に励むが、師と同じく亀茲国出身の高僧・鳩摩羅什の招聘は実現せず、前秦と運命を共にした。
 鳩摩羅什の渡来は、前秦に続いて台頭した後秦の時代に実現する。彼は2代皇帝姚興の国師として、その庇護の下、多数のサンスクリット経典の漢訳に当たり、最初の三蔵法師と称されている。
 このように、中国仏教は五胡十六国時代の混乱の中、主として有力な遊牧少数民族系国家に庇護される形で、最初の発展期を迎えたことが特徴的である。おそらく、儒教を確立していた漢人よりも少数民族のほうが仏教を受容しやすかったのであろう。この傾向は少数民族が築く南北朝時代の北朝にも継承されていく。

2016年8月11日 (木)

「平安死」の概念提起

 先月発生した障碍者施設襲撃殺傷事件の犯人が「安楽死」という語を使用したために、すっかり汚れてしまった「安楽死」であるが、実際のところ、犯人が個人的に、またナチスが政策的に実行した障碍者抹殺は「安楽死」などではなく、まさに殺戮そのものである。

 本来の「安楽死」とは、自然死の苦しみから解放されるため、患者個人の意志により平安な人為的死をもたらすことであって、医師が実施する医療行為の一種である。しかも、法律上明確に根拠と条件・方法とが定められなければならず、医師が個人的に実施することはあくまでも違法行為である。

 そのようなものであるとすれば、「安楽死」という用語もこの際、改訂したようがよさそうである。安楽という語には、いささか安易というニュアンスが付着しており、闘病せず安易に死を選ぶという非難がましい含みが混ざり込む恐れがある。

 如上のような本来の趣旨からすれば、用語上も「安楽死」よりも「平安死」のほうが適切ではないかと思われる。とはいえ、言葉を変えても、そのような「平安死」を容認するかどうかは、まさしく生と死に関わる重いテーマであることに変わりない。

 筆者はこれまで「宿命死」という思想から、人為的に死をもたらすことに他ならない「平安死」については否定的であったが、最近、心境の揺れも生じている。心身の痛みのコントロールによって死苦が緩和できる限りにおいて、平安死は必要性がないと考えるが、もしそうしたコントロールに限界があるとしたらどうか。

 自分自身が末期癌の痛みに耐えられるか、また筋萎縮性側索硬化症(ALS)のように、身体は麻痺しながら意識だけは明晰に保たれた状態で死を待つ身となった場合、その状態に耐えられるか、という問いに答えることは難しい。

 この問いに関して、現時点では依然明快な解答を出せないのであるが、少なくとも「安楽死」という語は「平安死」に取って代えることで、それを切望する人々の心境を理解する手がかりとはしてみたいと思うものである。

2016年8月 7日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第21回)

十 帝国言語の時代

 標準語という形で、さしあたり国内の方言抑圧に成功した日本語は、続いて海外に進出していく。これは、明治政府の帝国主義的膨張に伴う言語輸出として行なわれた。その嚆矢となったは日清戦争勝利の結果、獲得した台湾であった。*琉球語を「外国語」としてみた場合には、琉球「処分」後の琉球を嚆矢とみることもできるが、当連載では琉球語を日本語の強方言とみなすため(拙稿参照)、琉球は方言抑圧の事例とみなすことになる。

 台湾は日本の帝国主義的植民地支配の最初の実験場もあるが、言語政策においてもそうであった。日本は台湾統治開始直後にいち早く国語伝習所(後の公学校)を設置し、日本語普及政策の中核機関とした。これは、植民地経営において、現地人教育を通じ「国語」として標準日本語を普及させる政策であり、強制同化型植民地経営の特徴を示すものであった。
 このような台湾における言語強制を伴う日本独特の同化型植民地支配は、1910年の韓国併合後の韓国でも応用されることとなった。ただ、一方で、戦勝の結果獲得した台湾とは異なり、外交的・軍事的圧迫により併合を実現させた韓国では、慰撫的なバランス策として、「文化政治」が強調され、当初はコリア語の識字にも尽力するなどの二重政策が採られた。*この時代、コリア語は日本語の一分派であると主張する「日鮮同祖論」が言語学者・金沢庄三郎によって提唱されたが、これは比較言語学的な証明を欠いた謬論であり、二重政策下で日本語の優位性を強調するイデオロギーとして利用されただけであった。

 戦間期の1922年以降、第一次世界大戦敗戦国ドイツから継承した旧ドイツ領南洋諸島の委任統治が開始されると、南洋諸島でも公学校を通じた日本語教育の手法が踏襲され、この地域にも日本語が普及していった。特に南洋庁が置かれたパラオでは、オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語派)に属するパラオ語に日本語からの借用語が多く摂取され、パラオ語は今日でも、日本語と系統を異にする言語にあって最も日本語の影響を蒙った言語となっている。

 日中戦争・太平洋戦争に突入すると、台湾や朝鮮でも臨戦体制を固めるため、皇民化教育が徹底された。台湾では台湾語を含む現地語の使用が禁じられ、朝鮮でも学校教育からコリア語が排除されていった。また創氏改名のように、個人のアイデンティティに関わる氏名すらも日本人化するなどの民族抹殺政策が指向された。
 ちなみに、日中戦争の「成果」でもある日本の傀儡国家・満洲国では、建て前上は複数言語主義ながら、日本人が支配する官庁・軍など公的機関においては、事実上日本語が優先公用語であった。
 また太平洋戦争末期に占領し、軍政下に置いた東南アジア諸国地域でも、軍政の一環として日本語教育が実施されたほど、日本帝国主義は日本語の輸出に極めて熱心であったことが特徴的である。

 こうして、近世以前には日本列島の「島言葉」に過ぎなかったローカル性の強い日本語が、帝国主義的膨張を通じて、20世紀前半期には一挙にアジアの広範囲に拡散・普及することになったのであるが、それも第二次世界大戦での敗戦により崩れ去り、また元の「島言葉」に還っていったのである。

 同化教育によって日本語を強制された台湾や朝鮮では、その反動から解放・独立後、日本語が公用語として残されることはなかった。この点は、西欧の植民地支配から独立後の新興国家の多くで英語や仏語がなお公用語として残されているのと比較しても、対照的である。
 唯一の例外として、前出パラオの一州(アンガウル州)では州憲法の規定により日本語が公用語の一つに掲げられており、現時点で、日本国外において日本語が公用語とされている唯一の事例となっている。ただし、同州でも日本語が日常的に使用されているわけではなく、あくまでも憲法上の標榜にとどまる。

 日本語の帝国言語の時代はすでに何世代も過去のこととなり、忘れられがちであるが、日本語が正当な形で国際語になり損ねる契機ともなった不幸な時代として、日本人・日本語話者は努めて冷静にこれを見据える必要があるだろう。

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