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2016年7月

2016年7月28日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第13回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

西域諸国と北伝仏教
 今日、日本をはじめ、東アジアで主流を成す大乗仏教はガンダーラに発し、北方ルートで中国を経て伝来したことから、北伝仏教とも呼ばれるが、その伝来ルートについて確実な定説は見られない。
 大雑把には、クシャーナ朝の版図拡大の下、中央アジア出身の大乗系仏教僧らが中国大陸に仏教を宣教した結果と想定されているが、この「中央アジア」には、いわゆる西域のオアシス諸国も含まれる。
 東西トルキスタンを指す西域には、多くのオアシス小国家が点在し、統一国家が形成されることはなかったが、これらオアシス諸国の支配層は多くがアーリア系の民族から成っていた。西域には早くから仏教が伝わっており、諸国の事実上の国教に近い存在となっていたが、宗派は上座部系と大乗系とが同居し、多様であったようである。
 例えば、楼蘭の名で知られるクロライナでは、鄯善国を名乗っていた西暦400年頃、この地を訪れた中国僧法顕が、極めて組織された上座部系の僧団の存在を報告しているが、3世紀半ば頃のカローシュティー文書は、国王を大乗仏教信者としており、両宗派が同居していた(もしくは、時代的変遷があった)可能性がある。
 一方、クチャ(亀茲)は、上座部から分派した説一切有部の中心地となったが、後に大乗仏教が盛んになるなど、時代的変遷が見られる。クチャからは、南北朝時代以降、唐の時代にかけ、中国に多くの僧が渡来している。
 西域における最大の大乗仏教国として定着するのは、コータンナ(ホータン:于闐とも。以下、ホータンという)である。伝承によれば、ホータンは紀元前3世紀頃、インドのマウリヤ朝仏教王アショーカの王子の一人によって建設された都市に由来するという。
 ホータンに仏教が導入されたのは、紀元前1世紀のはじめ頃のこととされる。前出法顕の報告によれば、ホータンにも極めて組織的な僧団があるだけでなく、仏教が民間習俗としても根付いていたという。
 ホータンはシルクロード貿易の中心地であるだけでなく、布教・巡礼僧の往来する交差点でもあり、当地の僧院は、そうした僧向けの宿泊施設としての役割も果たしていたようである。
 ホータンの歴史的な貢献として、法華経や金光明経のような重要文献を含む多量の大乗仏教経典の写本を残したことが挙げられる。ホータン独自の文献としては、詩篇の形態で仏教経典の集成を試みた『ザンバスタの書』が知られる。このような言わば一般向け仏教思想書の存在は、ホータンにおいて仏教が習俗化され、人々の人生観にも深く影響していたことを示唆する。
 ホータンは7世紀に大国化した吐蕃(チベット)の属国となったことで、仏教系術語や仏典の翻訳技術を伝え、後のチベット仏教が大乗仏教系の性格を帯びるうえで、少なからぬ影響を及ぼしたと見られる。

2016年7月24日 (日)

私家版朝鮮国王列伝(連載第21回)

二十一 閔玆暎・明成皇后(1851年‐1894年)

 26代高宗の正室・閔玆暎は通称で「閔妃」と呼ばれるように、驪興閔氏の出であった。閔氏は孔子の高弟・閔子騫の末裔を称する中国系の豪族であったが、さほど有力家系ではなかったところ、大院君の正室にして高宗の生母が閔氏の出であったことで、俄然有力化したのだった。
 閔玆暎(以下、通称により閔妃という)が高宗妃に選定されたのも、高宗生母の推薦あってのことであった。当時の実権者で閔妃の舅となる大院君としても、従来勢道政治で権勢を誇った安東金氏を一掃するうえで、閔妃は利用しやすいと考えたようであるが、この目論見は外れた。
 閔氏は政治的な野心家であり、嫡男(後の純宗)を生むと、大院君追い落としのため、閔氏の派閥を作って権力闘争に乗り出すようになった。その結果、彼女は、大院君追放に成功し、閔氏を中心とする新たな勢道政治が復活した。
 実権を握った閔氏は、排外主義的だった大院君の路線を転換し、開国へ向かった。手始めは、明治維新直後の日本との関係構築であり、その結晶が1876年の日朝修好条規である。しかし、この条約は朝鮮にとり極めて過酷な不平等条約であり、後代の日韓併合につながる伏線であった。
 当時の閔妃は日本の力を借りて朝鮮近代化を図ろうとしており、特に軍の近代化を急ぎ、西欧的な新式軍隊を創設した。しかし、これが裏目となる。封建的な旧式軍隊を放置したことで、旧軍人の不満が高まり、1882年のクーデター(壬午事変)につながる。
 閔妃暗殺を狙ったこの事変では、多数の閔妃派要人が殺害されたが、辛くも脱出に成功した閔妃は清の軍事力に頼り、事変の首謀者と名指した大院君を清に連行させることで、復権を果たした。
 これにより清に借りを作った閔妃は日本をさしおいて清に接近するが、他方でロシアにも接近するなど、閔妃には時々の情勢に応じて周辺大国の後ろ盾を得ようとする事大主義的な傾向があり、このことは文字どおり、自身の命取りにもなる。
 1884年に親日開化派が起こしたクーデター事件(甲申政変)では、再び清の軍事力を借りて、復権した大院君を三日天下で追い落とすことに成功したが、日清戦争で閔妃の最大の後ろ盾となっていた清が敗れると、今度は親露政策に活路を見出そうとする。
 これに不信感を抱いた日本と結託した大院君ら反閔妃勢力が蜂起し、宮殿に乱入して閔妃を殺害した(乙未事変)。こうして、大院君との20年に及ぶ熾烈な権力闘争に明け暮れた閔妃体制は突如、終幕した。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来、朝鮮王朝でしばしば見られた垂簾聴政型の王后とは異なり、君主と同格の王后であった。
 彼女の反動的な勢道政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし、一方で呪術に凝るなど近代主義者としては限界があり、その政治路線も日和見主義的で、一貫しなかった。その点では、ほぼ同時期の清で実権を持った西太后と対比され、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。

2016年7月23日 (土)

世界ボケモン化計画

 目下、世界を駆け巡るポケモンGOは、世界を激変させるかもしれない。ただし、残念ながら、良い激変ではない。
 「歩きポケモン」は普通の「歩きスマフォ」以上に没入しやすいため、交通事故、接触・転倒事故、侵入事件の多発等の危険性はいっそう高く、社会秩序混乱の恐れがある。その意味で、今度の新規商品開発はもはや「ゲーム漬け」のような生易しい問題では済まず、娯楽資本として一線を越えた観がある。
 社会秩序問題をさておいても、四六時中ポケモンに夢中、他のことは眼中に無しという没頭状態になるほど、政治的・社会的な問題に無関心な人間も増え、為政者らはやりたい放題である。従って、社会秩序混乱のコストを負担してでも、為政者らは「ポケモン禁止令」などは出さず、むしろ奨励するだろう。
 ポケモンならぬ世界ボケモン化計画―。
 元来、ファミコン時代以来、電子ゲームの爆発的普及にはそうした資本主義の総愚民化戦略という政治的な側面もあったのだが、ポケモンGOはその究極段階となるかもしれない。人々がすぐに飽きてしまわなければだが。
 ただ、モードの主導者が今回は日本資本以上に米国資本であったことは、日本経済の現状を象徴しているのか。

2016年7月18日 (月)

日本語史異説―悲しき言語(連載第20回)

九 標準日本語の特徴

 現在では共通語として全国的に通用し、日本人にとっては空気のように当たり前になっている標準日本語だが、この言語は純然たる計画言語ではないにせよ、かなり人為的に作り出された言語として、いくつかの特徴を持っている。

 まずそれは関東方言の中でも、江戸方言、とりわけ上層武士層が使用し、明治維新後は高級住宅地となる山の手の言葉をベースとしていることである。そのため、敬語体系が発達しており、これが現代の標準日本語にも継承されている。
 それとも関連して、明治期の山の手住民の女学生間で流行的に発生した敬語体の変種である「上品」な女性言葉が標準日本語に取り込まれ、女性特有の言葉使いとして定着したため、表現の上でのジェンダー分割が他言語でも例を見ないほど高度化した。

 さらに言文一致体であり、従来の文語体と口語体の区別が存在しない。このことは、文章語を平易なものとし、庶民層にとっても文章を綴りやすくする効果を持ったが、反面、文章語の格調を相当程度低下させることにもなった。

 一方で、明治維新後に洪水のごとく流入してきた西洋文献の翻訳の必要上、数多くの新たな和製漢語が創出されたことも特徴である。その限りでは、標準日本語には一種の計画言語性も認められる。この点で個人として多大の貢献をしたのが、まさに「哲学」という漢語の創始者でもある哲学者・翻訳家の西周[にしあまね]であった。
 その西周は新漢語の創出に苦労したせいか、漢字仮名交じり文の廃止と、洋字(ローマ字)による表記法を提唱するに至ったが、これは採用されず、中世以降確立されていた漢字仮名交じり文体は標準日本語に引き継がれた。

 当初は漢字片仮名併用主義であったが、第二次大戦後、新たな外来語の流入により外来語が増大したこともあり、原則的に漢字平仮名交じり文とし、外来語を片仮名表記する形で、三種文字併用主義に定着した。ただし、外来語の一部やデザイン的な表記にあっては、ローマ字を使用することもあり、これを加えるなら、四種文字併用主義とも言える。
 こうした表記法の複雑さに対応して、政府が国語政策として表記法に介入するようになった。国家主義が高まる昭和初期には、正式に国語審議会(現文化審議会国語分科会)が設置され、特に漢字の使用制限に重点が置かれたが、漢字廃止論は採用されていない。

 以上のような特徴を持つ標準日本語は、語彙の点で和製漢語と外来語が増大し、本来の和語の比率が低下したことにより、日本語の前身体たる倭語からの隔たりが大きくなり、別言語とは言わないまでも、近代日本語という新たな言語発展段階を画するものとなったと言える。

2016年7月14日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第12回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

クシャーナ朝と大乗仏教
 インド‐グリーク朝が衰退・分裂した後に、その地で台頭してきたのは、イラン系遊牧諸民族であった。初めはパルティアであり、紀元後間もなく、当地に残るギリシャ人勢力残党を駆逐したのは、かれらであった。
 そのパルティアがローマ帝国との抗争や元来分裂気味の遊牧王朝の特質から衰退し始めると、西方から移住したきた遊牧勢力大月氏の一派とも言われるクシャーナが勢力を増す。大月氏は当初、五部族による連合体であったが、その中からクシャン族のクジュラ・カドフィセスが有力化し、統一王朝を樹立する。
 ここにクシャーナ朝が成立を見るが、クシャーナ朝全盛期を演出したのは、4代国王と目されるカニシカ1世(以下、単にカニシカという)である。カニシカは北西インドのプルシャプラ(現ペシャワル)を首府としつつ、インド東部にまで及ぶ広大な王国を築いた。
 こうした征服者としての顔とともにカニシカを有名にしたのは、仏教の保護者としての顔である。北伝仏教系の記録上は、カニシカが大乗仏教の帰依者であったとされるが、確証はなく、彼の発行貨幣の図像からは、他宗派にも寛容だった形跡がみてとれる。
 ただ、南のスリランカが一大拠点となっていた上座部仏教と対立する意味での大乗仏教の発祥地がクシャーナ王国領内の文化的な中心地ガンダーラにあったことは、ほぼ間違いない。ガンダーラ美術として知られる融合文明的な仏教美術はその産物である。
 とりわけ、仏教の偶像崇拝的な特質の象徴でもある仏像は元来ギリシャ人仏教徒が創始し、パルティア支配の時代を通過して、クシャーナ朝の時代に全盛期を迎え、ガンダーラ美術の代表作となる数々の仏像を生み出した。ガンダーラ仏像は当然にも、その製作者たちの形質的な特徴を反映して、コーカソイド的な風貌に彫刻されている。
 論争はあるも大衆部に由来するとされる大乗仏教は、ガンダーラのような文明の交差点にあって、ギリシャ文明やインド文明、イラン文明など種々の文明要素が融合されて仏教がいささか型崩れし、言わば通俗化される中で形成されたのかもしれない。
 いずれにせよ、ガンダーラを起点とする新たな仏教が、中央アジアを介してシルクロード伝いに東アジアまで伝播していくことになる。カニシカにそうした「布教」の明確な意図があったとは思えないが、結果的に彼はそうした北伝仏教のパイオニアとなったと言える。
 しかし、クシャーナ朝自体はカニシカの没後、衰退を続け、3世紀に台頭したイラン系ササン朝によって滅ぼされた。ササン朝はゾロアスター教を信奉し、他宗派には抑圧的だったが、仏教はササン朝領内の残存クシャーナ勢力の下で、しばらくは維持されたようである。しかし、それも7世紀、イスラーム勢力のペルシャ侵攻によるササン朝の滅亡とともに潰えた。
 ちなみに、後のアッバース朝下で有力家系となるバルマク家はササン朝支配下のバクトリアで仏教寺院ナヴァ・ヴィハーラの管長を世襲していたが、イスラーム勢力により拉致され、イスラームに改宗したペルシャ系一族である。

2016年7月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝(連載第20回)

二十 李昰応・興宣大院君(1820年‐1898年)

 勢道政治に呑まれ、全く権能を発揮できなかった25代哲宗が1863年に没すると、転機が訪れた。まだ存命していた24代憲宗生母の神貞王后が動き、26代国王として、全くの王室傍流にあった李昰応の次男・高宗を即位させる。
 李昰応は22代正祖の異母弟の養子の四男という王室の遠縁で、血統上は16代仁祖の子孫に当たるが、すでに王族としての待遇はされていない一族の出自であった。従って、李昰応自ら王位に就くことはできず、その次男を神貞王后の養子とした上で即位させるという変則的な手法が採られたのだった。
 李昰応の一族は先述したように、王族待遇を受けていなかったため、青年時代の彼はならず者と交際するなどの無頼生活を送っていたが、実のところ、政治的な野心は隠し持っていたようで、さしあたり神貞王后に接近し、その評価を勝ち取ったことが、立身出世の契機となった。
 李昰応には長男もあったが、年少の次男に白羽の矢が立ったのは、そのほうが神貞王后‐李昰応ラインで操作しやすいと踏んだからであろう。この新体制では、李昰応が国王実父・大院君の立場で政治の実権を握った。
 実権を掌握した大院君・李昰応は正式の国王ではないものの、彼が実権者だった時期には、事実上国王を凌ぐ実質的な君主であった。彼の新体制には、改革的な要素と保守的な要素の二面性があった。
 改革的要素は主として内政面で、従来弊害著しかった勢道政治の一掃を図ったことである。最高機関である議政府を立て直し、勢道勢力以外からの人材登用を行なったほか、三政の紊乱を正すため、法典の整備や監察制度の強化なども断行した。
 他方で、王族を要職に就けて王室の権力を強化したほか、改めて国教・国学としての儒教を重視し、キリスト教を弾圧するなどの保守的な一面があった。
 しかし、大院君政治の保守的な一面が最も色濃く現れたのは、対外政策であった。この頃になると、ロシアやフランス、アメリカなど列強が朝鮮に開国を迫るようになってきたが、李昰応はこれをことごとく排撃する強硬方針で臨み、たびたび洋擾事件を引き起こした。
 李昰応の失敗は、勢道勢力排除の目的から、息子高宗の妃として、自身の正室の出身でもあった傍流門閥・驪興閔氏出身の閔妃を立てたことであった。彼女は野心家であり、次第に大院君と敵対するようになる。
 しかし、専制君主のように振舞う大院君に対しては、王室家長的な立場の神貞王后からも批判を受けるに至り、1873年、ついに大院君弾劾書が提出され、大院君は失権することとなった。
 代わって実権を握ったのは、高宗ではなく、閔妃であった。しかし、闘争的な李昰応の政治生命はこれで尽きることなく、ここからさらに二度の復権を果たすのである。
 一度目の復権は、1882年、壬午軍乱の時である。この政変は、閔妃体制が導入した新式軍隊に不満を持つ旧式軍隊の軍人らが主導したクーデター事件であったが、この際、大院君が担ぎ出される形で復権したのである。
 しかし、第二次大院君政権は清と結託した閔妃側の策略によって失敗に終わり、大院君は清国に連行、幽閉されてしまう。しかし、大院君はなおも復権を画策し、清から帰国すると、新興宗教の東学党に接近するという奇策に出る。
 1894年には東学党を主力とする甲午農民戦争を利用しつつ、閔妃と険悪化していた明治日本にも接近し、日本を後ろ盾に、二度目の復権を果たすのである。しかし、これは日本の傀儡に近い政権であり、たちまち日本との不和に陥り、短期間で失権させられた。
 すでに70歳を越えていた李昰応はなおも復権に執着し、ついには改めて日本と結託し、閔妃暗殺計画に加担することになる。彼は閔妃を排除して、孫の永宣君を新国王に擁立する計略を練っていたのだった。こうして閔妃暗殺は1895年、実際に起きたが(乙未事変)、直後に親露派の対抗クーデターが起き、李昰応の計略は砕かれた。
 乙未事変を機に、従来から不和だった高宗とも決裂、以後の李昰応は完全に政治の表舞台から退き、98年、その波乱に満ちた長い生涯を閉じた。彼は生涯正式の国王とはならなかったが、孫の純宗の時、国王に準じて大院王を追号されている。
 李昰応の治世の評価は分かれるが、政治的に無能な息子の高宗に代わり、衰退の一途だった朝鮮王朝を一時的に建て直し、延命した功績はあるにせよ、対外政策が保守的に過ぎたことや、晩年は野心的な嫁の閔妃との権力闘争に明け暮れたことで、その功績は相当に相殺されてしまったと言える。

2016年7月 6日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第11回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

インド‐グリーク朝と仏教
 仏教創始者・釈迦の出身地は北インドであったから、仏教がさらに北方へ伝播されることは自然な流れであった。その点、マウリヤ朝のアショーカ王は今日のアフガニスタンを中心とするガンダーラの征服を通じて、この地域にも仏教を伝え、仏塔などの仏教建築物を残している。
 元来、ガンダーラは古代インド十六大国の中の一つに数えられた北方の部族国家であったが、やがてイラン系アケメネス朝ペルシャの版図に組み込まれたことで、イラン化されていった。アケメネス朝が衰退した後、マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征を経て、その後継王朝セルウコス朝からインド系マウリヤ朝がこの地を奪回したのである。
 しかし、マウリヤ朝支配も長続きせず、やがてアレクサンドロスの遠征以来、この地に入植・土着していたギリシャ人勢力が台頭してくる。ここに成立したのが、文化的にも興味深いインド‐グリーク朝と呼ばれるギリシャ人王国である。
 この王朝の前身は、セレウコス朝総督だったディオドトスが紀元前3世紀半ばに独立して建国したグレコ・バクトリア王国であるが、これが前2世紀前半にバクトリア領とインド亜大陸領とに分裂し、そのうち後者に成立したのが、インド‐グリーク朝である。
 インド‐グリーク朝の支配層はギリシャ系であり、その本来的な宗教は当然にもギリシャ多神教であったが、マウリヤ朝支配下で仏教に帰依する者が増加していた。これは、当地の少数異民族としてギリシャ人がインド社会に同化するうえで、身分制度の厳格な伝統宗教バラモン教よりは、後発宗教であった仏教への改宗が選択された結果と見られる。
 インド‐グリーク朝最盛期を演出したのは、メナンドロス1世である。仏典上にも「ミリンダ王」として登場する彼は、インドの高僧ナーガセーナとの問答を通じて仏教に改宗したとされる「ミリンダ王の問い」の逸話で知られている。
 しかし半ば伝説であり、グリーク朝が正式に仏教を国教化したわけでもなく、グリーク朝自体もメナンドロス1世の没後、周辺遊牧民勢力の侵入を受けて分裂・衰退し、群雄割拠を続けた後、紀元後1世紀初頭までにはほぼ滅亡・消滅した。
 こうして、インド‐グリーク朝―広くはインド‐ギリシャ人―の支配は長続きすることはなかったのだが、かれらの―全部ではないにせよ―仏教受容は、やがてこの地に花開くガンダーラ仏教の嚆矢としての意義を持ったと言える。

2016年7月 3日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第19回)

八 日本語の分化と統一

 ある言語が支配的言語としていったん定着すれば、日常の口語としても常用され、しかも口語体の性質として方言分化が必至である。日本語の場合は、前段階の倭語の段階からすでに方言分化は進行していたが、日本語がひとまず確立された中世以降になると、方言分化も確固としたものとなった。
 その結果、前回見た琉球方言のように、部分通訳を必要とするほどの強方言も生じた。おそらく、今日でも部分通訳を要する東北地方の方言も北方の強方言として発達したものと思われる。

 こうした方言分化は、中世以降の封建的地方分立の時代には格別の問題を生じなかった。この時代、人々は自身が属する封建領土の属民・領民という意識しかなく、また人々の交渉も封土内とせいぜいその周辺地域にほぼ限局されていたから、全土的共通語は必要とされなかったのであった。
 ただし、中央言語としては、やはり天皇の伝統的な所在地であった京都の方言が高い権威を持っており、首府江戸の方言も関東の一方言に過ぎなかった。その状況が一変するのは、明治維新後のことである。

 維新政府が急いだのは、封建的分立体制の完全な解体と、西洋的な国民国家の建設であった。国民国家は全国民にとっての共通語を必要とする。ところが当時の日本語の方言差は、近代的な軍隊内で出身地の異なる兵士間では言葉が通じないほど大きかったとされ、指揮命令系統の確立にも障害が出た。
 それだけが理由ではないにせよ、政府は「標準語」の確立を急ぎ、その際、京都方言ではなく、江戸方言が基礎に据えられた。そのうえで、学校教育を通じた「方言矯正」の必要性が叫ばれ、方言使用者への罰として「方言札」が利用されるなど、方言抑圧政策が敷かれた。*特に琉球「処分」(併合)後の琉球では、琉球方言抑圧策が強化された

 このようにして、今日の標準語の基盤が築かれていくが、学校教育が十分普及せず、かつ全国的なマス・メディアが未発達な間は、標準語の普及も不十分であり、反面、方言はそれぞれの地方で残存し続けたのである。
 とはいえ、日本では政府が言語の「標準」を定め、国民に教化するという国語政策が当然のこととして定着した。このことは、政府当局が国語政策を通じて国民の思考様式や思考内容まで統制することを可能にしている点には、注意が必要である。

2016年7月 1日 (金)

私家版朝鮮国王列伝(連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。

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