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2016年6月

2016年6月29日 (水)

アベノミクスの終幕

 今般参院選の最大争点は「アベノミクスの是非」だとされる。しかし、政権選択に関わらない参院選は最終総括ではなく、中間総括である。とはいえ、次の結論はすでに見えている。;アベノミクスは一定の成果は上げたが、終幕を迎えている。
 元来、アベノミクスとは世界大不況後、東日本大震災に直撃された日本経済を立て直す期間限定の救済策にほかならず、その中心は大資本支援を通じた株価対策だった。これについては、ある程度成果を出したが、結局、東証平均株価2万円台を安定的に維持するまでには至らなかった。
 政権の規定上の残任期2年余りで達成できるという見込みも、新興国経済の下降と英国のEU脱退というハプニングにより、ほぼ潰えたと言ってよいだろう。となると、アベノミクスも終幕を迎えることになる。
 おそらく賢明なる政権の主もそのことは理解されているのだろう、参院選の争点としてはぼやかしながらも、政権の残任期では、経済対策から最大の政治的悲願である改憲プロセスの始動へシフトする構えを見せているところである。
 他方、反安倍野党連合が提案する擬似社会民主主義的な転回策も、資本主義自体が終末期に入ってきている段階では、十分な成果を上げる見込みはないが、終末期に伴う痛みを緩和するケア的な意義なら認められるかもしれない。

2016年6月24日 (金)

日本語史異説―悲しき言語(連載第18回)

七 琉球語の位置づけ

 日本語の発達を考えるうえで無視できない個別問題は、琉球語の位置づけである。琉球語は基本的な構造や語彙において、本土の日本語とかなりの共通点を持ちながらも、独自の発音体系や語彙も擁するという微妙な位置にあるため、方言なのか、独自言語なのかをめぐって専門家の意見も分かれている。

 この点、本土の平安時代頃に至るまで石器時代が長く続いた琉球の成り立ちから考えれば、元来は本土とは異なる言語が成立していたと見るべきであろう。*遺伝的には、沖縄人に本土日本人では少数派のハプログループM7aを持つ割合が比較的高い。
 これが根本的に変化するのは、12世紀頃、琉球も農耕社会に入ってからである。この革命的な社会変化の触媒となったのは、九州地方を中心とする本土人の移住であった。この移住は、琉球人を形質上も本土日本人と同質的なものに転換してしまうほどの大移住だったと考えられる。
 それだけまとまった規模の移住民があれば、原琉球語に代わって、本土日本語が共通語化する言語交代も説明できる。ただし、そうした外来土着言語の常として、先行現地語の特徴(琉球語の場合は特に発音)を相当に吸収したため、琉球語は特有の方言性を帯びることとなった。よって、琉球語は日本語と全く別個の独自言語ではなく、日本語の方言ということになるだろう。

 ちなみに、言語専門家は方言をその固有性によって分類するということをしないが、方言にも標準語からの偏差には濃淡があり、最大限度では、標準語との間に部分通訳を必要とするほど偏差が大きい場合もある。そのような方言を「強方言」と名づけるとすれば―その対語は「弱方言」―、琉球方言は日本語の強方言と言えるだろう。

 実際のところ、琉球方言はそれ自体がさらに北部方言と南部方言とに下位区分され、琉球王国時代の支配中心は北部方言域にあり、特に首里方言が公用語であった。これに対し、元来は独自の文化を持っていた先島諸島を中心とする後者は「方言の方言」としての固有性を持つ。南部方言は、琉球王朝の支配が先島諸島へも及ぶ過程で、長く維持されていた独自言語が琉球語化されていったものと考えられる。

2016年6月21日 (火)

仏教と政治―史的総覧(連載第10回)

三 スリランカの仏教化

植民地化と仏教の消長
 スリランカ仏教は、16世紀のポルトガル人の到来により、大きな転機を迎える。ポルトガルは当時、西海岸で有力だったコーッテ王国や北部のジャフナ王国への攻勢を強め、植民都市コロンボを中心にスリランカ支配を開始した。
 ポルトガル人はスリランカ(シンハ・ディーパ)をセイラーン(セイロン)と呼んだ。このポルトガル領セイロンの時代、ポルトガルはカトリックの布教活動を展開した。これは仏教を揺るがしたが、当初ポルトガルと同盟して勢力を伸ばしたキャンディ王国ではカトリックにも比較的寛大な政策を採った。
 しかしポルトガルがキャンディ王国を脅かすようになると、王国は17世紀初頭、ジャワ島に拠点を置きつつ、セイロンにも手を伸ばしてきたオランダに支援を求める。セイロンをめぐるオランダとポルトガルの攻防は1601年から60年に及ぶ歴史的な長期戦となったが、最終的にオランダの勝利に終わった。
 これにより、18世紀末までオランダ領セイロンの時代に入る。プロテスタント系のオランダはキリスト教の布教にポルトガルほど熱意を示さなかったため、結果的に仏教は保護され、復興の兆しも見えていた。
 この流れが再び転換するのは、フランス革命戦争でフランスに本国を占領されたのを契機に、英国がオランダ植民地に対して攻勢をかける中、18世紀末にセイロンが英国に攻略されてからである。
 ナポレオン戦争後の1815年ウィーン会議でセイロンが正式に英国領と認められると、英国は同年の条約でキャンディ王国を保護国化し、17年にはこれを併合した。
 英当局はキリスト教徒を優遇し、宣教師の活動を積極的に支援する一方、インド南部から紅茶プランテーションの労働力としてヒンドゥー教徒のインド・タミル人を大量移入させ、ヒンドゥー教徒の割合が増えた。
 このことは、シンハラ人のナショナリズムを刺激し、18世紀から進められていた仏教の復興を促進した。その際、スリランカ仏教は、当時スリランカから伝播した上座部仏教の中心地となりつつあったタイやビルマから逆輸入する形で再編されたのだった。
 こうした仏教復興の動向は、20世紀における英国からの独立後に仏教系シンハラ人とヒンドゥー系タミル人との対立抗争を深める契機となった。その点で、英領セイロン時代は、仏教を近代民族主義と結びつける準備期間であったと言える。

2016年6月14日 (火)

西洋医学の思考枠組み

 かつて、生と死の問題を司るのは宗教と呪術であったが、今や、圧倒的に西洋医学とそれに基づく医療である。もちろん、国や地域間の格差はなお相当にあり、いまだに宗教と呪術が盛んな場所もあろうが、ここではいわゆる先進諸国・地域を前提とする。

 個人的には宗教と呪術もお断りだが、西洋医学の病院は超の付く苦手である。子ども時代は学習された恐怖心からであったように思うが、現在は西洋医学への違和感が大きい。検査や手術への恐怖心もありますが。その感覚がどこから来るのかよく考えてみると、西洋医学の基本的な思考枠組みにあるようである。

 西洋医学は人体を機械のように見立て、病気は機械の故障であり、その故障を修理するのが病院であると発想している。だから患者は壊れた機械として扱われ、体の内部を放射線や内視鏡によってスキャンされたうえ、故障箇所を特定され、故障の内容・状態によって修理法が導出される。
 投薬は動きの悪くなった機械部品への薬品による回復術であり、西洋医学の真骨頂である外科手術は壊れた機械部品の分解修理であり、近年定着してきた臓器移植手術は機械部品の交換そのものである。
 こうした一連の修理作業を実施する病院は機械の修理場であり、大規模総合病院ほど工場に似たシステムを実際に備えている。

 病院に行ったときに感じる独特の違和感は、こうした人間修理工場的な雰囲気から来ているとわかる。近年でこそ、「患者様の人権」「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)」等々がリップサービス的に掲げられているが、西洋医学が人間機械論的な発想を維持する限り、患者は壊れた機械扱いのままである。

 西洋医学が人体を独自の人生や価値観や死生観を背負った有機体として尊重し、言葉だけでない「患者の人権」「QOL」を徹底的に保障する思考枠組みに変革される可能性はあるだろうか。そうあってほしいと願うが、そういう変革を阻む学界権威主義や製薬/医療機器資本と結びついた営利主義といった阻害要因はあまりにも多いと感じられる。

2016年6月 8日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第9回)

三 スリランカの仏教化

仏教王朝の確立
 仏教を受容したアヌラーダプラ王朝は古く前6世紀代におそらくはベンガル地方から移住してきた集団によって樹立され、前回見たマヒンダ僧正の渡来・布教によって仏教を受け入れて以降は、ぶれることなく、南伝仏教の中心地となった。
 前1世紀頃、第四回結集がスリランカのアルヴィハーラ石窟寺院にて開催されたとの伝承も、スリランカが上座部仏教の中心地として確立されたことを示唆している。ただ、前1世紀から4世紀にかけ、大寺派から二つの分派が生じ、分派では北伝の大乗仏教を受容する動向も生じ、宗派的には混迷が続くこととなった。
 とはいえ、アヌラーダプラ王朝は、マヒンダも出自したマウリヤ朝をはじめ、インド亜大陸部の諸王朝とは異なり、仏教が王個人の信仰にとどまらず、事実上の国教となったことを大きな特徴とする。その要因としては、亜大陸部から離れた島嶼部スリランカではバラモン教が希薄で、外来の仏教が受容されやすかったことが考えられる。
 また、亜大陸部とは異なり、地理的にも閉鎖的な島国ゆえ、アヌラーダプラ王朝は対抗的な王朝の挑戦を受けることなく、1500年以上にわたり持続したのであった。ただ、南インドのタミル系パーンディヤ朝による侵略を受けて次第に衰退し、最終的には11世紀初頭、同じタミル系チョーラ朝の侵攻を受けて中部のポロンナルワに亡命・遷都した。
 ポロンナルワ朝は改めて大寺派を正統と定め、分派を弾圧したことで、スリランカの大乗仏教は衰退し、上座部系で確定した。同王朝は13世紀まで存続するが、次第に衰亡し、同世紀末に終焉した。
 その後、シンハラ系王国は分裂するが、15世紀初頭に成立したコーッテ王国が北部のタミル系ジャフナ王国と対抗しながら、一時全土支配に成功する。しかし、これも大航海時代を迎えたポルトガルの侵食を受け、16世紀末には滅亡した。
 代わって台頭してきたのは、中央部を本拠とするキャンディ王国であった。この王国は元来、コーッテ王国の属国であったが、ポルトガルと協力・同盟して支配を確立していった。
 キャンディ王国は伝統的な仏教を国教としつつも、18世紀に王家がドラヴィダ系テルグ人に転換されるとヒンドゥー教の要素も受容し、他方ではポルトガル人が持ち込んだカトリックも保護するなど、複雑化する内外情勢下、多宗教の共存を基盤としていた。
 しかし、西洋列強のアジア進出が本格化し、17世紀以降、スリランカに進出する列強がポルトガルからオランダ、イギリスへと移り変わる中、キャンディ王国はその波に飲み込まれていくのである。

2016年6月 2日 (木)

経済危機前夜論

 安倍首相が伊勢志摩サミットでぶち上げた「リーマンショック級危機前夜」論は、空振りに終わったようであるが、歴代、外では寡黙な内弁慶の日本首相の提起がこれほど国際的に関心を集めるのは珍しい。
 とはいえ、安倍首相の認識ははたして荒唐無稽だったのだろうか。たしかにこの問題提起の裏には消費増税先送りの大義名分にG7を利用したかったという思惑もあったのだろうが、晩期資本主義下で世界経済が不安定化しており、しかも頼みの中国経済の下降という要因を加味すると、危機前夜認識もそう荒唐無稽ではないと言える。
 ただ、欧州ではドイツが堅調で、ドイツが牽引する小繁栄的現象(拙稿参照)の兆候が見られることで、ドイツのメルケル宰相がとりわけ安倍認識に否定的であったのは注目される。しかし、そのドイツも中国市場に依存しており、国内的にも新自由主義政策の結果としての格差拡大や貧困問題が内在し、決して楽観はできない。
 安倍首相の提起はあまりにも「選挙前夜」の国内政治情勢を反映しすぎていたのではあるが、油断に対する警告的な意味合いはあったのではないか。もちろん、首相が資本主義の終焉を予知しているとは思えないが。

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