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2016年7月 1日 (金)

私家版朝鮮国王列伝(連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。

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