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2016年5月18日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第8回)

三 スリランカの仏教化

マヒンダの渡来
 今日、インドを軸に地政学上の南アジアを構成するネパール、ブータン、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、モルディブの7か国のうち、仏教徒が多数を占めるのは南端の島国スリランカと北辺の内陸国ブータンに限られている。
 しかし、ブータンはチベット系の国であるため、インド系の国に限れば、インド亜大陸の島嶼部を成すスリランカだけが仏教優勢国となっている。それだけ亜大陸部での仏教は衰滅したことを意味している。
 スリランカの民族構成は大雑把に言って、多数派仏教徒のシンハラ人と少数派ヒンドゥー教徒のタミル人から成るが、このうちシンハラ人は遺伝子系譜上ベンガル人に最も近いとされている。
 このことは、シンハラ人がベンガル地方からの移住集団であることを示唆している。スリランカ建国神話によれば、スリランカ最初の王ウィジャヤ(紀元前6世紀後半)は北インドから移住してきたとされるが、この「北インド」とは、スリランカから見て「北」に位置するベンガル地方を指すと解することもできる。
 そのスリランカ―シンハラ人―が仏教化されるに当たっては、伝承上アショーカ王の長男マヒンダの渡来と彼による布教が出発点となったとされている。マヒンダ王子の半生は、釈迦のそれと重なるところがある。
 元来マヒンダは父王から後継者に望まれていたが、母のカースト身分が低かったことから、国内のバラモン教勢力に配慮して、後継から外されたという。結局、彼は比丘となり、国を離れ、辺境の島国スリランカに移住することになった。
 なぜスリランカであったのかについては、精神的な動機と政治的な動機の双方が指摘されている。後者は、マヒンダが王位継承戦争に巻き込まれるのを恐れた父王の差配によるという。
 いずれにせよ、マヒンダと彼に随行した比丘団がスリランカにもたらしたのは、上座部仏教であった。このことは、この時期、すでに仏教の根本分裂が起きていたことを示唆する。
 マヒンダが伝えたのは、上座部の中でも分別説部と呼ばれる一派であった。これはアショーカ・マヒンダ父子の導師でもあり、第三回結集を理論指導した高僧モッガリプッタ・ティッサが採った説に由来するようである。
 幸いにして、当時のスリランカ王デーワーナンピヤ・ティッサは仏教の受容に積極的で、伝承上紀元前247年6月の満月の日にマヒンダと出会ったとされる王は自ら仏教に帰依するとともに、王都アヌラーダプラにマハーヴィハーラ(大寺)を建立した。
 これ以降、マハーヴィハーラがスリランカ仏教(赤銅鍱部)の中心的寺院となり、大寺派と呼ばれる主流派が形成されていった。大寺派は後世、東南アジアにも伝播し、いわゆる南伝仏教の起源ともなる。
 ちなみに、マヒンダに遅れて彼の妹サンガミッターも比丘尼らを伴ってスリランカに渡来し、比丘尼団の形成に寄与している。このようにアショーカ一族による大掛かりな布教活動を見ると、これはアショーカ王を後援者とする政策的なスリランカ布教プロジェクトの一環であった可能性も認められよう。

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