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2016年7月

2016年7月28日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第13回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

西域諸国と北伝仏教
 今日、日本をはじめ、東アジアで主流を成す大乗仏教はガンダーラに発し、北方ルートで中国を経て伝来したことから、北伝仏教とも呼ばれるが、その伝来ルートについて確実な定説は見られない。
 大雑把には、クシャーナ朝の版図拡大の下、中央アジア出身の大乗系仏教僧らが中国大陸に仏教を宣教した結果と想定されているが、この「中央アジア」には、いわゆる西域のオアシス諸国も含まれる。
 東西トルキスタンを指す西域には、多くのオアシス小国家が点在し、統一国家が形成されることはなかったが、これらオアシス諸国の支配層は多くがアーリア系の民族から成っていた。西域には早くから仏教が伝わっており、諸国の事実上の国教に近い存在となっていたが、宗派は上座部系と大乗系とが同居し、多様であったようである。
 例えば、楼蘭の名で知られるクロライナでは、鄯善国を名乗っていた西暦400年頃、この地を訪れた中国僧法顕が、極めて組織された上座部系の僧団の存在を報告しているが、3世紀半ば頃のカローシュティー文書は、国王を大乗仏教信者としており、両宗派が同居していた(もしくは、時代的変遷があった)可能性がある。
 一方、クチャ(亀茲)は、上座部から分派した説一切有部の中心地となったが、後に大乗仏教が盛んになるなど、時代的変遷が見られる。クチャからは、南北朝時代以降、唐の時代にかけ、中国に多くの僧が渡来している。
 西域における最大の大乗仏教国として定着するのは、コータンナ(ホータン:于闐とも。以下、ホータンという)である。伝承によれば、ホータンは紀元前3世紀頃、インドのマウリヤ朝仏教王アショーカの王子の一人によって建設された都市に由来するという。
 ホータンに仏教が導入されたのは、紀元前1世紀のはじめ頃のこととされる。前出法顕の報告によれば、ホータンにも極めて組織的な僧団があるだけでなく、仏教が民間習俗としても根付いていたという。
 ホータンはシルクロード貿易の中心地であるだけでなく、布教・巡礼僧の往来する交差点でもあり、当地の僧院は、そうした僧向けの宿泊施設としての役割も果たしていたようである。
 ホータンの歴史的な貢献として、法華経や金光明経のような重要文献を含む多量の大乗仏教経典の写本を残したことが挙げられる。ホータン独自の文献としては、詩篇の形態で仏教経典の集成を試みた『ザンバスタの書』が知られる。このような言わば一般向け仏教思想書の存在は、ホータンにおいて仏教が習俗化され、人々の人生観にも深く影響していたことを示唆する。
 ホータンは7世紀に大国化した吐蕃(チベット)の属国となったことで、仏教系術語や仏典の翻訳技術を伝え、後のチベット仏教が大乗仏教系の性格を帯びるうえで、少なからぬ影響を及ぼしたと見られる。

2016年7月23日 (土)

世界ボケモン化計画

 目下、世界を駆け巡るポケモンGOは、世界を激変させるかもしれない。ただし、残念ながら、良い激変ではない。
 「歩きポケモン」は普通の「歩きスマフォ」以上に没入しやすいため、交通事故、接触・転倒事故、侵入事件の多発等の危険性はいっそう高く、社会秩序混乱の恐れがある。その意味で、今度の新規商品開発はもはや「ゲーム漬け」のような生易しい問題では済まず、娯楽資本として一線を越えた観がある。
 社会秩序問題をさておいても、四六時中ポケモンに夢中、他のことは眼中に無しという没頭状態になるほど、政治的・社会的な問題に無関心な人間も増え、為政者らはやりたい放題である。従って、社会秩序混乱のコストを負担してでも、為政者らは「ポケモン禁止令」などは出さず、むしろ奨励するだろう。
 ポケモンならぬ世界ボケモン化計画―。
 元来、ファミコン時代以来、電子ゲームの爆発的普及にはそうした資本主義の総愚民化戦略という政治的な側面もあったのだが、ポケモンGOはその究極段階となるかもしれない。人々がすぐに飽きてしまわなければだが。
 ただ、モードの主導者が今回は日本資本以上に米国資本であったことは、日本経済の現状を象徴しているのか。

2016年7月18日 (月)

日本語史異説―悲しき言語(連載第20回)

九 標準日本語の特徴

 現在では共通語として全国的に通用し、日本人にとっては空気のように当たり前になっている標準日本語だが、この言語は純然たる計画言語ではないにせよ、かなり人為的に作り出された言語として、いくつかの特徴を持っている。

 まずそれは関東方言の中でも、江戸方言、とりわけ上層武士層が使用し、明治維新後は高級住宅地となる山の手の言葉をベースとしていることである。そのため、敬語体系が発達しており、これが現代の標準日本語にも継承されている。
 それとも関連して、明治期の山の手住民の女学生間で流行的に発生した敬語体の変種である「上品」な女性言葉が標準日本語に取り込まれ、女性特有の言葉使いとして定着したため、表現の上でのジェンダー分割が他言語でも例を見ないほど高度化した。

 さらに言文一致体であり、従来の文語体と口語体の区別が存在しない。このことは、文章語を平易なものとし、庶民層にとっても文章を綴りやすくする効果を持ったが、反面、文章語の格調を相当程度低下させることにもなった。

 一方で、明治維新後に洪水のごとく流入してきた西洋文献の翻訳の必要上、数多くの新たな和製漢語が創出されたことも特徴である。その限りでは、標準日本語には一種の計画言語性も認められる。この点で個人として多大の貢献をしたのが、まさに「哲学」という漢語の創始者でもある哲学者・翻訳家の西周[にしあまね]であった。
 その西周は新漢語の創出に苦労したせいか、漢字仮名交じり文の廃止と、洋字(ローマ字)による表記法を提唱するに至ったが、これは採用されず、中世以降確立されていた漢字仮名交じり文体は標準日本語に引き継がれた。

 当初は漢字片仮名併用主義であったが、第二次大戦後、新たな外来語の流入により外来語が増大したこともあり、原則的に漢字平仮名交じり文とし、外来語を片仮名表記する形で、三種文字併用主義に定着した。ただし、外来語の一部やデザイン的な表記にあっては、ローマ字を使用することもあり、これを加えるなら、四種文字併用主義とも言える。
 こうした表記法の複雑さに対応して、政府が国語政策として表記法に介入するようになった。国家主義が高まる昭和初期には、正式に国語審議会(現文化審議会国語分科会)が設置され、特に漢字の使用制限に重点が置かれたが、漢字廃止論は採用されていない。

 以上のような特徴を持つ標準日本語は、語彙の点で和製漢語と外来語が増大し、本来の和語の比率が低下したことにより、日本語の前身体たる倭語からの隔たりが大きくなり、別言語とは言わないまでも、近代日本語という新たな言語発展段階を画するものとなったと言える。

2016年7月14日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第12回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

クシャーナ朝と大乗仏教
 インド‐グリーク朝が衰退・分裂した後に、その地で台頭してきたのは、イラン系遊牧諸民族であった。初めはパルティアであり、紀元後間もなく、当地に残るギリシャ人勢力残党を駆逐したのは、かれらであった。
 そのパルティアがローマ帝国との抗争や元来分裂気味の遊牧王朝の特質から衰退し始めると、西方から移住したきた遊牧勢力大月氏の一派とも言われるクシャーナが勢力を増す。大月氏は当初、五部族による連合体であったが、その中からクシャン族のクジュラ・カドフィセスが有力化し、統一王朝を樹立する。
 ここにクシャーナ朝が成立を見るが、クシャーナ朝全盛期を演出したのは、4代国王と目されるカニシカ1世(以下、単にカニシカという)である。カニシカは北西インドのプルシャプラ(現ペシャワル)を首府としつつ、インド東部にまで及ぶ広大な王国を築いた。
 こうした征服者としての顔とともにカニシカを有名にしたのは、仏教の保護者としての顔である。北伝仏教系の記録上は、カニシカが大乗仏教の帰依者であったとされるが、確証はなく、彼の発行貨幣の図像からは、他宗派にも寛容だった形跡がみてとれる。
 ただ、南のスリランカが一大拠点となっていた上座部仏教と対立する意味での大乗仏教の発祥地がクシャーナ王国領内の文化的な中心地ガンダーラにあったことは、ほぼ間違いない。ガンダーラ美術として知られる融合文明的な仏教美術はその産物である。
 とりわけ、仏教の偶像崇拝的な特質の象徴でもある仏像は元来ギリシャ人仏教徒が創始し、パルティア支配の時代を通過して、クシャーナ朝の時代に全盛期を迎え、ガンダーラ美術の代表作となる数々の仏像を生み出した。ガンダーラ仏像は当然にも、その製作者たちの形質的な特徴を反映して、コーカソイド的な風貌に彫刻されている。
 論争はあるも大衆部に由来するとされる大乗仏教は、ガンダーラのような文明の交差点にあって、ギリシャ文明やインド文明、イラン文明など種々の文明要素が融合されて仏教がいささか型崩れし、言わば通俗化される中で形成されたのかもしれない。
 いずれにせよ、ガンダーラを起点とする新たな仏教が、中央アジアを介してシルクロード伝いに東アジアまで伝播していくことになる。カニシカにそうした「布教」の明確な意図があったとは思えないが、結果的に彼はそうした北伝仏教のパイオニアとなったと言える。
 しかし、クシャーナ朝自体はカニシカの没後、衰退を続け、3世紀に台頭したイラン系ササン朝によって滅ぼされた。ササン朝はゾロアスター教を信奉し、他宗派には抑圧的だったが、仏教はササン朝領内の残存クシャーナ勢力の下で、しばらくは維持されたようである。しかし、それも7世紀、イスラーム勢力のペルシャ侵攻によるササン朝の滅亡とともに潰えた。
 ちなみに、後のアッバース朝下で有力家系となるバルマク家はササン朝支配下のバクトリアで仏教寺院ナヴァ・ヴィハーラの管長を世襲していたが、イスラーム勢力により拉致され、イスラームに改宗したペルシャ系一族である。

2016年7月 6日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第11回)

四 中央アジア諸王朝と仏教

インド‐グリーク朝と仏教
 仏教創始者・釈迦の出身地は北インドであったから、仏教がさらに北方へ伝播されることは自然な流れであった。その点、マウリヤ朝のアショーカ王は今日のアフガニスタンを中心とするガンダーラの征服を通じて、この地域にも仏教を伝え、仏塔などの仏教建築物を残している。
 元来、ガンダーラは古代インド十六大国の中の一つに数えられた北方の部族国家であったが、やがてイラン系アケメネス朝ペルシャの版図に組み込まれたことで、イラン化されていった。アケメネス朝が衰退した後、マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征を経て、その後継王朝セルウコス朝からインド系マウリヤ朝がこの地を奪回したのである。
 しかし、マウリヤ朝支配も長続きせず、やがてアレクサンドロスの遠征以来、この地に入植・土着していたギリシャ人勢力が台頭してくる。ここに成立したのが、文化的にも興味深いインド‐グリーク朝と呼ばれるギリシャ人王国である。
 この王朝の前身は、セレウコス朝総督だったディオドトスが紀元前3世紀半ばに独立して建国したグレコ・バクトリア王国であるが、これが前2世紀前半にバクトリア領とインド亜大陸領とに分裂し、そのうち後者に成立したのが、インド‐グリーク朝である。
 インド‐グリーク朝の支配層はギリシャ系であり、その本来的な宗教は当然にもギリシャ多神教であったが、マウリヤ朝支配下で仏教に帰依する者が増加していた。これは、当地の少数異民族としてギリシャ人がインド社会に同化するうえで、身分制度の厳格な伝統宗教バラモン教よりは、後発宗教であった仏教への改宗が選択された結果と見られる。
 インド‐グリーク朝最盛期を演出したのは、メナンドロス1世である。仏典上にも「ミリンダ王」として登場する彼は、インドの高僧ナーガセーナとの問答を通じて仏教に改宗したとされる「ミリンダ王の問い」の逸話で知られている。
 しかし半ば伝説であり、グリーク朝が正式に仏教を国教化したわけでもなく、グリーク朝自体もメナンドロス1世の没後、周辺遊牧民勢力の侵入を受けて分裂・衰退し、群雄割拠を続けた後、紀元後1世紀初頭までにはほぼ滅亡・消滅した。
 こうして、インド‐グリーク朝―広くはインド‐ギリシャ人―の支配は長続きすることはなかったのだが、かれらの―全部ではないにせよ―仏教受容は、やがてこの地に花開くガンダーラ仏教の嚆矢としての意義を持ったと言える。

2016年7月 3日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第19回)

八 日本語の分化と統一

 ある言語が支配的言語としていったん定着すれば、日常の口語としても常用され、しかも口語体の性質として方言分化が必至である。日本語の場合は、前段階の倭語の段階からすでに方言分化は進行していたが、日本語がひとまず確立された中世以降になると、方言分化も確固としたものとなった。
 その結果、前回見た琉球方言のように、部分通訳を必要とするほどの強方言も生じた。おそらく、今日でも部分通訳を要する東北地方の方言も北方の強方言として発達したものと思われる。

 こうした方言分化は、中世以降の封建的地方分立の時代には格別の問題を生じなかった。この時代、人々は自身が属する封建領土の属民・領民という意識しかなく、また人々の交渉も封土内とせいぜいその周辺地域にほぼ限局されていたから、全土的共通語は必要とされなかったのであった。
 ただし、中央言語としては、やはり天皇の伝統的な所在地であった京都の方言が高い権威を持っており、首府江戸の方言も関東の一方言に過ぎなかった。その状況が一変するのは、明治維新後のことである。

 維新政府が急いだのは、封建的分立体制の完全な解体と、西洋的な国民国家の建設であった。国民国家は全国民にとっての共通語を必要とする。ところが当時の日本語の方言差は、近代的な軍隊内で出身地の異なる兵士間では言葉が通じないほど大きかったとされ、指揮命令系統の確立にも障害が出た。
 それだけが理由ではないにせよ、政府は「標準語」の確立を急ぎ、その際、京都方言ではなく、江戸方言が基礎に据えられた。そのうえで、学校教育を通じた「方言矯正」の必要性が叫ばれ、方言使用者への罰として「方言札」が利用されるなど、方言抑圧政策が敷かれた。*特に琉球「処分」(併合)後の琉球では、琉球方言抑圧策が強化された

 このようにして、今日の標準語の基盤が築かれていくが、学校教育が十分普及せず、かつ全国的なマス・メディアが未発達な間は、標準語の普及も不十分であり、反面、方言はそれぞれの地方で残存し続けたのである。
 とはいえ、日本では政府が言語の「標準」を定め、国民に教化するという国語政策が当然のこととして定着した。このことは、政府当局が国語政策を通じて国民の思考様式や思考内容まで統制することを可能にしている点には、注意が必要である。

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