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2016年6月16日 (木)

私家版朝鮮国王列伝(連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。

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